16.16 アリエル達の奮闘 後編
フライユ伯爵領の北の高地に誕生した学校、メリエンヌ学園には多様な施設が存在する。学園には、学生達に授業を行う本館だけではなく、寮である宿泊棟、教員棟、それに研究者が集う研究棟まで存在するのだ。
これらは、アムテリアから授かった魔法の学校が備える設備で、どれも非常に大規模である。
魔法の学校の本館は五階建てで一階あたり二十の教室が存在した。教室は定員四十名だから、最大で四千人が学べるし、宿泊棟などもそれに相応しい規模だ。
現時点では一部しか使っていないが、他に比べるものがない新天地を目指した者は非常に多かった。そこには学生だけではなく教える側、それに研究を志す者達も含まれている。
研究者が集まるのは、ここに先進的な研究所があるからだ。
神具である魔法の学校は入館や入室に関する認証も万全で、シノブ達は早くから魔道具研究の場をこちらに移した。そのためマルタン・ミュレを始めとする研究所の者達は、殆どの時間をメリエンヌ学園で過ごしている。
そして今、シノブはシャルロット達と共に研究棟の廊下を歩いていた。カカオの実の研究を頼むため、エルフの青年ファリオスがいる研究室に向かっているのだ。
「研究所の人も、だいぶ増えたね」
シノブは、研究棟を歩む人々に知らない者が随分といることに気が付いた。彼がいない半月近くの間に、更に研究員が増えたようだ。
「はい。見習いも含めれば百名を超えました。現在、主な部署として魔道具班、魔術班、医療班、農業班があります」
感嘆の表情のシノブに、アリエルは嬉しげな笑みと共に答える。
研究所には、外部に出せない知識や技術が存在する。
魔道具班は隷属に対抗する解放の魔道具なども扱う。そして、これらは隷属の魔道具にも応用できる技術を含んでいる。それらの出し入れはミュレを含む僅かな者しか出来ない。とはいえ無闇に研究員に加えることは危険だろう。
したがって学生よりも更に厳しい基準で選別しているのだが、それでも研究員は急激に増加していた。
「魔道具班はハレールさんが責任者ですよ。ミュレさんは所長ですからね~。そうそう、エヴァンドロさんも教師と兼務で加わっています。好きな分野だから頑張っているみたいですよ~」
アリエルの横からミレーユが口を挟む。この二人はメリエンヌ学園を運営する理事だが、空き時間で教師としても働いている。そのため学校の事情に特に詳しい。
「エヴァンドロか……噂は聞いていたのじゃが……良かったのう」
シャルロットのお付きとして随伴しているマリエッタが、年に似合わぬ感慨深げな呟きを漏らした。まだ十二歳の彼女だが、満足げな表情は母のアルストーネ公爵フィオリーナにも似ている。
エヴァンドロは、マリエッタの母国カンビーニ王国の貴族であった。しかし彼は戦ったり人を率いたりするのが苦手で、領主の器ではないとして廃嫡された。幸い、魔術理論や魔道具に関しては優れた才能を持っていたので、先日からメリエンヌ学園で勤務することになったのだ。
領地が離れているため接点が無かったらしいマリエッタだが、彼の逸話は知っていたようだ。
「そうですね。ここなら活躍できるでしょう」
シャルロットは、マリエッタに笑顔で頷いた。
幼いころから領主となるべく育てられたシャルロットは、貴族としてのエヴァンドロには厳しい目を向けていた。しかし、研究者となった彼であれば別らしい。
今のシャルロットの顔には、家臣や領民の幸せを願うときと同じ慈しみが滲んでいる。
「医療班はルシール先生です! メリーナさん達も一緒です!」
ミュリエルは、自身の師でもあるルシールの名を挙げた。彼女は、ルシールやエルフのメリーナ達から治癒魔術や薬草を用いた医療について学んでいる。そのため医療班のことも詳しいようだ。
ルシールは王都メリエで長く学んだ優秀な治癒術士だ。元々研究畑であった彼女は、当然ここでも医療の研究を続けている。
そして魔術や薬草を用いた治療を得意とするエルフ達も、彼女と共に働いている。メリーナと従姉妹のフィレネ、それに二人の曾祖母であるソフロニアなどは医療技術の向上に努め、学校の医務室でも働いているという。
「魔術班はエディオラ様にお願いしています。私も手伝ってはいますが……」
アリエルは魔術班の面々について語る。アリエルやミュレが全体を統括するため、魔術班はエディオラの担当となっていた。なお、アルマン王国の王女アデレシアも助手として関わっているという。
「忙しいのですから無理はいけませんわ。今でも理事に魔術の教師、それに研究所の顧問など幾つも掛け持ちしているではないですか」
少し恥ずかしげな顔となったアリエルに、セレスティーヌが労りの言葉を掛ける。
セレスティーヌは、王女であるエディオラや公女のマリエッタの日常を、通信筒でそれぞれの故郷に知らせている。そして彼女は、シャルロットやミュリエルと共に、何度か学校を視察していた。それ故アリエルの苦労も承知していたのだろう。
もっとも兼務はアリエルだけではない。ミュレは魔術と魔道具、ルシールやメリーナなども医療の他に魔術と複数の分野に携わっている。
しかしアリエルは学校全体の運営に教師としての仕事に加え、更に複数の研究分野に参加や助言をしているという。彼女が極め付けに忙しい人物なのは、間違いないだろう。
「……ここが農業班の区画です。もちろん、こちらはファリオス殿が責任者です」
二階に上がったアリエルは、ここが今回の訪れた目的の一つである農業研究の場だと告げた。
研究棟も五階建てだが、こちらは階ごとに各分野が使っている。上から魔道具班、魔術班、医療班、農業班で、一階はその他の分野と事務室だという。
「カカオの実を見たら、ファリオス殿はどんな顔をするかな? もしかすると、またアリエルの面倒を増やしてしまうかも」
シノブの言葉に、一向は苦笑を漏らす。ファリオスは植物、特に農作物となるものに尋常ではない興味を示す。したがって、見たこともない実を前にした彼が、全てを忘れて調査や研究に没頭する可能性は高い。
その姿を思い浮かべたのだろう、アリエルに案内される一行は今までに増して楽しげな顔となっていた。
◆ ◆ ◆ ◆
事前にアリエルが魔力無線で連絡したため、ファリオスは二階の一室で待機していた。
ミュレやハレール老人などが開発した魔力無線は、フライユ伯爵領では都市に加え主要な町に設置され、この学校にも大型の魔力無線が置かれている。
大型の魔力無線であれば通信距離は500km近い。そのためメリエンヌ学園からでも、領都シェロノワどころか近隣の他領まで通信可能であった。
残念ながら、学校やシェロノワから王都メリエや旧帝都までは直接やり取り出来ないが、中継すれば交信することが可能だ。しかも現在では、殆どの国の首都にも同じように中継できる。
そのためエウレア地方では、情報交換だけであれば神殿の転移を使わなくても済むようになりつつある。
「これは南方の植物では!? アミィ殿、どこで手に入れたのです!?」
「具体的な場所はお伝えできないのですが……とても遠いところです。でも、これは特殊な品種で少し寒いところでも育つそうです」
興奮気味のファリオスに、アミィは苦笑しつつ応じていた。
アミィが見せたのは、森の女神アルフールから貰った『カカオッキーナの実』、つまり巨大カカオの実と、幾つかの葉や枝であった。神域の神像で転移する前に、シノブとアミィは近くの木から幾つか実を採取した。そのとき二人は、ファリオスに見せるために葉なども採ったのだ。
「あのナスと同じ……そういうことですね?」
幸い、ファリオスは深く追及しなかった。彼もシノブ達の正体を大よそ察しているらしい。
ファリオスの妹メリーナは、デルフィナ共和国の首都デルフィンで、アルフールの依り代となった。そのとき、アルフールはシノブのことを弟だとエルフ達の前で明言した。
そしてファリオスの母や祖母、曾祖母なども女神の言葉を聞いている。アルフールは自身が語ったことを秘すようにと伝えたが、ファリオスも家族からシノブやアミィが常人ではないことくらいは聞いたのだろう。
「ええ、そう思ってください。
それでですね、育て方と利用について研究してほしいのです。色々面倒な工程がありますが、種からチョコレートという甘いお菓子を作れます」
「ファリオス殿、お願いしますわ! とても美味しいお菓子ですのよ!」
アミィに続き、セレスティーヌまでファリオスの説得に加わる。
セレスティーヌは、よほどチョコレートが気に入ったらしい。それに、この実は彼女のためにとアルフールが授けてくれたものだ。シノブはセレスティーヌを含む家族にだけは森の女神の言葉を伝えたのだが、それを聞いた彼女は大いに感動したのだ。
「アミィさん、チョコレートを一つ召し上がっていただいては?」
「……そうですね。ファリオスさん、この実のことも含め、栽培が軌道に乗るまで内緒にしてくださいね」
セレスティーヌに促され、アミィは魔法のカバンからチョコレートの入った箱を取り出した。そして彼女は、一粒だけファリオスに渡す。
チョコレートは、日本でシノブの両親が持たせた土産の品だ。一方カカオを知らないエウレア地方の人達は、当然チョコレートを食べたことがない。そのため量産の目処が立つまで、これらを伏せる必要がある。
「変わった香りですね……ですが、何となく惹かれるような……」
ファリオスは、農業や食に携わる者らしく口に入れる前に香りを確かめている。
外見は好青年の彼だが、長命の種族だけあって五十年も生きている。その彼にして初めて嗅ぐ匂いなのだろう、訝しげな顔をしている。
だが、彼の表情は怪訝から驚愕へと変わることになる。
「こ、これは! う、美味い! 美味いぞ~!
口に入れるとフンワリと溶け、甘さの中にも微かな苦味が! 正に、お菓子の王……いや、人々を虜にする女王ですね!」
チョコレートを口に入れたファリオスは、目を見開いて驚きの叫びを上げた。
そして整った顔立ちのエルフの青年は、興奮の面持ちと大袈裟な言葉で初めての味を表現する。作物の僅かな違いも感じ取る彼だけあって、味への感性も非常に豊かなようだ。
よほど興味が湧いたのか、ファリオスの緑色の瞳は爛々と輝き魔力も大きく動いている。そのため鋭敏な感知能力を持つシノブは、歓喜する青年が光を放っているように感じてしまう。
「……もう一つ頂けませんか?」
「残り少ないので、これで終わりですよ」
食べ終わったファリオスは、チョコレートの入っていた箱を物欲しげに眺める。アミィは、そんな彼に苦笑しつつも、もう一粒を渡す。
「ああ……これは別の味なのですね! こちらは苦味が多いが、それもまた良い! アミィ殿、何としても作ってみせましょう! 栽培もお任せください!」
ファリオスは、チョコレート作りやカカオの栽培に強い熱意を抱いたようだ。彼は、改めてカカオの実や葉などに目を向ける。
「アミィ殿、この植物に名前はあるのですか?」
「えっと……そのですね……普通はカカオというのです。でも、この実は特に大きな種類で『カカオッキーナの実』という名前でして……ですからカカオッキーナということになりますね……」
ファリオスの問いに、アミィは僅かに頬を染めつつ答えた。やはり彼女は、アルフールの独特な命名に疑問を感じていたようだ。
「良い名ですね! しかし、その名前は……いや、何でもありません。ますます育てる気になりました!」
アミィが告げた名は、ファリオス達エルフの伝統に沿ったものであった。そのため彼は、自分達が奉じるアルフールが関わっていると悟ったらしい。
◆ ◆ ◆ ◆
アミィは、ファリオスと栽培法やチョコレートの製法について話し始める。
カカオの木は随分と大きくなるから、北の高地では巨大な温室で育てることになるだろう。とはいえ現在は種しかないため、当分は学校に併設した通常の温室で充分だ。それに発芽させて苗にするだけなら、室内でも良いだろう。
製法に関して一番問題となるのは発酵だろう。アミィは、パンのイーストなどで大丈夫と考えているらしいが、これも各種試してみることになると思われる。
一方シノブは、農業班の日常を聞いていた。相手はファリオスの助手を務めるエルフや、エリュアール伯爵領から来た農業指導に携わる騎士、いわゆる半士半農の郷士のような者達だ。
「旧帝国領にも指導に行っているのか……ありがとう」
シノブは、かつては敵国であった場所にも拘りなく出向いてくれる指導者達に、感謝の意を伝えた。
国を閉ざしていたエルフはともかく、エリュアール伯爵領の者達は過去のベーリンゲン帝国との戦いにも加わっている。それに帝国に囚われて奴隷となった者も、エリュアールにはいる。
それらの過去を乗り越えて旧帝国領に赴く彼らに、シノブは敬意を示さずにはいられなかった。
「当然のことです。彼らに罪はありませんから」
「ご提供いただいた作物も順調に育っています。あちらの村も豊かになりますよ」
エリュアール伯爵の家臣達は、日焼けした顔を綻ばせつつ旧帝国領の様子を語っていく。
帝都での決戦の直後、シノブ達はアムテリアからジャガイモ、小麦、大豆、小豆、甜菜など、各種の作物を授かった。それらの多くは既にエウレア地方にあるものだったが、より収穫量が多く寒冷地にも向いているらしい。
ここにいる者達は、それらを旧帝国の村々へと配り、栽培の指導をしていたのだ。彼らは学校の学生達も連れ、各地を回っていったという。
「治療の魔道装置も、かなり行き渡ってきました」
アリエルは、農業以外の様子についても触れていく。
現在、旧帝国領は十一の軍管区に分かれている。治療の魔道装置は各領都、つまり軍管区の中心となる都市には配られていた。また旧皇帝直轄領、現在のヴァイトグルント軍管区は人口が多いため、周辺都市にも配備が終わっているという。
「それに、シノブ様や竜の方々が造った温泉も、好評のようですよ~」
ミレーユもアリエルに続く。
シノブはフライユ伯爵領と同じく、各軍管区の領都にも温泉を掘っていた。そして土属性の得意な岩竜達も、湯脈が地表に近い都市には温泉を拵えたそうだ。
「お陰で民の健康状態も大きく改善されたようです。それに伯父上も喜んでいました」
「義伯父上は温泉が好きだからね」
シャルロットの言葉に、シノブは思わず頬を緩めた。彼女の伯父、つまりシノブの代わりに旧帝国領を束ねる先代アシャール公爵ベランジェは、大の温泉好きなのだ。
「温泉は、ここの温室にも使っております。お陰で色々な作物が試せます」
農業班のエルフの一人は、温室での栽培について触れた。
温室には温泉の排熱を利用している。浄化の魔道具があるから排水処理も完璧で、冷めた水は農業用水としても使っているそうだ。
「お舘様、そろそろ時間です」
農業班の者達と歓談していたシノブに、金髪に所々茶色や黒が混じった不思議な髪色の従者見習いが声を掛けた。彼はソニアの弟でアルバーノの甥でもあるミケリーノ・イナーリオだ。
ミケリーノは二人と同じ猫の獣人だが、彼の家系にはこういう髪色の者が稀に現れるらしい。地球の三毛猫と同じで遺伝的なものなのだろう。
「ありがとう。昼食はマルタンや各班長とだったね。
……それでは、失礼するよ。これからもよろしく頼む」
シノブは農業班の者達を激励し、席を立った。シャルロット達も、同じく温かな言葉を掛けていく。
ちょうどアミィとファリオスの話も終わったらしい。二人も、シノブ達と共に室外へと歩み出ていった。
◆ ◆ ◆ ◆
シノブ達は、研究棟の一階に移動した。ここには来客を持て成すための場もある。そこに研究所の主要な者を集めて食事をしつつ語り合うのだ。
アリエルは、シノブに各班長の忌憚のない意見を聞かせたいようだ。そのため彼女は、食堂などは避けたらしい。
「治療の魔道装置は、シェロノワや旧帝都の工場に増産を指示しました。ですが、生産数を大きく伸ばすのは少し先になりそうですな。
勉強の場を設けたため工員も増えましたが、腕の方が追いついていないので……」
魔道具班の責任者であるハレール老人は、治療の魔道装置の生産状況にも触れた。彼は研究所で班長を務める一方で、かつての職場である魔道具製造工場にも関わっていたのだ。
ハレール老人と隣に座るアントン少年は、シェロノワの魔道具製造工場で働いていた。
工場は力仕事が少ないため、成人前の少年少女も働ける。とはいえ分業が進んでおり、未成年者が入る組み立て工程では長く勤めても高度な技術が身に付くことはなかった。そのためハレール老人のような主任級を別にすると、短期間で工場を去る者も多かった。
そこで二人は、この学校のような教育を彼らに施そうと考えた。こことは違い魔道具製造に特化した、いわば専門学校を開いたのだ。学校といっても、工場の空いた場所で熟練者が教える程度だが、上級職に進むための知識が手に入るから受講者には好評だという。
「あまり無理をさせないようにね。町や村の人の健康状態改善も重要だけど、工員達の生活を向上させることも大切だから」
「はい、お舘様! 皆にも私や妹のようになってほしいですから!」
アントン少年は、嬉しげな声でシノブに答えた。数ヶ月前の彼は、未成年工員で病気の妹を抱えて苦労していた。そのため、我が事のように感じるのだろう。
彼の妹リーヌはシノブの治癒魔術で快癒した。そして今はフライユ伯爵家の舘で侍女見習いとして働きながら、ここメリエンヌ学園にも空き時間で通っている。
全ての工員が、アントン少年やリーヌのように恵まれた職を得ることは難しいだろう。しかし知識や技能を修得することで、彼らにも機会が与えられたら。シノブは、笑顔のアントン少年を見ながら工員達に思いを馳せていた。
「魔術班では、医療や魔道具に使える魔術を優先して研究している。同調や抽出は、もっと使い道があると思う」
「同調は治療や通信の魔道装置にも使っていますが、より効率化を進めれば安価な魔道具が作れますわね。それに抽出も薬効成分の分離に使えますし……対象を思い浮かべるのは難しいですが、医療以外にも様々な応用が出来ますわ」
魔術班の長であるエディオラの言葉を、医療班を束ねるルシールが補う。ルシールは魔術班にも手を貸しているからだ。
魔術の理論は、魔道具の製造や魔力を使った医療にも応用できる。そのため、現在の魔術班は日常生活に役立つ魔術や基礎理論の研究が主体となっていた。
「そうですね。
今回、とある植物から食べ物を作る研究をファリオスさんにお願いしましたが、それにも抽出は役立ちます。それに同調機能を一般の魔道具まで組み込めるようになったら、より小さな魔力で魔道具を使えるようになるでしょう」
アミィは微笑みと共にエディオラ達に答える。外見こそ十歳程度にしか見えない彼女だが、その声音には子供達の成長を喜ぶ母のような優しさが感じられる。
シノブやアミィは、魔道具技術の発展こそが、エウレア地方に新たな時代を齎すと考えていた。高度な魔道具があれば、人々の持つ魔力の大小が能力の差に直結しなくなるからだ。
フライユ伯爵領の前領主であるクレメンも、同じように考えていた節がある。
この世界の人々、特に人族は魔力の格差が激しい。王族や貴族は自身の大きな魔力を魔術や身体強化に使えるから、特別な地位を維持してきた。一方、殆どの人は僅かな魔力しか持っていない。そしてクレメンは、魔道具が人々の格差を埋めてくれる福音ではないかと語ったのだ。
シノブは、クレメンの帝国への内通や奴隷貿易の黙認は許しがたい行為だと思っているが、彼の魔道具に関する思想自体には共感していた。そしてアミィも、シノブの思いを察していたのだ。
「はい。ですが、軍用と違って安く作るのは大変ですね。もっと色々な用途を見つけないと、採算が取れません。実験に使う魔道装置や消費する品々も、結構高いので」
マルタン・ミュレは、元々ベルレアン伯爵領の参謀であった。それに、現在でもフライユ伯爵領軍に籍を残している。
そんな経歴を持つ彼は、コストを無視した軍用魔道具より価格を意識した民生用の方が、開発の上では大変だと感じたらしい。
◆ ◆ ◆ ◆
ミュレの語った内容に、シノブは暫し考え込んだ。しかしこの件は、そう簡単に答えの出せることではなかった。
「……う~ん。あまり魔道具の価格を上げたくないからね」
研究所の収入源を増やす方法は、シノブとしても悩ましい問題であった。
フライユ伯爵家も研究所には充分に支援をしているし、メリエンヌ王家や各国からも資金は提供されている。とはいえ、いつまでも外部に頼るのも問題ではないだろうか。そう考えたシノブは、とある制度を導入していた。
それは、研究所で開発したものから利用料を取ることであった。
今の研究所は、公営というべきものだ。したがって、シノブや各国が必要としているものが研究でも優先される。しかし、もっと街の者が望むもの、あるいは純粋に研究者の興味が向いたものも研究してもらうべきだろう。そこでシノブは、彼らの裁量範囲や収入源を増やそうとしたのだ。
「研究所には、製造する部品の数に応じてお金が入るようにしているけど……」
シノブが提案したのは、開発した部品を魔道具製造工場が造るときや、同じく農産物の種子などを農家に卸す場合に、研究所として一括で利用料を得る形だ。
魔道具であれば利用料は月々の生産量に比例するから、手っ取り早く増額するには更なる用途を提示し魔道具の種類や数を増やすのが一番である。ただし、魔道具の価格上昇を避けるため利用料は低く抑えている。
そのため、シノブはどうすべきかと頭を悩ませる。
「今のところ、収入源の中心は治療や通信の魔道装置のように高額で大型なものです。それに、比較的高価な冷蔵の魔道具や、応用品の冷却の酒盃などですね。
農産物に関しては僅かです。基本的な生活に関わるものですし、農家の負担を増やすわけにはいかないので、どちらかというと講習代に近いものとなっています」
アリエルは、シノブ達に利用料の内訳を説明していく。
新規に開発した魔道装置には、研究所で生まれた部品が多数使われている。それに従来から存在した冷蔵や冷却などでも、ミュレやハレール老人が作った改良品を組み込んでいるものは多い。
ミュレ達が帝国から得た技術を解析し更に高度なものにしたことで、フライユ伯爵領の魔道具産業は従来以上の発展を遂げていた。ただし高価な品が多く、街の者が気軽に使えるのは灯りの魔道具など一部のものだけらしい。
農産物に関しては、アリエルが言うように採算を度外視している。それに、旧帝国領からは利用料を取っていない。したがって、研究所の収入源としては極めて小さな割合だ。
「シノブさま、何か良い考えはありませんか?」
ミュリエルは、シノブに信頼の眼差しを向ける。彼女はシノブなら名案を出すと思っているのだろう、期待に満ちた笑顔でシノブの答えを待つ。
「ミュリエル、シノブも簡単には答えを出せないと思いますよ」
「シャルお姉さま、シノブ様なら大丈夫です! 信じて待つのも妻や家族の役目ですわ!」
シャルロットに冗談めいた言葉で応じたのは、セレスティーヌだ。
シノブの戦いを初めて見たとき、セレスティーヌは非常に案じていた。しかしシノブを信頼し自身の役目を果たすシャルロットやアミィを見た彼女は、自分もそうありたいと語っていた。
だが、これは少しばかり違うのではないだろうか。そう思ったシノブは、苦笑を浮かべながら答えを探していた。そんな彼の脳裏に、あるアイディアが浮かんでくる。どうも、セレスティーヌへと視線を向けたことが契機となったらしい。
「……あるにはあるよ。でも、君達には恨まれるかもね」
「どのようなものでしょう?」
シノブの思わせぶりな言葉に、セレスティーヌは小首を傾げつつ問い返す。彼女だけではなく、シャルロットやミュリエルも怪訝そうな顔をしている。
「君の好きなお菓子……それにアイスクリームは作るのが面倒だろ? 掻き混ぜとか……だから、そういう魔道具を作れば需要があると思う。それに量産もしやすくなるし。魔道具じゃなくても良いけどね」
チョコレートの存在は、まだ一部しか知らない。そのためシノブは、少し曖昧な表現を用いる。
「それは面白そう。でも、恨まれないと思う」
シノブが話を区切ると、エディオラが興味と疑問が混じったような表情で呟く。その隣では、助手として同席したアデレシアも不思議そうな顔をしている。
アイスクリームは彼女達も食べたことがあるし、アミィも製法を伝えていた。したがって二人は、攪拌が必要で面倒だとは知っている。しかし仮に料理用の道具が開発されても、作る側も食べる側も喜ぶだけだと思ったのだろう。
「エディオラ殿。美味しいお菓子は良いことばかりではありません。食べ過ぎたら、肌が荒れたりするそうです。
ですが、それも商売の好機です。肌を綺麗にする薬とか……魔道具ではどうかな……活性化なら効果があるかもしませんが、逆に悪くなる可能性もありますね。その辺りは、それこそ研究が必要ですが」
食べ物や衣類など、生活必需品か関連するものなら内容次第だが大量に売れる。そして大きな変化があれば、更に新たな需要が生まれる。シノブは悪戯っぽい表情で、自身の思い付きを語っていく。
「まずは美味しいものを提供。そして悪影響の対策を売る……シノブ様、策士」
エディオラは、目を丸くしてシノブを見つめている。温厚そうなシノブが自作自演めいたことを言ったのを、彼女は意外に感じたようだ。
「エディオラ姉さま、シノブ殿は戦の達人なのじゃ」
「そうですね……エディオラ姉さま、私もシノブ様にコロッと騙されました!」
マリエッタが真面目な、そしてアデレシアが冗談半分な顔で、エディオラへと声を掛ける。すると、シャルロット達は面白そうに笑い出す。
「アリエル、ミレーユ。大変だけど頼むよ。丸投げで悪いけど……」
シノブは、理事として働く二人に済まなく思いつつも研究所の、そして学校全体のことを頼む。
本来ならシノブも腰を据えて相談に乗りたいところだが、こんな中途半端なアドバイスしか出来ない。そのため彼は、内心忸怩たる思いを抱いていた。
「お任せください。明日を造る、とてもやりがいのある仕事です」
「そうですよ~。私は研究なんて無理ですけど、武術を伝えるのも楽しいです! それに、シノブ様が教えてくださった競技も!」
アリエルとミレーユは、シノブに温かな笑みと共に答えた。二人の顔には未来への希望があり、新たな取り組みへの喜びがある。
彼女達の輝かしい顔に、シノブの心に深い安堵と感動が広がっていく。ここに集う者達が、憂いなく働き学べるようにしよう。シノブは、学び舎の更なる支援を誓いつつ、談笑の輪に戻っていった。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2016年4月5日17時の更新となります。