15.30 転移装置なんてあるのかな
光翔虎という存在は、ごく最近になるまで限られた者しか知らなかった。彼らについて限定的にでも知っていたのは、カンビーニ王国やガルゴン王国の直系王族、それにエルフ達の一部くらいである。だが、それも無理はない。光翔虎は姿を消すことが出来るからだ。
光翔虎の成獣は、尾を除いても体長20mほどの巨体である。これは、岩竜や炎竜と匹敵する大きさだ。しかし光翔虎は竜とは違い姿消しが使える。そのため彼らは、人の近くに棲家を構えているにも関わらず、世間の噂に上ることすらなかったのだ。
現在エウレア地方には、三つの光翔虎の棲家が存在する。西からガルゴン半島中央のアンプリオ大森林、カンビーニ半島中央のセントロ大森林、そしてデルフィナ共和国の東端近くの森林である。
シノブ達が会った順で言えば、セントロ大森林のバージとパーフに娘のフェイニー、アンプリオ大森林のダージとシューフに同じく娘のメイニー、デルフィナ共和国のフォージとリーフに息子のシャンジーだ。
彼らの棲家は人間が近づくことのできない魔獣の領域の中央にある。しかし彼らはそれぞれの棲家を行き来しているし、その際は人の住む領域を通過する。
とはいえ、彼らが発見されることは今までなかった。光翔虎は町や村に近づき人の暮らしを観察することすらあったが、姿どころか魔力も殆ど完璧に隠蔽する彼らを見つけるのは、常人はもちろん魔力感知に優れたエルフ達でも不可能だからだ。
それは、ここアルマン王国でも同じである。姿を消した光翔虎達は、誰にも見つかることなく軽々と、そして楽しげに飛翔していた。
──空の向こうから~、輝く若き光翔虎が~、飛び現れて~──
昼になり太陽が頂点に達した頃、一頭の光翔虎がアルマン王国の東海岸上空を飛んでいた。楽しげに思念で歌いながら駆けているのは、シノブの弟分となったシャンジーである。海岸近くを南に向かって飛ぶ彼は、歌に合わせて軽やかに空を駆けていく。
シャンジーは成獣ではないが、それでも年齢は大人のおよそ半分、百歳前後だ。したがって、彼の体格は親達より一割くらい小柄なだけだ。そんな彼が駆ける様子は、聖獣と崇められるに相応しい威風堂々とした姿なのだが、緊張感の無い思念がそれを台無しにしている。
もっとも彼は姿を消しているし、思念を感じ取れる者など周囲にはいない。そのため彼の眼下の町や村は静かなものである。
──みなぎる力が~、眩しい空から~、森に降り注ぐ~──
光翔虎には翼など存在しない。したがって、シャンジーは重力制御のみで飛翔している。
多くの場合、彼らは重力操作を足裏など特定の部分で行うらしい。そのため彼らは、四足で宙を蹴り走るようにして飛翔している。
もちろん彼らは、重力操作を他の部分でも出来る。
宙を疾駆していたシャンジーは、突然足の動きを止めて体を丸くした。そして彼は、進む速度を維持したまま前転しつつ空を渡っていく。これは、光翔虎の八つの秘技である絶招牙の一つだ。高速で飛びながら牙や爪により敵を切り裂く、恐ろしい技である。
──戦うことを~、恐れちゃダメさ~、仲間との絆があるから~──
歌とは違い、シャンジーは何かと戦っているわけではない。技の練習をしているのか、単なる暇つぶしなのか、何も無い宙を切り裂き飛んでいるだけだ。もっとも、これが修行ということはなさそうだ。彼の楽しげで暢気な歌は、最前と全く変わっていないからだ。
だが、彼の独演会は唐突に打ち切られることになる。
◆ ◆ ◆ ◆
──シャンジー! 真面目にやりなさい!──
シャンジーを叱責したのは、姉貴分のメイニーである。とはいえ、その姿は見えない。
実は、メイニーは更に北の街を探っている。竜や光翔虎の思念はおよそ150kmまで届くから、側にいなくても会話可能なのだ。
──う、うわ! メイニーさん!──
シャンジーは、歌と回転を止めて宙に留まった。首を竦めて頭を下げ気味にした彼は、まるで姉に怒られた弟のようである。
だが、それも当然である。メイニーはシャンジーの倍ほど生きており、彼を生まれたときから知っているのだ。そのため、体格などは殆ど変わらなくなったシャンジーだが、メイニーの言葉には逆らえないらしい。
──そっちはどうなの? 例の反応は?──
アルマン王国の探索に加わったメイニーとシャンジーは、先に来ていたバージ達から存在を隠蔽する装置の魔力波動を教わった。正確に言うと、二頭はバージが新たに発見した隠蔽装置を見に行き、覚えたのだ。
──もうすぐラルナヴォンってところに着きます~。反応はありません~──
シャンジーは、再び四足で宙を駆けながら、メイニーに答える。
現在シャンジーは、王都アルマックの北の都市ラルナヴォンに向かっている。同様に、メイニーは更に北の都市ドォルテアの付近を飛んでいる。
──ちゃんと覚えたわよね?──
──はい~。ベイリアルってところで覚えた波動~、忘れていません~──
どこか不安げなメイニーに、シャンジーは自信満々な思念を送る。
バージは、北のブロアート島の都市ベイリアルで隠蔽装置を発見した。これは、シノブ達が王都アルマックにあるグレゴマンの公館で発見した装置と同じものだ。
ベイリアルの隠れ家は小さく、駐留していた竜人も二人だけであった。そのため光翔虎達とホリィ、マリィだけであっさりと制圧し、竜人も人間に戻した。
しかしベイリアルの隠れ家からは、王都の公館を上回る発見はなかった。どうも、グレゴマン達がブロアート島に置いた支部というか小規模な拠点らしい。ベイリアルの近くにはドワーフ達の家族を閉じ込めていた廃坑があるため、そこに赴くときに使う場所なのだろう。
竜人達は、普段フード付きのローブで正体を隠しているが、人の多いところでは不審極まりない。そのため彼らは頻繁に立ち寄る都市に、このような隠れ潜む場所を用意したようだ。
──なら良いけど……あの人達は単なる留守番みたいだし、他の拠点を見つけないといけないのよ──
メイニーが言うように、ベイリアルにいた者の役目は拠点の維持管理だけらしい。そのためだろう、今回竜人から元に戻った者達は魔道具技師や魔術師ではなく、ごく普通の兵士のようだ。彼らは鍛えられた肉体であったが、人族としては平均的な魔力であったのだ。
──任せてください~。頑張って兄貴に褒めてもらいます~──
──その軽さが不安なのよね……あ~あ、私も西に行きたかったわ──
安請け合いするシャンジーに、メイニーは余計に不安になったらしい。それに、彼女は少々退屈気味のようだ。
実は、バージ達四頭はアルマン島の西部の調査に回っていた。グレゴマンがそちらで暗躍しているらしいからだ。
バージ達は、まだ成獣になったばかりのメイニーや半人前のシャンジーを、神霊かその分霊の力を持つと思われるグレゴマンと接近させたくなかったようだ。そのため彼らは、東方の調査をメイニーとシャンジーに任せ、親世代だけで西の調査をしている。それがメイニーには不満らしい。
──こっちも大切ですよ~。でも、あれって何だか気味が悪いですね~──
シャンジーが隠蔽の魔道具を不気味に思うのも無理はない。
アミィの分析によれば、グレゴマン達が使う隠蔽装置は特殊な魔力を封じた物らしい。どうも、竜人達かそれに類する異形を犠牲にして造り出した装置のようだ。
たぶん、旧帝都の地下神殿を隠していたのも同じようなものなのだろう。
旧帝都の場合は、およそ100m四方にもなる巨大神殿と、そこから周囲1km近くに広がる地下通路の隠蔽だから、かなり桁が違う。
それ故、遥か昔に旧帝都に設置した時は、超人と呼ばれる異形を何人も犠牲にしたらしい。なお、この超人とは竜人を遥かに超えた存在で、更に維持には彼らを守護する神霊の力が必要だったようだ。
今回シノブやバージが発見した隠蔽装置は、そんな大規模な物ではないが、原理的には同じである。つまり帝国を操った神霊の授けた外法であり、シャンジーが嫌悪感を抱き警戒するのも当然であろう。
──そうね……ともかく、私達は転移装置を見つけましょう──
メイニーも、少し自分が焦り気味だと悟ったらしい。彼女は少しばかり落ち着いた思念を返してくる。
シノブ達は、グレゴマン達がアルマン王国に渡ったのは転移装置経由だと推測していた。
旧帝都の地下神殿の脇にあった転移装置は神殿崩壊により潰れてしまった。しかし、どうも崩落の直前までは使えたらしい。
また、ディーンボルン公爵グリゴムール、つまりグレゴマンは帝都決戦の直前まで旧帝都にもいたようだ。彼は、帝都決戦があった三月の上旬頃まで、転移装置で旧帝都とアルマン王国を往復していたと思われる。
──はい~。でも、ここに転移装置なんてあるのかな~──
しかし、シャンジーは今一つ乗り気ではなかった。
アルマン王国は島国といってもそれなりに広い。したがって、彼の目の前に迫ってきた都市ラルナヴォンに隠れ家があるとも限らないし、隠れ家があったとしても転移装置は別の場所ということもありえる。
──確かにそうだけど……そう言われると、やる気が出ないじゃない──
──ごめんなさ~い! 頑張って探します~!──
また機嫌が悪くなりかけたメイニーに、シャンジーは素直に謝った。そして彼は速度を上げて一直線に都市の中、港の辺りに向かっていく。
──さてさて~。あれ~? いきなり当たりかな~。ボクって運が良いのかも~──
腕輪の力で普通の虎くらいの大きさに変じたシャンジーは、とある建物の屋根に舞い降りた。かなり大きな建物だが、箱型の素っ気無い壁に同じく簡素な三角屋根が乗っているだけだ。おそらく、倉庫なのだろう。
ホリィや光翔虎達は、シノブとは違い相当に接近しないと隠蔽装置を感知できない。そのため彼は、建物の上を跳び移りながら調べようとしたらしい。しかし何という幸運か、彼が降りた建物には例の装置らしき反応があったのだ。
──えっ、本当!?──
──はい~。ベイリアルってところと同じです~。しかも、あっちよりは大きそうです~──
勢い込むメイニーに、シャンジーはキョロキョロと周囲を見回しながら応じる。そして彼は、ピョンピョンと建物の屋根の上を跳ね回りだした。
小さくなったとはいえ虎が跳ね回れば、普通なら下に響くだろう。しかし、重力を操る光翔虎だけあって、彼は全くの無音で倉庫らしき建物の上を移動していく。
そのため建物の中もそうだが、忙しそうに外を行き来する港湾作業者達も、異変には気がつかない。
──今行くから待ちなさい! ホリィさん達にも伝えて!──
メイニーは、シャンジーだけに任せておけないと思ったようだ。彼女は全速力で飛翔しているらしく、その思念は急速に南に向かっている。
とはいえメイニーのいたドォルテアは、シャンジーがいるラルナヴォンより北だ。そのため更に南方の王都まで彼女の思念は届かない。そこでメイニーは、シャンジーに対しホリィ達に伝えるよう指示をする。
──了解しました~。至急~、至急~、至急~、ホリィ殿、マリィ殿、ミリィ殿、聞こえていますか~──
ラルナヴォンから王都アルマックは、100kmもない。そのため、シャンジーのいる場所からなら王都に思念が届く。軍務卿ジェリール・マクドロン、現在は総統と称する彼を見張るため、王都には三羽の金鵄族のうち誰かがいる筈だ。
──し~きゅ~、し~きゅ~、し~きゅ~。こちらミリィです~、なんでしょ~──
──ミリィのせいで変なものが根付きましたね……ホリィです。どうしましたか?──
王都からは、ホリィとミリィのみが思念を送ってくる。マリィはグレゴマンを探しに西へと向かっていたのだ。
それはともかく、ミリィの返答は少しばかり変わっていた。だが、地球の一部の者には馴染みのある応答かもしれない。
実は、シャンジーの『至急』はミリィが教えたものである。そしてミリィの発音する通り、それは『至急』ではなく『CQ』なのだ。
シノブは、魔力無線を開発する際にコールサインの概念を伝えていた。ただし、この世界にはアルファベットは伝わっていない。そこでシノブは通信範囲内の全無線局を一括して呼び出す『CQ』の代わりに『至急』とした。
ただし、これはあくまでも魔力無線の略符号として定めたものだ。しかしミリィは、面白がって思念でのやり取りにも使い始めたわけだ。
──あのですね~、新たな隠れ家を発見しました~。場所は~──
シャンジーは、相変わらずの調子でホリィやミリィに現在位置を伝え始めた。
天空では輝く日輪が見守り、地上には快活に働く作業者達、そして海は穏やかな波で煌めいている。それは暢気なシャンジーに似合った、とても長閑な光景だ。
しかし平和で美しい港には、怪しい力を利用する何かが潜んでいるらしい。そのためだろう、時折シャンジーに答えるホリィとメイニーの思念には、僅かに緊張が滲んでいる。
──これは相当なものが潜んでいますね~。総統の尻尾を捕まえたかもしれません~。今夜はマグロ丼でお祝いです~──
しかし、そんな雰囲気もミリィには関係ないらしい。彼女はいつもの調子で冗談を飛ばす。
──それは嬉しいですね~。でも、油断は禁物です~。そうっと探らないと~──
──貴方ね……でも緊張が解れたわ──
意図したのかどうかは不明だが、シャンジーの返答はミリィの冗談に応ずるものとなっていた。そのため、飛行中のメイニーの思念は苦笑しているような雰囲気であった。
──確かに……ともかくシノブ様にお伝えしてからです。隠蔽の範囲はグレゴマンの公館より大きいようですし。ですから、シャンジーさんとメイニーさんは……──
ホリィがメイニーの思念に応じる。メイニーは随分と急いで飛んでいるのだろう、既に王都まで150kmを切る位置に来たらしい。
それはともかくグレゴマンの公館より大きいとなると、ここが転移装置の設置場所である可能性は高い。そのためホリィは、シノブの判断を仰ごうと考えたようだ。
もしかすると、グレゴマンの秘密が掴めるかもしれない。そんな期待のためだろう、ホリィは嬉しげな思念でシャンジー達に自身の考えを伝えていた。
◆ ◆ ◆ ◆
シャンジー達が思念を交わす暫く前。シノブ達は、メリエンヌ学園の校舎を出てイジェが運ぶ磐船に乗っていた。もちろんアミィやシャルロット達も一緒である。
磐船にはシェロノワから来た面々、つまりミュリエルやセレスティーヌ、アルマン王国の王女アデレシア、そしてそれぞれの側付きも乗っている。
更に、学園からは校長の先代シュラール公爵リュクペールと、ガルゴン王国の王女エディオラが加わった。リュクペールは案内役だが、エディオラはマリエッタと離れたくなかったらしい。
エディオラは、シャルロットの側付きであるマリエッタや彼女の三人の学友と共にいる。例によってエディオラは実用本位の簡素なドレスを纏い、真っ直ぐな栗色の髪を無造作に縛っただけだ。そのため、まるでシャルロットの侍女が一人増えたようである。
「その……エディオラ殿下は……」
「エディオラで良い」
遠慮がちに問いかけるアデレシアに、エディオラはいつもの淡々とした口調で答える。すると、アデレシアはピクリと肩を震わせた。彼女の動きに合わせて、長い赤毛も僅かに揺れる。
エディオラは普段からこんな感じである。しかし今日彼女と会ったばかりのアデレシアは、年長の王女の内心を量りかねたようだ。
何しろエディオラは二十二歳、アデレシアが十四歳だ。この年頃で八つも離れていると、そう気軽に接することも出来ないだろう。しかしアデレシアが戸惑いを見せるのは、それだけではない。
「……エディオラ様は、我が国のことをどう思われていますか?」
アデレシアがエディオラに尋ねかけたのは、彼女がガルゴン王国の者だからだ。
ガルゴン王国の商船団は、アルマン王国の偽装商船により多大な被害を受けた。アルマン王国に渡ったドワーフ達も隷属の魔道具で縛られたが、現在磐船にドワーフは乗っていない。
シノブの友人であるイヴァールは西のルシオン海の艦隊にいるし、北の高地からも参戦した者が多かった。それに、女性達も救出されたドワーフ達の介護に加わるなど、本来なら学校にいる筈の者も外出していた。
そのため、アデレシアはエディオラを質問の相手としたようだ。
「アルマン王国は良い競争相手……であってほしい。今は困ったことになっているけど、それは人を縛ろうとしている一部のせい。そう信じている」
エディオラは、やはり感情を表さずに答える。そのためか、アデレシアの表情は晴れないままだ。
「アデレシア殿、エディオラ姉さまは怒っていないのじゃ。その……」
二人の仲を取り持ったのはマリエッタだ。しかし彼女は途中で口篭り、両者を見比べる。
マリエッタの武人らしい素早い動きで、虎の獣人特有の金に黒い縞の髪が大きく揺れる。彼女の良く手入れされた髪は陽光に煌めき美しい。しかし、その顔は少々困惑気味である。
「私はいつもこんな感じ。ごめんなさい」
苦笑気味のマリエッタに、エディオラが続く。
最近、エディオラとマリエッタは更に親密になったようだ。エディオラは、いつの間にかマリエッタに姉と呼ぶことを了承させたらしい。
そのためだろう、マリエッタの助け舟に続いてペコリと頭を下げるエディオラという流れは、実の姉妹のように自然であった。
「何だか面白い組み合わせだね」
「シノブもそう思いますか」
シノブとシャルロットは、少し離れたところで三人の様子を見守っていた。二人の側には、アミィとミュリエル、セレスティーヌもいる。
「海洋王国の揃い踏みですね」
「あっ、そうですね!」
アミィの言葉に、ミュリエルが笑みを浮かべる。島国のアルマン王国に半島のガルゴン王国とカンビーニ王国、何れも海上交易が盛んな国なのだ。
「シノブ様、アルマン王国の問題が解決したらですけど、仲良くできるかもしれませんね」
「ああ、そうだね。彼女達が先頭に立ってくれたら……」
シノブは、セレスティーヌの言葉に微笑みつつ頷いた。
王女のエディオラとアデレシア、公女のマリエッタ。性格も三者三様だし、髪や瞳の色も全く違う。それに年齢は上から二十二歳、十四歳、十二歳、エディオラとアデレシアが人族でマリエッタが虎の獣人と、共通点は殆ど無い。
しかし、自国の船舶や交易について語り出した三人の姿は、シノブに大きな希望を与えてくれた。それは彼だけではないようで、他の者達も明るい笑顔となっていた。
ガルゴン王国やカンビーニ王国の者達には、色々思うところもあるだろう。しかしエディオラは思慮深い性格であり、マリエッタも素直で拘らない心の持ち主だ。そのせいか、三人は僅かな間に打ち解けていったようだ。それは、三人の顔に浮かぶ柔らかな笑みからも明らかであった。
◆ ◆ ◆ ◆
「あっ、農地だ! それに、演習場も!」
ふと船縁の外に顔を向けたシノブの目に映ったのは、広大な農地を耕す学生達や、更に奥の演習場で訓練する者達であった。
学校は座学だけではない。どちらかというと、実技を重視しているのだ。そのため農業や林業の実習もあるし、軍人志望者は演習場で各種の訓練をする。
シノブの眼下に広がる農地は、ジャガイモや茄子を植えている場所らしい。半分ほどが既に植え付けをしており、残りは開墾の最中だ。
農地には、エルフのファリオスやフィレネ、エリュアール伯爵領から来た郷士のガエルやカロモンも働いている。それに、アルマン王国に潜入したファルージュ・ルビウスの父トリニタンの姿もあった。どうやら彼は、監督者の一人として現場に出ていたようだ。
ファリオスやフィレネは苗の様子を見ては笑い、楽しげに何かを語り合っている。その向こうで学生と共に開墾している二人の郷士は、猛烈な勢いで鍬を振るっている。どうやら彼らは、かなりの身体強化が使えるようだ。
「訓練も順調そうですね」
シャルロットは、軍事教練の様子が気になるようだ。彼女の視線の先では、王領軍の参謀で先代アシャール公爵ベランジェの部下でもあったカルドランや、国境の砦を守っていたフライユ伯爵領の家臣の一人ギャストン・メルリアーヴなどが、若者達を指導している。
軍人志望者は、まずは体力を付けるのか隊列を組んで広大な演習場を走っている。全身鎧で更に帯剣した完全装備は見るからに重そうだが、涼しい北の高地だからか若者達は元気な掛け声と共に溌剌と駆けている。なお当然ながら、これも身体強化が無ければ不可能なことだ。
──シノブさん、あの奥が鉱山ですよ!──
母のヨルムと並んで飛んでいたオルムルが、思念を送ってくる。そして彼女はシュメイやフェイニーと共に、演習場の更に向こう側へと飛翔していく。
オルムル達が向かう先は、北の山脈の入り口というべき場所だ。もちろん、ここが既に高地だから標高は1000mを大きく超えている筈であり、植生も学校の辺りとは少々異なるようだ。
かつてシノブ達がヴォーリ連合国に旅したときのような深い針葉樹林の間には、幾つかの細い道が付けられており、そこをドワーフらしき男達が登っている。おそらく、彼らは鉱山夫やその見習い達なのだろう。学校には鉱業を学ぶ者もいるから、彼らの中には学生もいると思われる。
──皆さん……羨ましいです──
──ファーヴ、もう少しですよ──
磐船の上では、海竜の子リタンが背中に乗ったファーヴを慰めている。海竜は重力操作で浮遊はできるが、飛翔はあまり得意ではない。そのため、リタンはファーヴと共に船上に残ったのだ。
現在ファーヴは生後二ヶ月だ。そして岩竜や炎竜は生後三ヶ月くらいで飛翔やブレスを習得する。だが、シノブの魔力を吸収することが多かったシュメイは二ヶ月半で飛翔を会得したから、ファーヴも間もなく飛べるようになるだろう。
しかし、その僅かの辛抱がファーヴには出来ないようだ。彼は、暫しリタンの背に顔を伏せていたが、唐突に身を起こすと甲板の上に飛び出した。たぶん飛翔の訓練なのだろう、ファーヴは背中の羽を大きく動かしながら小刻みな跳躍を繰り返している。
「ファーヴ……」
シノブは、愛らしいファーヴの様子に目を細めていた。現在の彼は体長1mほどだが、半月後には1.5倍以上になり、体重も大人の男性二人を超える筈だ。おそらく飛翔を習得する頃には小さくなるための腕輪をアムテリアが授けてくれるだろうが、今の丸っこい幼竜の姿は、あと少しで見納めである。
それを思ったのか、シノブだけではなくアミィやシャルロット達まで、元気に跳ねる小さな竜を優しい笑顔で見つめていた。
◆ ◆ ◆ ◆
「可愛いね……」
「はい! もっと竜の子供が生まれると良いですね! シュメイさんのお婿さんも欲しいですし!」
シノブの呟きに答えたのは、ミュリエルだ。
彼女が言うように、炎竜達はシュメイの番となる子供を望んでいるようである。岩竜の子は雌のオルムルに雄のファーヴと、上手く二頭が生まれていたが、シュメイの相手となる雄の炎竜は、今のところ存在しない。
もっとも、彼女が成竜になるまでは二百年も掛かる。そのため、今日明日に生まれなくては、というものではない。
「フライユ伯爵領や旧帝国領には、棲家に良い場所も……」
「シノブ、どうしたのですか?」
シノブの言葉が途中で途切れたため、シャルロットが問いかける。彼女は、少しばかり不安を滲ませた顔で夫を見つめている。
「通信筒だよ。心配しないで」
シノブはシャルロットに笑顔を向けると、左手で彼女の肩を抱いた。そして彼は、右手で懐に仕舞っていた小さな筒を取り出し、片手で器用に蓋を開ける。
「シノブ様、通信筒を……」
「ああ、ありがとう」
シノブはアミィに通信筒を渡し、中に入っていた紙片だけを手の中に残す。
薄い羊皮紙は丸めてあったが、シノブが端を掴むと真っ直ぐに伸びた。実は、彼は魔力障壁の応用で紙片を伸ばしたのだ。
シノブは、普段このようなことに魔術を使わない。しかし今日の彼は、妻の側に留まり安らぎを与えると決めている。そのため彼女を抱く手を離さず、横着をしたのだ。
夫の心の内を察したのか、シャルロットも嬉しげな笑みを浮かべながら寄り添う。礼儀正しい彼女は紙片からは目を逸らしているが、その代わりにシノブの胸に顔を伏せていた。
「これは……シャルロット、転移装置のありそうな場所が見つかったようだ」
紙片はホリィが送ってきたものだ。彼女は人間に姿を変えて書いたようで、紙片には『アマノ式伝達法』に則った刻印ではなく、普通に文字が記してある。
「そうですか……では?」
シノブの言葉を聞いたシャルロットは顔を上げた。彼女とアミィ、そしてミュリエルにセレスティーヌがシノブを見つめている。
「ああ、今夜だな。今日は君の側にずっといると言ったのに……」
シノブは残念に思いながら、シャルロットに顔を向けた。
朝方、シノブは終日シャルロットと共にいると誓った。しかし、約束は守れないかもしれない。それは、彼の心に小さな棘となり突き刺さったのだ。
「シノブ様、零時を回ってから出発されては?」
「そうです! なるべくお姉さまと一緒に過ごしてください!」
セレスティーヌとミュリエルが、明るい声でシノブ達に言葉を掛ける。二人は、懐妊中のシャルロットを気遣ったようだ。
「ああ、そうだね……お姫様、それでは零時の鐘が鳴るまで側に侍らせていただきます」
「ありがとうございます、王子様。目覚めのキスも、お願いしますね。貴方が戻ってこなければ、私は目を覚まさないでしょう」
シノブの冗談に、シャルロットも悪戯っぽい笑みと共に応じた。シノブはシャルロット達に、地球の御伽話を幾つか語っていた。そのためシャルロットは、シンデレラや白雪姫も知っていたのだ。
なお、当然ながらシェロノワでは深夜の零時に鐘が鳴り響くことはないし、シャルロットもキスされなければ起きないほど目覚めが悪いわけではない。
「零時の鐘で駆け出すのは王子様ですか……シノブ様、靴が脱げないように注意しないといけませんね!」
アミィの言葉に、シノブ達は思わず笑い出した。
アルマン王国で待っているのが何か、それは今のシノブには知る由もない。しかし妻への約束を果たすために、それがどんなものであろうとも乗り越え戻ってみせる。そんな思いが、シャルロットを抱くシノブの手に宿る。
シャルロットは、夫の思いに答えるように静かに彼に寄り添った。そして仲睦まじい若夫婦の姿を、甲板にいる全ての者が優しい笑顔で見守っている。
この笑顔を守るためなら、どんなことでも出来るだろう。シノブは、湧き上がる強い思いと共に、豊かな大地を見つめていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2016年2月17日17時の更新となります。