15.19 開戦の日 中編
メリエンヌ王国、カンビーニ王国、ガルゴン王国の三国の艦隊についてアミィ達が報告をする少し前、鋼鉄で覆われた船がルシオン海の北方を進んでいた。それは、ドワーフ達が造った船である。
黒々とした鋼が印象的な十隻の船には、何れもドワーフの戦士達が乗り込んでいる。海を嫌う彼らが船に乗るのは非常に珍しいが、この艦隊には更に驚くべきことが存在した。何と十隻の船は、帆も櫂も無いのに海上を進んでいるのだ。しかも、竜や光翔虎が曳いているわけでもない。
「蒸気の力というのは凄いものだな……」
先頭の一隻で、一人のドワーフの戦士が感嘆の表情を浮かべていた。イヴァールの友人であるアハマス族の戦士イスモだ。
イスモは国境に位置するエトラガテ砦の守護隊長である。しかし、ドワーフの国ヴォーリ連合国とメリエンヌ王国の関係は良好だ。そこで、砦の守護隊からも彼を含め数名がアルマン王国との戦いに加わったのだ。
「驚いたか、イスモ! アマテール村では鍛冶に糸紡ぎ、機織りなど様々なことに使っているのだ!」
得意げな表情でイスモに応じているのは、イヴァールだ。
イヴァールが言う通り、彼らが乗る船と後続の九隻は全て蒸気船であった。しかも外輪船ではなくスクリュープロペラ船である。そのため知らない者が見たら、どうやって進んでいるか見当もつかないだろう。
ちなみに、スクリュープロペラを勧めたのはシノブである。彼は外輪とスクリュープロペラについてスマホで調べたことがあり、後者の方が効率が良いと知っていた。そしてアミィがスマホから引き継いだ情報の中に、それらの詳しい説明や画像が含まれていたのだ。
「そうか……しかし、これなら風など関係ないな」
「ああ。しかも、従来の船よりだいぶ速いのだ。本当なら、もっと造りたいのだが……」
イヴァールは、途中までイスモに笑顔で答えていた。しかし彼の表情は不満げなものとなる。
蒸気機関を動かしているのは、薪や石炭などではなく魔力である。そのため非常に高い出力を得ているが、数を揃えるのは難しい。仮に蒸気機関自体を作成しても、それを動かす魔力の確保が困難だからだ。
アマテール村で蒸気機関を使用できるのは、村が存在する北の高地に他とは比べ物にならない魔力が満ちているからだ。魔獣が多く竜が狩場を造るのに適した特殊な立地は、蒸気機関を動かすだけの魔力を提供してくれる。しかし他の場所では、そうはいかない。
「仮に造ったとしても、動かす魔力が足りないだろう。船自体は、お主達が造っていた磐船があるし、蒸気機関というのも何とか数は揃えた。だが、我らドワーフでは、魔力はどうにもならん」
イスモは後ろを振り返り、後続の船を見る。彼らの船には帆や索具が存在しないため、後方を見るのも容易かった。
十隻の船は、イスモの言う通り基本構造は磐船と同じだが、海上行動に最適化された新造船だ。従来の磐船は、空輸を主目的としたものだ。そのため船体は軽さを優先しているし、陸上に降ろすことを考えて平底であった。そこでアマテール村のドワーフ達は、海上に適したものも用意していたのだ。
そして、蒸気機関はアマテール村で作成していたものを優先的に回した。そのため、短期間で数を揃えることが出来たわけだが、魔力はそうもいかない。
「私達エルフも頑張ってはいます。ですが、ガンド様達のご協力がなければ、こうも早く出港できなかったでしょう」
二人の会話に加わったのは、先日デルフィナ共和国から来たばかりのエルフの男性ソティオスだ。彼は、フライユ伯爵領に滞在中のメリーナやファリオスの父親である。
十隻の蒸気船には、マルタン・ミュレやハレール老人達が作った高効率の魔力蓄積装置を使っている。これはベーリンゲン帝国が開発した『魔力の宝玉』を大型化し、さらに自然に失われる魔力を大幅に抑えて使用可能期間を延ばしたものだ。
とはいえ、それらに魔力を込める者がいなくては意味がない。しかも、長期間の航海を可能にする魔力であり、簡単に提供できるものではない。
そこで、それぞれの船にはエルフの男性が数十名ずつ同乗している。ソティオスと一緒にデルフィナ共和国から来た男達だ。彼らは、エルフの中でも魔力の多い選りすぐりの者達であり、蒸気船を動かす魔力の供給を担当している。
しかしソティオスが言うように、それだけの者達が集まっても一頭の竜には敵わない。事前にガンド達が魔力を込めてくれなければ、船の出港は大幅に遅れただろう。
「ガンド達の魔力は別格だからな……だが、お主達も凄いではないか」
イヴァールは、一旦空を見上げ艦隊の上を飛ぶガンドを見つめた。しかし暫し上空を眺めた彼は、ソティオスに視線を戻す。
エルフ達の同乗により、蒸気船の航続距離はかなり伸びている。したがって、イヴァールの言葉は嘘ではない。
「そうだ。我らドワーフだけでは、この船を動かすことは出来ん」
イスモも感心したように髭を扱きながら、ソティオスを見上げた。ドワーフの二人とは違い、エルフのソティオスはスラリとした長身である。そのためソティオスの方が、二人より頭一つ以上は背が高かった。
「いえ、貴方達の技術があればこそです。この大型弩砲も、だいぶ射程が伸びていると……」
ソティオスは、甲板の上に設置された大型弩砲に視線を転じた。三人の前後には、それぞれ三基ずつ特大の大型弩砲が置かれている。
蒸気船は帆を廃したため、甲板の上には大きな空きが出来た。三人がいる近く、船の中央には索敵のためのマストがあるが、その前後は従来の船とは違い開けている。
そこで、甲板には複数の大型弩砲が置かれていた。三連装の大型弩砲が段差を付けて中央が高くなるように配置された様子は、どことなく第二次世界大戦頃の軍艦のようでもある。
だが、ある意味それは当然であった。このような配置を提案したのは、シノブだからだ。
エウレア地方の従来の軍艦は、甲板ではなく、その下の舷側に大型弩砲の発射口を設けていた。甲板の下の船内に大型弩砲を置き、舷側の窓から矢を射るわけだ。
しかし、これでは攻撃可能な範囲は限定される。発射口を左右の舷側に配置しているため、真正面や真後ろを狙うことは出来ないからだ。
そこでシノブは、甲板の上にも置くことを提案した。従来通りに甲板の下の舷側にも大型弩砲を配置するが、それに加えて甲板にも置こうというわけだ。
甲板の大型弩砲は左右に向けることも可能で、攻撃の自由度が高い。それに蒸気船だから風向きと関係なく進むことが出来るし、最大速度は従来の倍以上だ。
これはエウレア地方の軍艦の常識を大きく覆すものであった。
だが、シノブの案を実現できたのは、ソティオスが言うようにドワーフ達の技術力があってのことだ。それを示すかのように、壮年のエルフの顔には素直な賞賛が浮かんでいた。
「そろそろだな……総員、砲撃戦用意!」
船内から姿を現したのは、イヴァールの祖父のタハヴォである。
実は、タハヴォが海に出るのは初めてだ。そこで彼の補佐役としてメリエンヌ王国の海軍軍人が、二人ほど後ろに続いている。
しかしタハヴォの落ち着いた姿からは、彼が初めて海戦を経験するとは思えない。それどころか、元族長に相応しい白い髪と髭や威厳のある口調のためだろう、タハヴォは歴戦の艦長のような風格を漂わせていた。
◆ ◆ ◆ ◆
「あの船は何だ! 帆も無いのに進んでくるぞ!」
「す、凄い速さだ!」
アルマン王国の北西部、ブロアート島の西の海域を航海していた艦隊の乗組員は、前方から迫る鋼鉄の船を目にして激しく動揺していた。それは彼らアルマン王国、いや他国の船乗りの常識を大きく外れた船だったからだ。
もちろん彼らの前に現れたのは、イヴァール達が乗る蒸気船である。風は西から東、つまりイヴァール達からすれば逆風なのだが、そんなことは関係無しに蒸気船は進んでいく。これは、帆船ではないから当然だ。
だが、アルマン王国の軍人達からすれば、理解不能な手段で航海する相手だ。彼らが動揺するのも当然であろう。
「騒ぐな! 相手は交戦旗を掲げているのだ! それに、ここは我が国の領海だ! 他国の船に好き勝手させるわけにはいかない!」
士官らしき男が、乗組員を叱咤する。
実際には、ここはヴォーリ連合国の領海であった。しかしアルマン王国は、ヴォーリ連合国の西部海域も実質的に支配していた。
アルマン王国は海洋王国で、ヴォーリ連合国は海が苦手なドワーフ達の国だ。そのためヴォーリ連合国の西側の海は、事実上アルマン王国のものとなっている。それ故アルマン王国の士官は、ここを自国の海だと口にしたし、乗組員達が彼の言葉に異論を唱えることはない。
「敵艦、矢を発射!」
マストの上の見張り手が叫ぶと、アルマン王国の艦隊の先頭の船、つまりこの船に矢が降り注ぐ。
「あの距離で届くのか!?」
おそらく、蒸気船との距離は2km近いだろう。常識外の射程に、士官の一人が驚愕の叫びを上げる。
「……矢文か? 確認しろ!」
そして甲板に矢が突き立った。すると、後方の指揮所から艦隊司令である中年の軍人が叫ぶ。実は、この船は艦隊の旗艦なのだ。
向かってくる艦隊が放った矢は火矢ではなく、単に甲板に突き立っただけだ。それに、矢の軸全体が白く塗られている。これは矢文だということを示しているのだ。
「はっ!」
蒸気船から次の矢が放たれることは無かった。そこで士官の一人が巨大な矢を確かめに行く。
簡単な文面なら矢の軸に直接記されているし、長いものであれば文を入れた容器が付いている。どうやら今回は後者であったらしく、士官は何かを手にして駆け戻ってくる。
「読め!」
「はっ! 『アルマン王国は、禁忌の魔道具を用い我らの同胞を奴隷とした。その行為は……』」
戻ってきた士官は、薄い羊皮紙らしきものを広げると、読み上げ始めた。それを聞いている指揮所の者達は、予想もしない内容であったのか顔を青くしている。
「『……この文を王に届けるが良い。なお、立ち向かうのなら容赦はしない』……い、以上です、閣下!」
士官が読み終えると、指揮所の者達は暫し黙り込む。
事実であれば、彼らの信ずる神に背く行為だ。そのためだろう、何れの顔にも困惑が浮かんでいる。どうやら、彼らは軍務卿ジェリール・マクドロンとは縁遠いのか、他国と同様に奴隷化に対する嫌悪を持っているようだ。
「……何もせずに引き下がるわけにはいかぬ! 一戦してから帰還する!」
しかし一同の視線を集めた艦隊司令は、僅かな逡巡の後に交戦すると言い放った。とはいえ彼の顔には、複雑な表情が浮かんでいた。そのためだろう、周りの者達も復唱もせずに無言のまま立ち尽くしていた。
◆ ◆ ◆ ◆
「敵艦隊、変わらず向かって来るぞ!」
「……馬鹿め」
マストの上から降ってくる声を聞いたタハヴォは、苦々しげな顔で呟いた。彼も敵が素直に退くとは思ってはいなかっただろうが、多少は相手の理性に期待していたのかもしれない。
「爺様、どうする?」
「予定通り戦うだけだ。何隻か残しておけば良いだろう」
イヴァールの問いに、タハヴォは重々しい口調で答えた。
どうも、彼らはメリエンヌ王国の海軍とは違って多少は相手を沈めるつもりらしい。この辺りの差は、実害を受けていないメリエンヌ王国とは違って、同胞を奴隷とされたヴォーリ連合国の怒りの深さ故だろう。
「全主砲、斉射! ただし、先頭の船には火矢を使うな!」
「左右の船にも伝えろ!」
タハヴォが砲手達に、イヴァールが通信手に命ずる。
イヴァール達は、陣形を縦一直線から横一直線に変えていた。要するに単縦陣から単横陣に変更したのだ。そのため、中央のイヴァール達の乗艦だけではなく、左右からも巨大な矢が飛んでいく。
主砲とは、蒸気船の前方に置かれた三連装の大型弩砲だ。合わせて三基の三連装砲は、並外れた大きさに相応しい射程を誇り、アルマン王国の射程外からの攻撃を可能としていた。流石に矢文用とは違い2km近くも飛ぶことはないが、通常のものよりは500mは遠くに届いている。
「マウヌの図面が役に立ったな……」
「……ああ」
イスモの言葉に、イヴァールは短く応じた。
マウヌとは、セランネ村の武器職人で、岩竜と対決するために特別製の大型弩砲を造った男だ。船に積まれた三連装の大型弩砲は対竜用とは全く異なるが、これも彼が構想していたものだったのだ。
昨年十月のガンドとの戦いで不運にも命を落としたマウヌだが、その技術力や構想力は素晴らしいものだったのだろう。
それを示すかのように、アルマン王国の軍艦はあっという間に数隻が沈んだ。
射程の差があるため、アルマン王国の船は距離を詰めようと向かってくるが、何も出来ないうちに火達磨になる。例外は、先頭の船だけだ。これはタハヴォが命じた通り、先頭の船には火矢を使っていないからである。彼らには矢文の内容を持ち帰らせる必要があるから、火矢の使用を避けたのだ。
その代わり、先頭の船にはハリネズミのように矢が突き立っている。そのせいだろう、先頭の船は幾らもしないうちに転進し戦場から離脱していく。
そして、後続もそれに続いていく。自分達だけが戦っても無意味だと思ったのだろう。
「惰弱な!」
「いや、正しい判断だ……あの船では勝てないからな」
イスモが憤然とした様子で叫ぶと、タハヴォが微かに首を振りつつ彼の言葉を否定した。タハヴォの顔には、僅かな安堵が滲んでいる。彼は、無駄な戦いを避けたかったのかもしれない。
「このまま距離を置いて追いかけるのでしたね?」
「その通りだ。……皆の者、良くやったぞ! 十分間、休憩にする! 休んだら再び西に進むぞ!」
ソティオスに頷いたタハヴォは、乗組員達に指示をする。
ここは、まだヴォーリ連合国の領海だ。したがって、まだ西に押し込まないと包囲は完成しない。そのため、彼らはアルマン王国の船を追うようにして西進するのだ。
──山の民よ。素晴らしい戦いだったな──
岩竜ガンドはドワーフ達を賞賛した。
幼竜を害する者は係累も含め全滅させると竜達は言う。実際に炎竜シュメイを助けた後、彼らは帝国の砦でそれを実行した。ガンドの言葉は、そんな竜の苛烈な一面を示している。
──さあ、魔力を補充しよう──
ガンドは、人間ほどの大きさになると甲板に舞い降りた。彼は、この間に魔力蓄積装置に補給をしておこうと思ったようだ。
「助かります」
ソティオスが礼を言う中、乗組員達が船内に駆け込んでいく。
どうやら一部の者は休む暇も無いようだ。しかし彼らの顔は、総じて明るい。そして戦いに勝った彼らを祝福するかのように、眩しい日輪が天空で輝いていた。
◆ ◆ ◆ ◆
「そうか、イヴァール達も順調か!」
「はい、つい先ほど知らせが届きました」
家令のジェルヴェの報告に、シノブは顔を綻ばせた。
シェロノワのシノブ達の下には、ルシオン海の状況が続々と届いていた。それは、各国の軍艦に乗り込んだ者が通信筒で送ってくる文だ。
シノブ達がいるシェロノワから各艦隊までの距離は、1000kmを優に超える。しかし、アムテリアから授かった通信筒は、どんなに遠くであろうと瞬時に文を届けてくれるのだ。
メリエンヌ王国やガルゴン王国の艦隊はアルマン王国に開戦を宣言し、更に敵海軍と戦い勝利した。そしてカンビーニ王国海軍も、アルマン王国の領海に迫っている。
その上、イヴァール達も無事に西へと進んでいる。つまり、全てが予定通り進んでいるわけだ。
各国からの知らせを受け取るのはジェルヴェの他、アミィ、シャルロット、ミュリエル、セレスティーヌ、アルメルだ。通信筒を持つ者は限られている。そのため、ミュリエル達も含め連絡役としてシノブの執務室に詰めていた。
もちろん連絡役だけではない。アルノー・ラヴランやジェレミー・ラシュレーなどの軍人は当然この場に控えている。それに、カンビーニ王国の出身者であるマリエッタとアリーチェ、同様にガルゴン王国のエディオラやナタリオもいる。
更に、魔術師のマルタン・ミュレやエルフのメリーナもいる。ミュレは魔道具開発の責任者として、メリーナはデルフィナ共和国の代表者としての参加だ。シノブとしてはイヴァールかタハヴォのどちらかにこの場にいてほしかったが、生憎彼らは西海だ。そこで、タハヴォの妻ヨンナが代わりにいる。
「蒸気船の配備が間に合って良かったですね」
シャルロットは、シノブに柔らかな笑みを向ける。
蒸気船の準備は、非常に短期間で行われた。船や蒸気機関自体は、それぞれ転用可能なものがあったのだが、それらを組み合わせ蒸気船に仕立て上げるまでは、一週間少々しか無かった。したがって、シャルロットの言葉は大袈裟でもなんでもない。
もし蒸気船の準備が間に合わなかったら、北方の包囲は諦めるしかなかっただろう。メリエンヌ王国など三国だけでは、手薄になってしまうからだ。
なお、海の苦手なドワーフ達だが、蒸気船には抵抗感が無いようだ。どうやら、風任せではなく自分達の思うままに進める蒸気船は、彼らの心理的な障壁を取り去ったらしい。
「ああ、魔力蓄積装置のお陰だね。マルタン、ありがとう。それに、エディオラ殿やメリーナ殿も」
シノブは、マルタン・ミュレやハレール老人が中心となって作った魔力蓄積装置を思い浮かべた。
蒸気機関自体は、シノブが最初にアマテール村に行ったときに概要を伝えた。ドワーフ達は僅かな間で実用化に成功したが、魔力の少ない普通の場所で使うのは難しかった。したがって、ミュレ達が魔力蓄積装置を開発しなければ、蒸気船に使うことは出来なかっただろう。
そして『隷属の首飾り』など新たな魔道具に対抗する品を量産するのには、エディオラも大いに協力してくれた。ミュレ達が魔力蓄積装置を揃えるのに専念できたのは、彼女やメリーナの兄ファリオスのような新たな面々の力も大きい筈だ。
そして、メリーナも兄や父ソティオス、故郷のデルフィナ共和国の間を取り持ってくれた。ファリオスやソティオスは少々癖のある人物だから、シノブも彼女が間に入ってくれて大いに安心したのだ。
「いえ、私は自分の出来ることをしただけです。それに、やりたいことでもありますし……」
ミュレは、ボサボサの黒髪を掻きながら恥ずかしげに微笑んだ。
確かに、彼は望んで魔術や魔道具の研究をしている。しかし、それが非常に役立ったのは間違いない。そのためだろう、シノブだけではなくシャルロットやミュリエル達も、彼に温かな視線を向けている。
「私も。それに、マリエッタ様も遊びに来てくれたから、楽しく仕事が出来た」
ガルゴン王国の王女エディオラは、僅かに微笑みつつ答える。彼女の隣には、カンビーニ王国の公女マリエッタがいるが、以前のように側から離さない、というほどでもない。
「研究は妾には良くわからないのじゃ。でも、エディオラ殿と話すのは楽しいのじゃ!」
程よい距離感となったせいか、マリエッタも嬉しげである。
実は、あまりマリエッタを拘束すると嫌われるかもしれないと、シノブがエディオラに忠告したのだ。そのため、エディオラは、マリエッタを始終側に置くことは無くなった。
マリエッタはエディオラを嫌ってはいなかったが、かといって武術の修行をしにくいことには少しばかり当惑していたらしい。しかし、今はシャルロットの下で修行しつつ、空いた時間でエディオラに会いに行っており、良い関係が築けているようである。
「父や兄が役に立っているようで安心しました」
メリーナは、細いプラチナブロンドを微かに揺らしながら答えた。変わり者の父と兄を持つと色々苦労があるのだろうか、彼女は苦笑しつつも安堵が滲んだ複雑な表情をしている。
「ところでシノブ様、アルマン王国の王達に何らかの警告をしないのですか? シノブ様なら、空からの潜入も充分お出来になると思いますが……」
ミュレは魔術師で魔道具技師でもあるが、フライユ伯爵領軍の参謀でもある。そのため彼は軍人としての知識も持っているし、戦の慣習も知っている。
エウレア地方の戦い、特に海戦では矢文での宣戦布告が一般的である。まずは互いの軍艦が交戦旗を掲げ接近する。次に矢文のための軽量の矢を放ち、開戦理由を伝える。一般的な性能の大型弩砲でも射程は1kmにもなるから、船の上から怒鳴りあっても伝わらないからだ。
無線や航空兵力があるわけではないから、通常はそういうやり方になる。しかしミュレはシノブと接し竜や光翔虎を見る機会も多いため、固定観念に縛られなかったようだ。それ故彼は、密かにアルマン王国に赴き首脳陣などの動揺を誘っても良いのでは、という発想に至ったのだろう。
「実はホリィやマリィ、それに光翔虎達にお願いしていることがあるんだ。俺も後でアミィやアルバーノと行くつもりだけどね」
ミュレの言葉を聞いたシノブは、思わず微笑んだ。
三羽の金鵄族のうち、ミリィはシェロノワに残りオルムル達の遊び相手を務めている。シェロノワまで敵が迫ることはないだろうが、念のために護衛としたのだ。
そして残りの二羽は、シノブの頼みを果たすべく四頭の光翔虎と共にアルマン王国で動いていた。それはシャルロット達には既に伝えているが、ずっと研究所に篭っていたミュレ達には、まだ伝えていなかった。そこでシノブは、彼らにホリィ達に頼んだことを説明していく。
◆ ◆ ◆ ◆
ここは、アルマン王国の王都アルマックの城壁のすぐ外だ。王都の出入り口である大門の前には、多少の広場があり、そこには衛兵の検査を待つ旅人や馬車が並んでいる。
王都アルマックには、まだ海上での騒動は伝わっていないのだろう。そのため、彼らは暢気な様子で都市に入るための列を作っていた。しかし、そんな彼らを驚かす事件が発生する。
「な、なんだ!? 空から杭が降ってきたぞ!」
旅人や商人達から少々離れた場所に降ってきたのは、巨大な杭である。まるで、森の木を切り取って樹皮を剥いだだけのような単純なものだ。なお、杭の高さは地上に出ている分だけでも3m弱、太さは人の胴ほどもある大きなものだ。
そして列を作っていた者達のうち数人は、杭の側に駆け寄っていく。
「何か書いてあるぞ……『アルマン王国は、禁忌の魔道具を用いドワーフ達を奴隷とした……』って、そんな馬鹿な!?」
「まさか! 『……職人としてアルマン王国に渡ったのは、奴隷とされた者達だ』だと?」
彼らは、杭の側面に記されている文章に気が付き読み上げる。どうやら杭に書かれた文章は、イヴァール達がアルマン王国の軍艦に放ったものと、ほぼ同じ内容らしい。
読んだ者達は、真に受けているわけではないようだ。しかし彼らは、頭から否定する様子もない。
「おい! そこを空けてくれ!」
「後は衛兵に任せよう。俺達が口出しすることじゃない」
城門近くにいた衛兵達が駆け寄ると、商人や旅人達は場所を譲る。そして彼らは、列に戻っていった。どうやら、下手に関わらない方が良いと思ったらしい。
◆ ◆ ◆ ◆
そんな彼らの様子を、上空から見つめる者達がいた。それは金鵄族のホリィと光翔虎のバージである。もちろん彼らは姿を消しており、地上の者達は知らないままだ。
実は、杭を作ったのはバージ達で、文章を記したのはホリィやマリィだ。なお、マリィと残りの光翔虎パーフ、ダージ、シューフは他の都市の担当である。
──これで、軍務卿を責める動きが起きると良いのですが──
ホリィはバージの背の上で、憂いを含んだ思念を発した。
今日のホリィは、金髪碧眼の人族の少女に変じている。だが幼い少女となったホリィの顔には、外見にそぐわない深い苦悩が浮かんでいた。
──難しいのか?──
思念を返すバージの側には、地上に突き立った物と同じ杭が幾つも浮いている。
杭を地上に打ち込んだのは、バージである。そして彼の周囲に浮かぶのは、他の城門の付近や王都の中に立てる分だ。
竜や光翔虎は魔力で物を掴んで運べるし、成獣となった光翔虎は自身と合わせて周りのそれなりの範囲を透明化できる。そのためバージが、杭の運搬と打ち込む役になったわけだ。
ちなみにシノブは空から紙でも撒こうかと考えたが、バージ達にとっては樹木の方が調達しやすかったらしい。確かに、これなら森にでも行けば幾らでも手に入る。
──誰しも、自分の信じたいものを信じますから──
ホリィは、少しばかり残念そうな様子であった。彼女は眷属として長い時を生きてきたが、その間に経験したことが安易な楽観を妨げるのだろうか。
──確かにな。だが、多少の揺さぶりは出来るだろう。何もしないよりは良いはずだ──
──はい。まずは、アルマン王国の首脳陣や貴族に事態を知らせるべきです。彼ら自身で解決してくれれば、それが一番ですから……ですが、念のために備えてはおきますが──
僅かながら期待を滲ませるバージに、ホリィは顔を曇らせたまま頷き返す。
ホリィは眷属だから、本心では地上の騒動に干渉したくないのだろう。それともシノブの負担を少しでも減らすために、彼が大きな介入をすることを避けたいのかもしれない。
ホリィも理想論に流されてはおらず、万一に備えてはいるようだ。しかしホリィの思念には、なるべくなら不要となってほしいというような苦悩も滲んでいた。
──そうだな──
バージは短い思念でホリィに同意した。そしてバージは、暫し沈黙する。もしかすると、彼も自身の長い生を振り返ったのであろうか。
──ところで、そなたはその格好が気に入ったのか?──
──こ、この方が文字を書くのには便利ですし! 通信筒も送らないといけませんから!──
バージの思念に、ホリィは何故か慌てた様子で答えた。それに、頬も少しばかり赤く染まっている。
──良いではないか。その足環、フェイニーも欲しがるかもしれんな……また皆を困らせていないと良いが──
──そうですね……フェイニーやオルムル達は、シノブ様のことを慕っていますから──
娘のフェイニーを案ずるようなバージの思念に、ホリィは苦笑しつつも頷いた。ホリィも、彼の心配を杞憂とは思えなかったのだろう。
──出来れば我も欲しいぞ。それに、皆で人の姿となって『光の使い』を囲むのも良いかもしれぬな──
──はい! シノブ様は恥ずかしがると思います。でも、喜んでくださると思います!──
冗談交じりのバージの思念に、ホリィは嬉しげに応じた。
そしてバージは、王都の中央に向かって飛んでいく。どうやら、次は王都の内部に杭を立てるようだ。
天を駆ける白く輝く虎と、その上の少女の姿を見ている者は誰もいない。そのためだろうか、彼らは春風のように軽やかに、そして楽しげに王都の空を渡っていった。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2016年1月26日17時の更新となります。