15.14 母と姉と
デルフィナ共和国は東西に長い国で、東端から西端は1000kmを超える。一方、南北は広いところで300km程しかない。そのため、緯度による気候の差は少ないという。
北に高山帯を持ち南を海に面するデルフィナ共和国は降雨も多い。そして北の山々からは、豊富な水が海へと流れていく。そのため間の平地には、エウレア地方一番の大森林が広がっている。
これらは森と共に生きるエルフ達にとって絶好の環境だが、一方で他国と縁遠くなる原因でもあったらしい。国全体に広がる深い森は外部からの侵入を遮る防壁ではあるが、周囲との行き来を阻む障害物でもあったのだ。
そのせいか、エルフの集落同士でも交流は活発ではないらしい。首都デルフィンは国を纏めるためにエルフの全部族が集まる特殊な集落として設けられたが、どうやら往来が難しいが故の苦肉の策という面もあるようだ。
そこで、シノブは神殿の転移をアムテリアに願うことにした。他の国々に転移網が敷かれたこともあるが、転移を活用してエルフが広い世界に目を向けてくれることを期待したのだ。
──シノブ、アミィ。エルフ達に警告をしてくれたこと、感謝しています──
壇上から巫女達が下がった後、七体の神像に向き直ったシノブとアミィはアムテリアへの祈りを捧げた。すると眼前の神像は七色の光を放ち、慈愛に満ちた思念がシノブの脳裏に響く。神秘の光と共に届いた柔らかな声は、この世界を創った最高神アムテリアのものだ。
──当然のことです。このままエルフ達が油断していたら、どうなったことか──
──そうです! エルフ達だけではなく、他の国にも不幸が訪れたでしょう!──
シノブとアミィは、どこか済まなげなアムテリアに明るさを伴った思念で答えた。デルフィナ共和国への訪問は、シノブ達のためでもあるのだ。それ故シノブは、アムテリアが気にすべきではないと思ったし、アミィも同じ考えのようだ。
エルフ達は大きな魔力を持つ。そして帝国の残党は、彼らの魔力に目を付けているらしい。
今は無きベーリンゲン帝国は、竜を従えるための魔道具に獣人達の魔力を使ったことがある。何百人、もしかすると千人を超える獣人達の魔力を吸い上げた『魔力の宝玉』は、竜をも倒す武器となったのだ。
そしてエルフの魔力は獣人達とは比べ物にならないほど多い。もし、それを魔道具に使われたら恐るべき兵器が誕生するかもしれない。そのため、シノブはエルフ達に充分な警戒をしてほしかったのだ。
──そうですね。大きな魔力を持つエルフ達を従えれば、様々なことが出来ます。そうなった場合、今まで以上に厳しい戦いになったでしょう──
最高神であるアムテリアは、シノブ達の心を読み取ることが出来る。そのため彼女は、シノブ達が思念に乗せなかったことまで理解したらしい。そして彼女は僅かに憂いの色を強くしていた。おそらく起こり得たかもしれない事態を想像したのだろう。
──ですが、これでエルフ達も問題ないでしょう。あなた達と接することで、彼らも他種族との正しい交流の仕方を学ぶ筈です。シノブ、アミィ、エルフ達をよろしくお願いします──
アムテリアの思念は、明るさを取り戻していた。彼女はエルフ達がシノブ達の警告を受け入れ纏まったことを、大層喜んでいるらしい。
──はい! それでアムテリア様、ここにも転移網の設置をお願いしたいのですが、よろしいでしょうか?──
シノブは、本来の用件である転移網の設置へと話を転じた。
毎回のことではあるが、シノブにアムテリアとの交信がいつまで可能なのか知る術は無い。そのため彼は、先に用事を済ませようとしたのだ。
──シノブ……もう少し親しく接してくれても良いと思うのです──
アムテリアは、少しばかり気落ちしたような思念を返してくる。どうやら彼女は、シノブの言葉や態度に距離感を覚えたらしい。
──えっ? どういうことでしょう?──
シノブは今までに無いアムテリアの様子に戸惑いつつも、彼女の真意を問うた。
本題とはいえ転移の設置を急ぐような話し振りは、確かに素っ気無さ過ぎたかもしれない。そう思ったシノブは、内心で自身の言動を振り返る。
◆ ◆ ◆ ◆
──シノブ、母上は堅苦しい呼び方が嫌なのよ──
シノブ達の会話に唐突に割り込んだのは、涼やかな思念の持ち主だった。アムテリアに似ているが、もう少し軽やかな思念には、苦笑しているような雰囲気が漂っている。
──アルフール様!──
──アミィ、そうなの!?──
驚きに満ちたアミィの思念を聞いたシノブは、新たな来訪者が森の女神アルフールだと知った。
つい先ほど、アルフールはエルフの巫女の一人であるメリーナを通してシノブ達に語りかけた。メリーナは巫女の託宣という神降ろしの儀式に参加し、アルフールはメリーナを依り代としたのだ。
そのため、シノブはアルフールと会話したが、彼女の声や思念がどんなものか知らないままだった。しかしアミィは神界でアルフールと会ったことがあり、当然ながら彼女の思念を知っている。
──ええ、シノブ。貴方のお姉ちゃんよ。ここなら声を届けることくらいは可能なの──
どうやら、アルフールは自身を信奉するエルフ達の下であれば、地上に思念を届けることが出来るらしい。シノブ達が今いる場所、首都デルフィンの大神殿はエルフ達にとって最大の聖地らしいから、それもあるのかもしれない。
──そうだったのですか……──
──シノブ、それより母上に!──
シノブは唐突なアルフールの訪れに納得した。しかしアルフールは、そんなシノブの感慨を他所に彼を急かす。
──その……母上──
──はい!──
シノブが、少々躊躇いつつ発した思念に、アムテリアは嬉しげな様子で答えた。彼女の発する思念には、正に至福というべき華やぎが宿っている。
──母上、エルフ達にも転移を授けてください──
シノブは、あまり馴れ馴れしくしすぎるのもどうかと思った。しかし他に聞いている者がいるわけでもない。そこで彼は、親しみを篭めつつアムテリアに転移網の構築を依頼する。
──もちろんですよ。ドワーフ達と同じく各部族に、そしてこの場にも授けましょうね。全部で七つですね──
アムテリアの答えは、どこか浮き立つような雰囲気を伴っていた。シノブは、こんなことで彼女が喜んでくれるなら、もっと早く母と呼ぶべきであったかと、少しばかり後悔をする。
──アミィ、貴女からシノブに言ってくれれば良かったのに……真面目すぎるのも考え物ね──
──済みません、アルフール様。そうは思ったのですが、私からは……──
アルフールは、アミィに囁くような思念を発していた。そして、どこか悪戯っぽいアルフールの思念に、アミィは僅かな困惑を滲ませつつ答えている。
──母上、西のことを伝えなくては──
──そうでした。シノブ、ホリィ達の探索に進展がありました。間もなく、知らせも来るでしょう。ここでの用事が済んだら、なるべく早く戻りなさい──
アルフールに促され、アムテリアはホリィ達が何かを掴んだと告げた。そして彼女は、急いでシェロノワに戻るようにと言い添える。
──アムテリア様……いえ、母上、ありがとうございます!──
驚きのあまり思わず元のように呼んでしまったシノブだが、慌てて言い直す。何故なら、どことなく不満げな気配を感じたからだ。
──感謝など不要ですよ。我が子を案ずるのは当然のことですもの──
──ええ、私達も可愛い弟を見守っているのよ。だからシノブ、頑張ってね──
アムテリアに続き、アルフールまで嬉しげな様子で答える。
特にアルフールは、かなり砕けた様子である。彼女の言葉は、託宣の時に比べると随分親しげだ。もしかすると、あの時はエルフ達が聞いているから、神に相応しい態度を心がけていたのかもしれない。
──折角ですから母上、あの品を授けては? あれは、この国でも大層役に立ちました。ホリィ達にも必要かと──
そしてアルフールは、アムテリアに何かを提案する。どうやらホリィ達に関することらしいが、シノブには思い当たるものは無い。
──そうですね……アミィ、魔法のカバンに入れておきます。後で確かめてください──
アムテリアは、暫し思案したらしい。しかし彼女は結局アルフールの言葉を受け入れたようだ。アムテリアは、魔法のカバンに授け物を入れると柔らかな思念でアミィに伝える。
──わかりました! ありがとうございます!──
アミィは、アムテリア達が言うものが何か見当が付いたのかもしれない。彼女は非常に嬉しげな様子で母なる女神に言葉を返した。
──シノブ、アミィ。西で待つ相手は、油断ならない存在のようです。本来なら私達が対処すべきかもしれませんが……──
──母上、シノブ達なら大丈夫ですよ。……シノブ、アミィ。デューネお姉様のためにも、頑張ってね。それと困ったことがあれば、いつでも相談しなさい。可愛い弟を助けるのは、私達にとっても嬉しいことなのよ!──
アムテリアとアルフールの思念は、対照的であった。少々案ずるようなアムテリアと、元気付けるようなアルフールの違いは、母と姉の差であろうか。しかし、どちらの思念もシノブ達に対する大きな慈しみが宿っている点は、同じであった。
そんなことをシノブが考えているうちに、辺りを包んでいた輝きは消えていた。どうやら、神々の訪れは終わったらしい。それを悟ったシノブは、アミィと共に神像に深々と頭を下げていた。
◆ ◆ ◆ ◆
シノブとアミィは、転移が可能となったことをエルフ達に伝えた。それを聞いた族長達や長老衆は、早速転移を試すため各部族の集落に使者を送る。
ここデルフィンは、首都でもあるが祭祀の中心でもあるという。エルフの部族は六つ存在するが、その中でも特に優れた者がデルフィンに集まり、他国でいう神官として働いている。したがって、転移の条件である強い加護を持つ者は、多かったのだ。
エルフは、広大な森の中に小さな集落を幾つも作っている。彼らは大規模に森を切り開くことが無いため、一つ一つの集落は、他でいう村に相当する規模らしい。例外となるのは部族の中心となる集落だが、それも他国なら大きめの町というところだ。そのため連絡すべき先は多い。
そこでシノブとアミィは『アマノ式伝達法』などの他国で使われている通信方法についてエルフ達に教えることにした。アレクサ族は、この方式について多少の知識は持っていたが、まだデルフィナ共和国全体には広まっていないらしい。
アレクサ族はメリーナの祖母エイレーネが族長だ。そのためエイレーネは、フライユ伯爵領に滞在する孫達を通して新たな知識も得ていた。しかし森の中は見通しが利かないため、光や腕木での伝達は難しい。したがって、新式の通信法も、あまり広まってはいないという。
「それなら、音を使うと良いですよ。太鼓や笛とか」
シノブは、巫女の託宣でも使われた楽器を挙げた。メリエンヌ王国軍でも、伝令兵はラッパなどを用いて伝達をする。それなら、森の中でも充分使用できるだろう。
「それは良いですね」
「ええ。音での合図は、これまでも使っていましたから」
エイレーネの言葉に、他の族長が頷いた。
エルフ達も、遠方との連絡に音を活用してはいた。もっとも、狩りの際の合図など限られたもので、種類も十数しか無いらしい。
アムテリアから急ぐようにと言われたシノブ達が、『アマノ式伝達法』について語っているのは、狩りに出かけたイジェ達の帰還を待っているからだ。
シノブと共に来た竜や光翔虎は、子供達に狩りや飛行訓練をさせるため、東の森に向かったのだ。一行を率いるのは炎竜イジェと光翔虎のメイニーという成年に達した二頭である。そして、まだ成体ではないが百歳を超え大人に近い光翔虎のシャンジーが、彼女達を補助している。
そして彼らは、たまたま近くを巡っていたシャンジーの両親フォージとリーフも合流していた。そのためフォージ達も、こちらに向かっているらしい。
「シノブ様、お連れいただく者達の準備が出来ました」
「フライユ伯爵、お世話になりますよ」
シノブの前に現れたのは、メリーナの父ソティオスであった。彼は、満面の笑みを浮かべている。
エルフの族長達は、シノブ達を支援すべくソティオス達を先乗りさせることにしたのだ。エルフでも戦は男性の仕事だったようで、先発隊として送り込まれるのは殆どが男性であった。
そして、メリーナの曾祖母であるソフロニアもフライユ伯爵領に来ることになっていた。もっとも、こちらは戦うためではなく、北の高地に準備中の学校を見学しに行くのだ。ソフロニアがエルフ達にどんな協力を出来るかを見定め、後続として送る者を決めるという。
「歓迎しますよ。皆さんにはお願いしたいことがあるのです」
「ほう、どんなことですかな?」
シノブの言葉を聞いた、ソティオスは興味深げな表情となった。彼だけではなく、共に来たエルフ達も同様だ。
ソティオスと共に現れたのは、彼と同年齢の男性達だ。何れも人族なら三十代半ばから五十前といったところであろうか。ただし、長命なエルフである彼らは、実際には百歳を優に超えており、それに相応しい熟練した戦士であり、魔術師なのだ。
とはいえ、シノブやアミィは彼らを遥かに上回る魔力の持ち主だ。そのシノブ達から依頼されるなど、どんなことであろうか。ソティオス達の青い瞳には、そんな問いが浮かんでいるようであった。
「実は、魔力で動かしたいものがありまして……」
シノブは、以前ドワーフ達に頼んだものについて、エルフ達に説明していく。
それは、北の高地で採れる魔力蓄積の結晶で造った魔道装置を使うものだ。そして、魔力は事前に蓄積してから戦場に持っていくことになっていた。
これまでシノブは、自分か竜や光翔虎などで魔道装置に魔力を充填するつもりであった。魔道装置は、ミュレやハレール老人が工夫したため長時間魔力を蓄えることが可能である。したがって一旦魔力を込めれば、かなりの間持つ筈だ。
しかし、魔力の多いエルフ達が来てくれるなら、自分達がいなくても補充できるし、魔力切れの危険も少なくなる。そう考えたシノブは、以前からの計画をソティオス達に語っていく。
◆ ◆ ◆ ◆
シノブがソティオス達への説明を終えたとき、彼の通信筒にホリィからの知らせが入った。
それは、アムテリアの言葉通り、西での進展を告げるものだった。ホリィは、都市オールズリッジの港でドワーフの職人達を発見したのだ。
ドワーフ達は、オールズリッジの軍港の北にある造船所の、地下に閉じ込められていた。というより、ホリィの知らせによれば、地下に大規模な作業場が設けられていたらしい。
それらをシノブがアミィに伝えていると、東の空から幾つもの影が舞い降りてきた。狩りから戻った炎竜イジェ達である。
──『光の使い』よ。忙しそうだな──
──シャンジーは、ご迷惑をお掛けてしていないでしょうか?──
シャンジーの両親、光翔虎のフォージとリーフは、大神殿の庭に出たシノブに挨拶をする。
一緒に空から舞い降りたのは、炎竜イジェにオルムル、シュメイ、ファーヴの三頭の子竜、そしてメイニー、シャンジー、フェイニーの三頭の光翔虎だ。合わせて九頭は、シノブとアミィを囲むように並んでいる。
「エルフ達も協力してくれるから、だいぶ楽になると思うよ。それに、シャンジーは良くやっているから心配しないで」
シノブは、フォージとリーフに笑いかけた。彼の後ろでは、アミィも微笑みを浮かべている。もっとも、こちらは少し苦笑気味だ。やはり、毎日のように各地を飛び回るシノブは、彼女の目から見ても忙しく映るのだろう。
「皆さん、こちらが東の森に棲むフォージとリーフです。異形への警戒は、彼らもしています。今後は互いに協力してください」
シノブは、エイレーネなどエルフの族長達や後ろの長老衆に、フォージとリーフを紹介する。
アルマン王国に渡ったベーリンゲン帝国の残党は、デルフィナ共和国のエルフを捕らえようとしているらしい。そのためシノブとしては、エルフと光翔虎に協力して当たってほしかったのだ。
──森の民よ。そなた達のことは、姿を消して眺めていた。今までは言葉を交わすことが出来ず側に寄ることは無かったが、これからは同じ森の仲間として共に栄えよう──
「こちらこそよろしくお願いします」
エルフの中でも、アレクサ族の者達は『アマノ式伝達法』を知っている。そのため、エイレーネや彼女の母のソフロニアは、フォージの言葉を理解していた。
「やはり、我らの近くに……」
「祖母から聞いておったが……」
エイレーネの娘で補佐役のアヴェティが、通訳をすると、族長や長老達から囁きが零れる。
どうやらエルフ達は、光翔虎について多少は知識を持っていたらしい。
確かにメリーナなど若手のエルフも伝説として知っていたし、族長や長老などはメイニー達に会ってもさほど驚かなかった。他の種族とは違い寿命が長い彼女達からすれば、数百年前のことでもほんの数世代前でしかない。そのため、他の国の者達のように驚愕しないのであろうか。
「確か、イジェが二百数十歳だったか……メイニーがおよそ二百歳で……長老達の何人かは、イジェやメイニーより年上なんだよな……」
シノブは、エルフとフォージ達が挨拶を交わす様子を見ながら呟いていた。
平均的なエルフでも寿命は二百五十歳くらい、長生きすれば三百歳以上になることもあるらしい。そのため、竜や光翔虎への態度も他の種族とは異なるのかもしれない。シノブは、そんなことを考える。
「シノブ様、女性の年齢に触れない方が良いですよ。でも、その辺も影響しているかもしれませんね。フォージさんとリーフさんも、歳が上といっても数十歳から百歳の違いですし」
アミィは、悪戯っぽい笑みを浮かべつつシノブに忠告する。
フォージがおよそ四百歳、リーフは三百数十歳だ。したがって最年長のエルフからすれば、この二頭ですら多少年上なだけである。ちなみに族長達の平均年齢は二百歳くらいで、長老衆はそこから一世代か二世代上らしい。
「ソティオスさん。デルフィナ共和国の建国には、光翔虎が絡んでいるのですか?」
シノブは、近くにいたソティオスにエルフと光翔虎の関わりについて尋ねた。長老衆の一人は光翔虎について祖母から聞いたと呟いた。であれば、他国と同様に建国時に光翔虎が関与したのではないか。シノブは、そう思ったのだ。
デルフィナ共和国の成立は創世暦405年で、今から六百年ほど前の出来事だ。そうすると最年長の長老からしても、建国は五世代か六世代は前ではないか。しかし、若い時期の長いエルフであれば、百数十歳でも出産できるかもしれない。そうすると、祖父母が建国期に生まれた者もいる可能性はある。
「私はあまり詳しくないですが、建国時に英雄デルフィナや聖人を助けた巨大な虎がいた、と聞いたことはあります。義祖母なら、もっと知っているでしょう」
ソティオスは、妻の祖母であるソフロニアなら知っているだろうと言う。
どうやらソティオス自身は、歴史に詳しくないらしい。彼はアレクサ族で一番の弓術名人で、植物栽培の第一人者でもある。しかし好きなことには詳しくても、それ以外は疎いようだ。
「ありがとうございます。後で聞いてみます」
シノブも、そんなことではないかと思っていたので、失望することは無かった。幸い、ソフロニアはフライユ伯爵領に来る。ならば、質問する機会はある筈だ。
他の国とは違い、僅か数世代しか経っていない者達が、どのように過去を捉えていたのか。シノブは、巨大な虎や竜とエルフの語り合いを眺めながら、そんなことを考えていた。
◆ ◆ ◆ ◆
エルフ達の建国の英雄の名は、正しくはデルフィナ・アンゲラ・デルフィネである。
この、少々紛らわしい名前が生まれたのは、エルフ独自の命名法が原因である。エルフは、自身の名の後ろに母の名前と祖母の名前を付けて正式な名とする。つまり、英雄デルフィナの母はアンゲラで、その母がデルフィネというわけだ。
この風習は、現在にも受け継がれている。例えばメリーナの正式名はメリーナ・アヴェティ・エイレーネで、母がアヴェティで祖母がエイレーネである。ちなみに、男性は結婚すると妻に姓を合わせる。そのため、メリーナの父の正式名ソティオス・エイレーネ・ソフロニアには、妻の母と祖母の名が入っている。
このように女権社会であるエルフだけあって、建国を助けた聖人も女性であったらしい。シノブが知っている限り、他の国も正体は女性だったようだが、本来の性別を隠して男としていた。しかしデルフィナ共和国に現れた聖人は、他とは違い女性だと伝わっている。
やはり男ではやり辛かったのではないだろうか。シェロノワへと戻る磐船で、シノブはソフロニアの話を聞きながら、そんな想像をしていた。
「昔のエルフ達も、森で自由に暮らすことを望んでいた。そのため、国として纏まろうという者は少なかったという。そもそも当時は集落程度しか存在しなかったから、今のような大きな国を理解できなかったのかもしれぬ。
そこで英雄デルフィナは、聖人クリソナと共に自身の力を示したのだろう」
ソフロニアは既に二百五十歳を超えているからだろう、口調には女性らしさが少ない。ただし姿勢は良いし言葉も明瞭、それに髪こそほぼ白髪だが顔は皺も目立たず若々しくすらあった。
流石はエルフ、他の種族からすれば羨望の的となる長寿と老化の少なさだ。
──アミィ、クリソナって?──
現在、光鏡を使った連続転移の最中だ。しかしシノブも光鏡の扱いに随分と慣れてきたため、会話くらいは問題ない。
今までの例からすれば、聖人の名は地球の何がしかの言葉に因んだ仮のものだろう。そう思ったシノブは、アミィに心の声で密かに尋ねる。
デルフィナ共和国は、エウレア地方では東南に位置する。
そのためシノブはギリシャに相当する国だと思っていたが、生憎ギリシャ語に通じていなかった。日本では大学一年生であったシノブだが、ギリシャ語を学ぶ機会は無かったのだ。
そこでシノブはアミィの答えに期待する。
──えっと……たぶん『chryso』で『金』だと思います──
アミィは、自信なさげな思念をシノブに返してくる。どうやら彼女もギリシャ語には詳しくないらしい。
もっとも、これは当然ではある。アミィの地球の知識はシノブのスマホから得たものだから、シノブが必要としなかった知識まで持ち合わせている筈もない。
──まさか、金鵄族ってこと?──
シノブは、アミィの答えに少々驚いた。今まで眷属としての種族が判明している聖人は、全て天狐族だったのだ。それに、金鵄族は鳥の姿をしている。しかし、ソフロニアの語る内容からすれば、聖人クリソナはエルフだったらしい。
──はい。おそらく、地上に降りる際に人の姿を授かったのだと思います。実は……──
──そうなんだ~、お爺さんやお婆さんと会ったんだね~。シノブの兄貴、ボクも初めて知りました~──
アミィが何か言いかけたとき、シャンジーがそれを遮った。
ソフロニアの話は、英雄デルフィナと聖人クリソナの冒険に移っていた。それは、東の森に棲む光翔虎を探す旅だったのだ。
「シャンジーのお爺さんやお婆さんって、もう世界を回る旅に出ているんだったね?」
──そうです~、ボクが生まれてから戻ってきたことは無いです~──
子育てを終えた老齢の光翔虎は、子供に棲家を譲って世界中を巡るという。世界を巡るのなら、百年に一度くらい帰っても良さそうなものだ。しかし、実際には、そんなことは無いらしい。シャンジーだけではなく、メイニーやフェイニーも祖父母を知らないという。
「幸い英雄デルフィナと聖人は、さほど経たずに光翔虎と会えた。英雄デルフィナは優れた巫女であり、アルフール様から彼らの棲む場所を詳しく聞き取っていたからだ」
ソフロニアは、少しばかり自慢げな様子で語っていた。エルフの祖がアルフールの眷属という伝説は間違いと判明したが、それでも先祖への尊崇の念が薄れたわけではないらしい。
シノブとしても、他種族を見下さないのであれば、エルフの先祖崇拝まで否定する気は無かった。そのため彼は、口を挟まないで聞いている。
もっとも、アルフールは自身が守護するエルフ達を非常に可愛がっていたらしい。したがって、英雄デルフィナに与えられた情報は、懇切丁寧なものだったのではないか。そう思ったシノブの顔には、知らず知らずのうちに笑みが浮かんでいた。
シノブは、何とはなしに自身の神々の御紋を取り出してみた。
神秘の光を放つ紋章からは、神々の気配が感じられるような気がする。現に、御紋の光は帝国の神との戦いで、アムテリア自身のような不可思議な光を放っていた。それ故シノブは、御紋が神界へと繋がる門のように感じたのだ。
──シノブ、お姉ちゃんはそんなに甘くないわよ──
──それはどうでしょう?──
御紋を見つめていたシノブは、微かな声を聞いたような気がした。不満げな声と、苦笑気味の声。それは、つい先ほど思念を交わしたアルフールとアムテリアのものに似ている。
──姉上? それに母上?──
しかし、シノブに答えは返ってこない。もしかすると、シノブが聞いたと思ったのは幻聴だったのかもしれない。
一同がソフロニアの話に聞き入る中、シノブはさりげなく周囲を窺った。だが、アミィも含めた全員に変わった様子は無い。そのため、シノブは怪訝に思いつつ、再び御紋へと視線を向ける。
御紋は何も答えてくれない。ただ、美しく輝くだけだ。そして磐船の上には、御紋を手にする彼を見守るように、優しい春の光が煌めいていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2016年1月16日17時の更新となります。