03.08 領都の決闘
領都セリュジエールの領軍本部。その本館前に広がる訓練場は、間もなく始まるシノブとシャルロットの決闘を前に静まり返っている。
訓練場の一角には、日除けのためだけとは思えない立派な天幕が張られている。それもそのはずで中にいるのはベルレアン伯爵家の面々、当主のコルネーユ・ド・セリュジエと第二夫人のブリジット、その娘のミュリエルである。
「……結構いるな」
準備を済ませたシノブはアミィと共に控えの天幕を出ると、誰に言うともなく呟いた。観客は大天幕の中だけではなく、軍人達が数えきれぬほど集っていたのだ。
軍人達は現れ出でたシノブに気付き、何やら囁き始めた。そのためシノブは反射的に、自身の服へと目を向けてしまった。
シノブは青と白を基調とした領軍の軍服に胸甲を付け、用意された模擬剣を右手に持っている。決闘では魔法装備の装着が認められないため、全て領軍からの借り物だ。
したがって格好自体は見つめる者達と変わらない、ありふれた略装だ。首元は詰め襟の現代日本でも士官の制服として通用しそうな長袖長ズボンの上下、そして頑丈な革製の編み上げブーツである。
やはり服装ではなく伯爵家継嗣と決闘する自分への好奇からだ。そう理解したシノブは素知らぬ顔で前を向く。
「カトリーヌ様はいらっしゃいませんね」
アミィは他の者に聞こえないくらいの囁きで、シノブに注意を促す。彼女はコルネーユの第一夫人カトリーヌ、シャルロットの母の姿が見えないのを訝しく思ったらしい。
「お優しい方だから、娘の決闘を見るのを嫌ったのかな?」
シノブも疑問に思ったが、とりあえずは自身の推測を返す。そして同時に、周囲に悟られぬ程度の動きで脇へと視線を向ける。
中央の大天幕に欠けているのはカトリーヌだけではなく、王都訪問中の先代伯爵アンリも当然いない。しかし伯爵お付きの侍従やブリジットとミュリエルの侍女達もいるので、それなりに人は多かった。
長椅子に座した伯爵一家の後ろには知った顔が並び、普段はシノブ達の世話をしてくれる侍女のアンナや、家令のジェルヴェもいる。それにジェルヴェの孫でミュリエルの遊び相手でもあるミシェルも、長椅子の脇に控えている。
大天幕の者達もシノブ達に気が付いたようだ。しかし決闘前の静けさに呑まれたか、声を掛けはしない。
一方シノブも緊迫した雰囲気に影響されたらしく、控えの天幕の前にしばし立ちつくす。
「……シノブ様。シャルロット様です」
アミィの声に、シノブは大天幕を挟んで逆側の天幕へと視線をやった。
そこにはシノブと同様に軍服の上に胸甲のみを付けたシャルロットと、側に控えるアリエルとミレーユの姿がある。訓練場を取り巻く領軍の軍人達も気付いたようで、抑え目だが言葉を交わす。
シャルロットは常と同じくプラチナブロンドを結い上げている。衣装は司令官としての美麗な装いではなくシノブと同じ略装だが、それも訓練時には目にする姿だ。
しかし表情が違う。常の凛々しくも人の心を惹きつける継嗣の泰然たる様はどこへやら、まるで戦場に立つかのように鋭い顔である。
囲む軍人達も、彼女の鬼気迫ると言っても過言ではない気迫を感じたのだろう。一瞬のざわめきの後は今まで以上に静まり返り、痛いほどの静寂に包まれた。
「それでは、シノブ殿とシャルロットの決闘を開始する。両者、前へ!」
大天幕から伯爵が進み出て、あたりに響き渡る烈声で宣言した。普段は穏やかな口調の伯爵だが、領軍の最高司令官に相応しい威厳に満ちた大音声である。
「それじゃアミィ、行ってくるよ」
シノブは、穏やかな声でアミィに言い置く。
シャルロットの挑戦に本気で応えると決めた以上、シノブに迷いはない。揺らぎなく程よく張った心でアミィに微笑みかけ、しかし前を向いたときにはシャルロットに並ぶ鋭さを宿して訓練場の中央へと進み出る。
「シノブ様、御武運を……」
主を信頼しているのだろう、アミィも優しく微笑んで見送った。
武運をと言いつつも、それは送り出す一声に過ぎない。それだけのものをシノブは身に付けたと、導き教えたアミィは確信しているのだろう。
◆ ◆ ◆ ◆
訓練場の中央に進み出たシノブとシャルロットは、5mほどの距離を置いて向かい合う。そしてベルレアン伯爵がその脇、やはり同じくらい二人から離れた場所に進み出た。
「準備はよろしいか?」
伯爵の声に、向かい合う二人は微かに頷く。
それぞれ右手で小剣の刃を丸めた模擬剣を持っている。しかし違いはあり、シノブは模擬剣のみだがシャルロットの左手には直径50cmくらいの円形の盾があった。
元々小剣は片手用、柄も両手で握れるほどはない。中には双剣術を修める者もいるが、メリエンヌ王国だと反対の手で盾というのが一般的だ。
ただしシノブがアミィから教わった戦闘術は、残る手で魔術を行使するため盾を用いない。近接格闘をしつつ魔術を使える者は希少だがシノブやアミィにとっては容易で、その方が多様な戦い方が出来るからだ。
もっとも決闘では体外に影響を及ぼす魔術を禁じており、空いた手は拳打にでも用いるしかなさそうだ。
「では……始め!」
伯爵は高々と上げた右手を振り下ろし、素早く数歩後ろに下がった。ついに戦いの幕が切って落とされたのだ。
シノブは小剣を片手正眼に構え、場を変えぬままシャルロットの動きを待つ。
小剣といっても馬上で使う長剣に比べてのこと、柄も含めて70cmくらいの剣は得物として充分以上だ。現にシノブが突き出した模擬剣は、刃が無いことを忘れるくらいの威圧感を放っている。
一方のシャルロットだが左手の盾をやや前に出して右肘を引き、剣を盾の背後に隠すように構えている。武器の長さはシノブと同じ、盾のすぐ後ろだろう剣尖で刺突を狙っているようだ。
涼やかな顔で剣を突きつける自然体のシノブに対し、盾で己を隠すようにしながら力を溜めるシャルロット。対照的な構えの二人だが、双方とも金髪碧眼だから遠目には兄妹が稽古しているようでもある。
しかし鋭く張りつめた空気は、これが真剣勝負だと声高に主張していた。
「シャルロット様とシノブ殿……。どちらも動かない……か」
「下手に動けば命取りだからな……」
互いの呼吸を量るように動かず対峙する二人。しばらくこの睨み合いが続くのかと囁く周囲の者達。だがその時、シャルロットが瞬間移動したかと思うようなスピードで一足飛びに間合いを詰めた。
シャルロットは飛びかかる速度に加え、左手の盾をシノブに撃ち当てるように突き出す。身体強化による常人では為しえない稲妻の如き突撃は、旋風すら巻き起こす。
盾で打ち倒せれば良し、相手が打ち払うなら剣で刺し貫く。これをシャルロットは狙っているのだろうが、思惑は外れ何の感触もないまま突き抜けそうになる。
しかし躱されたと悟ったシャルロットは、すぐさま反射的に右側へと飛び去った。突進した勢いはそのまま、強引に軌道を変えた姿は女豹のようだ。
とはいえ相手は並の武人ではない。シャルロットが見たのは、自身を上回る速度で追撃してくるシノブであった。
人の限界を超えたシャルロットの突進を躱せたのは、彼女を上回る身体強化を使えるシノブの反射神経故であった。
シャルロットが踏み込んだ瞬間、その動きを察知したシノブは僅かに彼女の動線から外れ側面に移動した。そして通り過ぎるであろう相手を待ち構えるが、半歩手前でシャルロットは殆ど直角に飛び去った。
まるで獣のように鋭敏なシャルロットの感覚と跳躍。その力強くも美麗な妙技に驚嘆しつつも、シノブはスピードを上げて敵手を追いかける。
ガンッ、とシャルロットの盾が音を立てた。まずは小手調べとシノブが放った一撃を打ち払ったのだ。すかさず右手の剣を突き出す彼女だが、既に相手の姿は消えている。
先ほどのシャルロットと同様に、シノブは身体強化を駆使して大きく飛び退いたのだ。
「シャルロット様の雷撃を!?」
「逆に追撃を放った!?」
10mほどの距離を空けて対峙する二人。一瞬の攻防にざわめく周囲。特に軍人達の動揺は大きかった。彼ら自身を含め今までシャルロットの対戦した多くは、初撃の突進に敢え無く沈んでいたからだ。
軍人達が『戦乙女の雷撃』と呼ぶ、常人では不可能な突撃から繰り出される盾あるいは剣。これを躱せるのは、彼女と同等以上に身体強化を駆使できる達人のみ。
領内なら二人だけ、ベルレアン伯爵コルネーユと先代伯爵アンリしかいなかった。
「素晴らしいですね。シャルロット様の一撃を凌ぐとは」
いつの間にかアミィの横に歩み寄っていたシメオンが、静かに語りかける。
距離こそ違えど最初と同様に片手正眼のシノブと盾を軽く前に突き出すシャルロット。二人は電撃のような攻防と一転し、動きを止めたままだ。
それ故しばらく睨み合いが続くと、シメオンは読んだのかもしれない。
「シノブ様にとっては簡単なことです」
応じはしたアミィだが、シノブ達に視線を向けたままだ。
シノブとシャルロットは再び静かに相手の動きを窺うのみ。しかしアミィの瞳には常人に見えぬものが映っているのだろうか。頭上の狐耳もシメオンの声に反応することなく、前を向きピンと立っている。
「ええ。あの二人には当然のこと……我々からすれば神技にも等しい動きですが」
シメオンは答えるともなく呟く。彼の視線もアミィと同じく、戦いの場に立つ二人から動かない。
「……シメオン様。どうしてシノブ様に勝ってほしいなどと言うのですか? 貴方にとってシノブ様は邪魔者では?」
アミィはシノブ達から視線を動かさず、しかし斬りつけんばかりの鋭さでシメオンに問いかける。彼女の声は決して大きくないが、内に秘められた気迫のためか聞く相手を縛り付けるような何かが宿っていた。
「これは率直な問いですね。
……簡単なことです。人にはそれぞれに相応しい役割がある。戦乙女の横に立てる者など、そうはいません。やっと現れた期待の星を応援する……そんなにおかしいことですか?」
シメオンは怯むこともなく、静かな口調で言葉を紡いでいく。
アミィの言葉が全てを斬り裂く刃でも、影のように密やかなシメオンに届きはしない。そう思ってしまうくらい彼は変わらず平静な姿を保っている。
しかし影にも心はあるようで、平板な声は僅かながら熱を伴っていた。
「では、シノブ様にシャルロット様の婿になってほしいと?」
「別に彼でなくては、とまでは思いませんが……。ただ、シャルロット様に勝てる相手が他にいない……このままでは意に沿わない結婚をする羽目になりますから」
少し和らいだ再度の問いに、やはりシメオンは淡々と答える。
先ほどの応えより、何かを押し殺すように声量が落ちている。それはシャルロットを案ずるからか、あるいは別の感情からか。しかし青年貴族の表情は真摯で瞳にも曇りはなく、根底に純粋な懸念があるのは確かなようだ。
「……貴方はそれで良いのですか?」
「言ったでしょう。人にはそれぞれの役割があると。……ほら、勝負が動きますよ」
思わずといった様子で顔を向けたアミィに、シメオンは韜晦めいた言葉を返す。しかし彼は偽りを口にしたわけではない。
しばらく彫像のように動かなかったシノブとシャルロットだが、変化が生じていた。
シノブは飛び退った時と変わらず、片手正眼の構えを保っている。しかしシャルロットは左手の盾を体に引き付け、更に右手の剣を頭上に振りかぶったのだ。
◆ ◆ ◆ ◆
「殺す気か……」
観衆の誰かがぽつりと呟いた。
決闘は頭部への攻撃を禁止している。それなのにシャルロットは敢えて上段の構えに出た。
もしかするとルールを無視してでも一撃を加える気か。そんな想像を彼はしたのだろう。
上段からの一撃を剣で打ち払えば盾の一撃。逆に盾の一撃を押し返せば上から剣が降ってくる。しかも剣と盾いずれが来るか直前まで読めはしない。果たして軍人達の予想は当たっているのだろうか。
集った者達の視線の真ん中で、シャルロットは更なる動きを示す。彼女は緩やかに腰を沈め、跳躍の準備に入ったのだ。
そして一呼吸か二呼吸。シャルロットは裂帛の気合と共に渾身の跳躍で突き進み、同時にシノブも閃光の素早さで飛び込む。低く滑るように一瞬で間合いを詰めた二人は、真正面から激突した。
上段からシノブの脳天めがけて剣を振り下ろしつつ、シャルロットは盾で胴を狙う。対するシノブは剣を掲げるが、腹部を守るものはない。
電光石火の攻防を捉えた者が、どれほどいたか。多くの者には激突した後シャルロットが弾き飛ばされたとしか映らなかっただろう。
「アミィ殿?」
シメオンは武官でもなく身体強化も不得意だ。そのためだろう、彼は隣のアミィに問いかける。
「シノブ様は自身の剣でシャルロット様の剣を打ち払い、左手で盾を封じました」
「手で盾を? 確かに右手の剣で上からの攻撃を迎え撃つ以上、それしかないと思います……ですが爆発的に突き出される盾を、素手で抑えられるものなのですか?」
アミィの返答が簡潔極まりないものだったからか、シメオンは問い返す。ただし彼の口調はあくまで平静で、理解しかねたわけではないようだ。
おそらくシメオンは、アミィの更なる説明でシノブの力量を掴もうとしているのだろう。
「身体強化は肉体の強度も上げます。そうでなければあの動きに耐えることはできません。
それとシャルロット様が盾を突き出す前に、シノブ様が押し返したのです。シノブ様の掌底突きは、シャルロット様の技より数瞬速く放たれました」
激突した地点に立つシノブの足元は大きく窪み、一瞬の攻防で繰り出された衝撃がどれほどのものであったか物語っているかのようだ。そして不安定な足元を嫌ったのか、彼は数歩前に踏み出した。
対するシャルロットは弾き飛ばされたまま、大地に倒れていた。しかも激突した衝撃のせいだろうか、右手に持っていた剣は数mも先に転がっている。
これで勝負は決まったか、と大方の者が思ったその時。シャルロットがよろよろと立ちあがり、盾を投げ捨てた。
鈍い音を立てて転がった盾には目もくれず、シャルロットは自身の剣を拾った。そして本来片手で持つ小剣を、右手の上から左手を重ねて両手で保持する。
地に伏した服や髪は土に塗れ、シャルロットに決闘を開始した時の華麗さはない。青と白の軍服も、繊細なプラチナブロンドも、土埃で無残に汚れている。
しかし『ベルレアンの戦乙女』の異名が示すように、彼女の青い瞳だけは凛々しくも美しい輝きを失っていなかった。
「……シャルロット様。その手では満足に剣を振れないでしょう?」
シノブは静かに問いかける。
どうやら激突の衝撃で、シャルロットは手を痛めたらしい。もはや片手では、しっかりと剣を握れないようだ。
「元より勝てぬ勝負と分かっていたのだ。剣が振れぬくらい何ほどのことか」
シャルロットは深い湖水のような瞳で、シノブを睨みつける。
倒れようが、土で汚れようが、シャルロットの気迫は衰えない。たとえ剣を使えなくなろうとも体が動く限り彼女は挑み続けると、シノブは悟る。
「……分かりました」
シノブは微かな呟きを残し、三度シャルロットに突進した。
一方のシャルロットは、もはや来ると分かっていても対応できないのだろう。彼女は必死に剣を合わせようとするが、その動きは鈍くとても間に合いそうもない。
ギンッ、と鋼のぶつかる音がしたかと思うと、無手のシャルロットに剣尖を突きつけるシノブの姿があった。そしてシャルロットが持っていた小剣は高々と舞い上がり、遥か後方へと突き立つ。
「それまで! 勝者、シノブ殿!」
ベルレアン伯爵の叫びと共に、シャルロットは崩れ落ちた。そして息を呑んでいた人々のどよめきが続き、先ほどまでの異様な圧迫感を霧散させていく。
周囲の喧騒を他所に、シノブは気を失って倒れるシャルロットに一礼した。続いてシノブは身を翻し、アミィのところに戻っていく。
そして入れ替わるように治癒魔術の使い手達が、倒れ伏したシャルロットへと走り寄っていった。
「お疲れさまでした。シノブ様」
「……アミィ。念のためにシャルロット様の様子を見てくれないか」
優しく労うアミィに、シノブは険しい表情のまま治療を依頼する。
伯爵が用意した治癒術士達も充分な使い手だろうが、シノブは導き手たるアミィを心の底から信頼している。もし万一のことがあれば、彼女の治癒魔術が役立つと思ったのだ。
「はい、では行ってまいります!」
アミィは大きく頷くと駆け出し、シャルロットへと向かっていった。既にシノブ達が治療院で様々な成果を挙げたのは広く知られており、すんなり彼女は治癒術師達の輪に入る。
その一方でアミィが去るのを待っていたかのように、シノブへと寄る者がいた。それは銀を思わせる髪色の細身の青年、先ほどから様子を窺っていたらしきシメオンである。
「不器用な方ですね。
貴方も治癒魔術の使い手と聞いています。勝てぬと分かっていて必死に戦った乙女を治療してあげれば良いでしょう。それに、どうして崩れ落ちるシャルロット様を抱きかかえてあげないのですか?」
「シメオン殿に言われたくないですよ。貴方こそどうして例の事件のとき何の釈明もしなかったのですか?
……あのときシメオン殿が潔白を表明してくれたら、もっと早く解決したでしょう」
遠慮などという言葉は知らぬとばかりに問うシメオンに、シノブは僅かだが苛立ちを感じた。そのためだろう、返した言葉は自然と鋭いものになってしまう。
「容疑者の主張など、素直に聞き入れてもらえるのですか?
それに私が無罪を主張すれば、マクシムも同じように弁明したでしょう。よけいに捜査が混乱すると思いますが」
シメオンは彼特有の無感情な声を保ったままだ。どうやら自身の胸の内を明かすつもりなどないらしい。
「そうですか。では私も周囲を混乱させたくなかった……ということにしておきましょう」
これ以上、会話を続けても得るものはない。そう思ったシノブは相手に倣って本心を告げぬまま、領軍本部から足早に立ち去った。
◆ ◆ ◆ ◆
借りている軍服もそのままに、シノブは滞在中の貴賓室に一人戻ってきた。
そしてシノブはソファーに座りこむと、天井を見上げたまま動きを止める。微かな虚脱感と共に眺めるともなく眺めた先には、精密に描かれた天井画があった。
(自分が打ち倒した相手を、あんな風に抱きかかえるなんて俺にはできないな……)
シノブが見つめる先には、凛々しい騎士に優しく抱きとめられる乙女の姿が描かれていた。そのためシノブは、先ほどのシメオンの言葉を思い浮かべてしまう。
シャルロットの真摯な姿は、シノブの目に焼きついていた。
戦乙女の異名そのものの美しき勇姿、倒れて土に汚れても輝く強い意志を秘めた深き青の眼差し、そして気を失い崩れ落ちながらも何故か満足気に映った麗姿。剣を交わしたからか、より深くシャルロットの心に触れたとシノブは感じていた。
(だからこそ、あれほど真剣に挑んできたシャルロット様に手抜きするわけにはいかなかった。でも、もっと上手く決着をつけることだって出来たはず……アミィと特訓して強くなったつもりだったけど、まだまだ修行不足だな……)
シノブはシャルロットを侮辱したくないから、最後まで真剣に戦った。だが結果として手酷いダメージを与えたのは、思っていたより心に伸し掛かっていた。
しかも自分の勝利は、アムテリアの加護があればこそだ。アミィの指導で培った技とはいえ、この世界に来てからの一ヶ月弱で学んだだけでしかない。
一方のシャルロットだが、十年近くも厳しい修練をしたという。その彼女を身体能力と僅かな修行で倒してしまった結末に、シノブは後ろめたさすら感じていた。
(単に加護だけじゃない、誰にも恥じない強さ。これからの目標だな)
シノブは胸の内に新たな決意を宿すと、勢いよくソファーから立ち上がった。
自身もシャルロットと同じく、血肉となるまで技を磨こう。もちろん今まで得たものは活用するが、その上に一つでも己の編み出した何かを重ねたい。
そのときは誇れるようになるだろうし、全力を出し合ったと手を握れるし助け起こすことも出来るはずだ。シノブは一日でも早くと誓いを立てる。
そしてシノブが気合を入れ直したとき、アミィが戻ってくる。朗らかな笑みと弾むような足取りに、シノブは明るい予感を抱く。
「シノブ様、シャルロット様は大丈夫でした!
治療院からガスパールさんも来ていたのですが、手首の捻挫と打撲だけだったので、あっという間に治していただけました。それと倒れちゃったのは、勝負が終わって緊張が解けたからのようです!」
「良かった! ありがとう、アミィ!」
朗報を告げるアミィと同じくらい、弾む声音でシノブは応じた。そしてシノブは手を伸ばし、狐耳の揺れる明るいオレンジがかった茶色の髪を撫でた。
するとアミィは照れたのか俯くが、ふいに顔を上げると最前までの喜びや恥じらいと異なる表情をシノブに向ける。
「……シノブ様? 軍服のまま戻ってきちゃったんですか?」
「あっ、マズイ! 返すの忘れていたよ!」
アミィが指摘したように、シノブは借りた衣装のままだった。模擬剣だけは訓練場にいた従卒に押し付けたが、軍服と胸甲はそのままなのだ。
「シノブ様もうっかりされることがあるんですね。では、着替えを用意しますね。それともお風呂で汗を流しますか?」
「そうだね。せっかくだからお風呂に入らせてもらうかな!」
微笑むアミィにシノブは照れ笑いで応じ、彼女が差し出す着替えを受け取った。
課題は色々あるものの、取り組む時間は充分にあるだろう。そして本当の高みを目指すなら、シャルロット達のように一歩一歩進みながら技を磨くべきだ。
焦りは禁物、自分には多くの手本があるのだから。シノブは頼りとする導き手、駆け出すアミィの背を見つめつつ更なる成長へと意欲を燃やしていた。
お読みいただき、ありがとうございます。




