13.25 再会、父よ
海竜の長老ヴォロスと番であるウーロは、カンビーニ王国の国王レオン二十一世に、南方の航路から海生魔獣を排除することを約束した。
メリエンヌ王国を含むエウレア地方の遥か南には、巨大な大陸が存在する。そこに住む人々はエウレア地方のような進んだ国家体制は持たず、部族ごとに集落を作っているという。
南方大陸には珍しい産物が多く、一部の商人にとっては夢の大地でもあった。時折、極めて低い帰還率にも関わらず、何千kmもの大海原を押し渡り一攫千金に挑む者も出る。もっとも、ごく一部の例外を除いて出港したまま戻らないため、後に続く者は稀である。
ただし、今後は海竜達が航路上に現れる海生魔獣が退治する。ヴォロス達は、カンビーニ王国、メリエンヌ王国、ガルゴン王国の間にあるシュドメル海から真っ直ぐ南に向かう航路の魔獣を狩るという。
その辺りは魔力の強い場所が多く、シノブが海竜の島で見たような巨大な烏賊を始めとする魔獣が棲んでいるらしい。海竜達は、そこに狩場と同様な結界を造り、外部からの魔獣の侵入を防ぐと同時に、内部から魔獣を追い出すそうだ。
──獣人の長よ。そなたの国だけを優遇はせぬぞ。もっとも他の国に航路を教える時には、そなたと同様に試しをするが──
「それは当然のこと! 我も独り占めするつもりはないぞ! まあフェデリーコ殿にも、それなりの苦労はしてほしいがな!」
眼下の海を進むヴォロスに、磐船の上のレオン二十一世は、呵呵大笑というべき様子で答えた。なお彼と息子のシルヴェリオは、既に潜水時の粗末な服から国王と王太子の正装に戻っている。
一行は、王都カンビーノの港に帰還している最中だ。
炎竜イジェの運ぶ磐船の上は、試練を達成した喜びと、春の暖かな日差しで輝いている。そして磐船の両脇には光翔虎のバージとパーフが並んで飛び、彼らの影が落ちる海面には二頭の巨大な海竜が悠々と泳いでいる。それは、正に伝説の中のような光景であった。
「父上、フェデリーコ十世陛下とカルロス殿は人族ですよ?」
「む……しかし彼らも優れた武人だ。試練を乗り越えてくれるだろう!」
シルヴェリオの指摘に、レオン二十一世は一瞬言葉を詰まらせたものの、すぐに元の上機嫌な様子に戻っていた。
ガルゴン王国の王は代々人族である。そして一般に人族は獣人族より体力が劣る。したがって、ガルゴン王国の二人がレオン二十一世やシルヴェリオと同じ試練を受けた場合、分が悪いのは事実だ。
しかし人族は能力のばらつきが大きく、ごく一部の優れた人族の武人は獣人族と同等の身体能力や戦闘力を持つ。おそらくガルゴン王国の王族達も、そのような例外的な武人なのであろう。
「シャルロット、陛下達は大丈夫かな?」
シノブの見たところ国王アルフォンス七世や王太子テオドールは、目の前の二人ほど身体能力に優れていないようだ。もちろん、平均的な武人を超えてはいるだろうが、海竜の試練を乗り越えるのは少々難しいかもしれない。
「もしそうなった場合は、シノブが代わりに試練に挑んでも良いのでは?」
シャルロットは、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべながら、シノブを見つめている。
もっとも、メリエンヌ王国の船乗りは遠洋航海を得意としていない。そのため、メリエンヌ王国の商船が南方航路に乗り出すまでは、かなりの時間がかかるかもしれない。
「そうですね~、でも、その場合ヴォロスさんは試しを行うでしょうか?」
こちらも笑顔のアミィは小首を傾げながら二人を見上げていた。彼女は、シノブをアムテリアの血族として崇める海竜が、彼を試すとは思えなかったのだろう。
「しかし、立派な宝玉じゃな。これは玉座にでも飾るのが良いかの?」
「それが良いのじゃ! ちょうど二つあるから、両方の肘掛けにでも付けたら良いのじゃ!」
そんな先々を思う者達を他所に、アルストーネ公爵フィオリーナや娘のマリエッタは、直径20cmを超える巨大な真珠を眺めていた。彼女達だけではなく、カンビーニ王家の女性達に加えミュリエルやセレスティーヌも一緒である。
二人が言うように、人の頭ほどもある巨大な真珠は装身具とするには大きすぎる。そうなると玉座などの飾りとするか、どこかに据えて飾るか、その何れかが相応しいだろう。
──あの球、転がしたら楽しいと思います!──
──それはちょっと……でも、キラキラして綺麗ですね!──
しかし、甲板にいる人ならざる生き物達にとっては、類稀なる宝玉も玩具のように映るらしい。光翔虎の子フェイニーの物欲しげな思念に、オルムルは一瞬躊躇いはしたものの、やはり興味深げな様子を隠そうともしない。
──フェイニーさん、オルムルお姉さま。人間の方々が聞いたらガッカリしますよ?──
──でも、僕も欲しいです──
なお、シュメイやファーヴも含め、四頭の会話は思念だけで行われている。そのためシュメイが心配するような事態に陥ることはない。
◆ ◆ ◆ ◆
「シャルロット、ちょっとごめん。ヴォロス達と内密の話があるんだ」
「はい」
シノブは愛妻に体を寄せると、そっと彼女に囁いた。結婚して間も無い二人が寄り添い語らうのは珍しくも無い。そのため周囲には、仲睦まじい夫妻の会話と映ったことであろう。
──ヴォロス、ウーロ。他の皆には内緒で聞きたいんだけど、西の海に何か異変はないかな?──
シノブは、ナタリオから聞いた件について海竜達に説明していく。
ナタリオは、ガルゴン王国の駐メリエンヌ王国大使リカルドの息子である。その彼は、カンビーニ王国の王都カンビーノに到着した翌日に、駐カンビーニ大使エウラリオから、自国の西方海上で異変が起こっていると告げられたという。
エウラリオが言うには、北方のヴォーリ連合国へと向かう商船隊に、行方不明になるものが頻発しているという。彼は、海の魔獣など人間以外の存在の関与も疑っているらしい。
もっともナタリオ自身は、ガルゴン王国と西海の覇権を競うアルマン王国の仕業だろうと言っていた。しかしエウラリオは、海竜達と会ったら何か知っていることは無いか訊ねてくれないか、とナタリオに要望した。そこでナタリオから事情を聞いたシノブが、彼に代わってヴォロスとウーロに訊ねることにしたのだ。
──西の海か……最近、人の子の船が頻繁に出ているな。それに、争ってもいるようだ。我の関わるべきことではないから、無視してはいるが──
──ええ。ただ、ここのところ急に諍いが増えたようです。しかも、片方が一方的に相手を撃破しているようですね。それに妙な魔力も感じたので、私達も近づかないようにしています──
二頭の海竜は、西海に訪れることもあるらしい。そのため彼らは、ガルゴン王国とアルマン王国の間の海域で起きた事件についても把握していたようである。
海竜は長時間の潜水が可能であり、人の多い海域を通過する際には海中を往くようだ。もちろん海竜といえど、どこかで呼吸のために浮上する必要はある。しかし彼らは成竜になれば一日近くも潜水できる。そのため船などの人工物を発見したら深みに潜ってやり過ごすという。
──魔力って、魔道具でしょうか?──
アミィは、海竜達が知らない魔力と聞いて、魔道具を連想したようだ。確かに、魔道具を使わない竜達からすれば、人間が作った道具から発する魔力は奇異に感じることだろう。
──済まぬが、それはわからぬ。ただ、人の子の魔力とは違う何かだ──
──ありがとう。船同士が争っているっていう情報だけでも助かるよ。それに、魔力の件もね──
シノブは、残念そうな思念を伝えてくるヴォロスに、感謝の思いを伝えた。
船と船の戦いで、魔獣などが関与していないというだけでも、大きな手がかりである。西海でガルゴン王国と敵対している国はアルマン王国であり、彼の国の関与は間違いないであろう。そして、アルマン王国が魔術か魔道具を使っているという情報も、とても有益なものだ。
シノブは、海竜から得た情報を密かにナタリオに伝えようと、彼の姿を探していた。
◆ ◆ ◆ ◆
海竜達は磐船に付き添って港まで戻った。そして彼らは、大観衆の前で国王と王太子の力と勇気を称し、南海での航海の支援を約して去っていった。
海竜は、出産や子育てを除いて滅多に陸に上がらない。それに、人との関わりあいも出来るだけ緩やかに進めていきたいようだ。岩竜や炎竜は人の生活領域と近い場所に狩場を設けることもある。しかし、陸地と遠く離れた大海原で過ごす彼らは、岩竜や炎竜ほど急激な変化を望まないのかもしれない。
ヴォロスとウーロは早速南洋へと赴き、航路とすべき一帯に結界を張るという。岩竜の結界は、人のように高い知能を持った存在のみが通り抜け可能なものであった。おそらく、海竜の結界も海生魔獣の行動を制限するだけで、帆船を操る人には影響しないのだろう。
そして、王都カンビーノの中心『獅子王城』に戻ったシノブ達は、またもや盛大に歓待されていた。
昼食を兼ねた宴、つまり午餐会には今までになく多くの人が出席し、彼らはシノブの下にも引っ切り無しに訪れる。また、シノブやシャルロットに近づくのが難しいと思った者は、家臣などに語りかけている。それに、マリアン伯爵の嫡男ブリュノや、駐カンビーニ大使のルローニュ子爵の側に行く者も多い。
そんな中、シノブから海竜達の語った内容を伝えられたナタリオは、自国の駐カンビーニ大使エウラリオの下に向かっていた。多分、今日中に密使を乗せた船をガルゴン王国に送るのではなかろうか。
「のう、アリーチェ! もっとシェロノワのことを教えるのじゃ! あちらは寒いから、色々準備も必要じゃろうな! そうじゃ、向こうに行ったら雪を見るのじゃ!」
マリエッタは、金色の瞳を輝かせ、虎の獣人に特有の黒い縞の入った金髪を揺らしながらアリーチェへと語りかけていた。彼女は、まだシノブ達の下に弟子入り出来るかも不明だというのに、シェロノワに留学したときに思いを馳せているようだ。
ちなみに、カンビーニ王国は南方であり高山も無い。そのため降雪は非常に稀らしい。そのためマリエッタは、積もるほどの雪を見たことが無いのだろう。
「マリエッタ様……もうシェロノワに雪はありません」
「フライユ伯爵領の平地は、それほど寒くはありません。でも山の上は、まだ雪が残っていると思います。向こうに行ったら、イジェさん達が連れて行ってくれるかもしれません」
困惑した様子のアリーチェを見かねたのか、ミュリエルはマリエッタに自領の様子を説明する。
三月も終わりに近づいた今、シェロノワ近辺では雪など残っていない。しかし、アマテール村のある北の高地や、その向こうのリソルピレン山脈、それに炎竜のゴルンとイジェが棲家を作ったヴォリコ山脈などには、雪も充分あるだろう。
「おお、それは良い考えじゃ! イジェ殿やバージ殿達なら、ひとっ飛びじゃろうの……」
「そうですね。さっきも、少々セントロ大森林で獲物を狩ってくる、って言って飛んで行きましたから」
マリエッタとミュリエルは、大広間の窓へと視線を向けた。ミュリエルが言ったように、イジェは磐船にシュメイとファーヴを乗せ、オルムルや光翔虎達と共にセントロ大森林へと向かっていた。彼らは彼らで交流を深めるべく、狩りを楽しむようだ。
ちなみに、今回の午餐会でシノブ達を持て成すのはアルストーネ公爵一家ということらしい。それ故、フィオリーナや娘のマリエッタ、息子のテレンツィオはシノブ達の側にいるのだ。
もっとも、シノブを接待しているのはフィオリーナである。マリエッタは、先ほどからずっとアリーチェやミュリエルなどに、シェロノワについて訊ねてばかりだ。逆に、彼女の弟のテレンツィオは、六歳という幼さにも関わらず、シャルロットやセレスティーヌの側で、自領である都市アルストーネの話などをしている。
「ブリュノ殿、お子が恋しいのでは?」
「いや、全くです。まだジュラヴィリエを発って僅かですが、娘がどうしているか心配ですよ」
こちらは、王太子のシルヴェリオとマリアン伯爵の継嗣ブリュノである。二人は、それぞれの家族を連れて談笑していた。シルヴェリオは妻のアルビーナと二歳の息子ジュスティーノ、ブリュノは妻のグレースだ。
ブリュノには、ジュスティーノと同じ歳の娘ブランシュがいる。しかし幼い彼女は今回の旅には加わっていない。そのためだろう、ブリュノはアルビーナが抱いたジュスティーノを少々寂しそうな顔をして見つめていたのだ。
「神殿の転移も可能になりましたから、これからは馬車でお連れしては?」
アルビーナは、室内を照らすシャンデリアの光に見事な長髪を煌めかせながら、グレースに笑いかける。彼女は夫や息子と同じ獅子の獣人だが、二人とは違い金髪だ。シルヴェリオ達の銀髪は、カンビーニ王家特有の形質だからである。
「はい。もう少し大きくなったら、そうさせていただきます」
グレースは、王太子妃の申し出に、笑顔で答えている。ブリュノ達は、過去に何度もカンビーニ王国を訪問している。しかし二人の娘ブランシュは、まだ国外に出たことはない。流石に幼い娘を何日も掛かる馬車の旅に同行させることは出来ないからだ。
しかし、今後はマリアン伯爵領の領都ジュラヴィリエから、カンビーニ王国の北方最大の都市ヴィルソットまで馬車で移動すれば、後は神殿経由で王都カンビーノまで転移できる。そうなれば、旅の日数も大きく短縮できるだろう。
「流石に、両国の都市をいきなり結ぶわけには行きませんからね」
「ええ。ですが、なるべく早く実現したいものです。平和な世になれば、もっと豊かになるでしょう。そうなれば、我が領の商人達も大喜びするでしょうから」
シルヴェリオとブリュノは、両国の転移網が直結されなかった理由は充分承知している。しかし、互いに好きなように行き来できる神殿の転移が国境で分断されているのが残念で堪らないようだ。
「ですが、あまり便利になっては、商人達も困るのでは?」
「おお、ごもっとも! やはり、これくらいが良いのかもしれませんな!」
アルビーナの問いかけに、ブリュノは彼独特の大仰な様子で答えた。頭に片手を当てて大袈裟に苦笑する彼を見て、四人だけではなく周囲にいた者達も、楽しげな笑い声を上げていた。
◆ ◆ ◆ ◆
カンビーニ王国の場合、王家直属の騎士家であれば子爵家や男爵家を超える力を持つことも珍しくない。そしてシノブの家臣、猫の獣人アルバーノやソニアの実家、イナーリオ家もそんな家の一つであった。
もっとも、イナーリオ家が躍進したのは近年のことである。
イナーリオ家は、元々従士の家柄であった。しかし、アルバーノの兄でソニアの伯父のジャンニーノが、現国王レオン二十一世が王太子だったときに彼の親衛隊に入った。そして彼の下で活躍したジャンニーノは騎士となり、空いた従士の位は弟のトマーゾが引き継いだ。なお、このトマーゾがソニアの父である。
残念ながら長兄や次兄とは違って、三男のアルバーノが得るべき席は無かったが、今まで単なる従士であったイナーリオ家にとって、これは途轍もない幸運であった。
とはいえ、ジャンニーノやトマーゾは、単なる運だけで成り上がったわけではない。彼らはその後も順調に功績を重ねていた。ちなみに、現在ジャンニーノが王都守護隊司令、トマーゾは『獅子王城』の守護隊長である。しかも、ジャンニーノの息子ロマニーノは王太子の親衛隊員で、父と同じ道を歩んでいる。
したがって、彼らは当然ながら午餐会にも出席していた。ロマニーノは王太子の側に控え、ジャンニーノやトマーゾはシノブの家臣達と語らっている。
シノブも、カンビーノに到着した日に彼らから挨拶を受けていた。二人は末弟のアルバーノと良く似た外見であったが、こちらは、それぞれ四十過ぎらしい落ち着いた挙措であった。もしかすると、その辺りの性格の違いも、アルバーノが出奔した原因なのかもしれない。
そして今、シノブの前には当のイナーリオ三兄弟とソニアがいる。
「……お父上が挨拶したいと?」
「はい。真に畏れ多いのですが、どうかお目通りをお許し頂きたく」
シノブに深々と頭を下げたのは、長兄のジャンニーノである。そして、その隣では次兄のトマーゾも兄と同様に畏まった仕草で最敬礼をしていた。
彼らは、アルバーノと同じく金髪金眼の猫の獣人だが、二人とも末弟の何倍も落ち着きのある渋い中年男性であった。なお、イナーリオ家はここにはいないそれぞれの妻も含め、全て猫の獣人である。
「おお、エンリオも来ていたのか。会いたいのう」
シノブの側にいたフィオリーナは、懐かしそうな表情をした。
エンリオとは、イナーリオ三兄弟の父の名だ。彼も『獅子王城』の守護隊に務めていたという。エンリオは今から十五年ほど前に引退したそうだから、フィオリーナが王女として『獅子王城』に居た頃に見知っていたのだろう。
シノブは、昔を思い浮かべるような彼女の表情を珍しく思い、暫し見つめてしまった。もっとも、そう思ったのは彼だけでは無いようで、隣のアミィも薄紫色の瞳に優しい光を宿しながら見つめている。
「閣下、父は引退した身です。ですから、このようなお願いは非常に無礼なのですが……」
姪のソニアと並んだアルバーノは、苦虫を噛み潰したような顔をしている。彼は、エンリオをシノブに紹介したくないようだ。しかし、それも無理はないかもしれない。アルバーノは出奔した身であり、しかも戦闘奴隷から解放された後も、父に会いたくなかったらしく故国への帰還を渋っていたからだ。
だが、アルバーノの言葉にも根拠はある。エンリオは午餐会への出席を許されていた。しかし既に守護隊を引退したこともあり、こういう場では現役に譲るべきだという。したがって、シノブが呼んで話を聞いたという建前が必要なのだ。
ちなみに今回の午餐会は、比較的低い身分の者でも出席できる唯一の場であった。したがって、この場を逃せばエンリオがシノブと話す機会は無いのだろう。
「シノブ、お会いしては?」
「ソニアさんのお爺様ですか。どのようなお方かしら?」
シノブ達の話を聞きつけたのだろう、すぐ近くにいたシャルロットとセレスティーヌも、テレンツィオと共にやってくる。それに、ミュリエルやマリエッタ達も、寄って来た。
「そうだね。私も一度エンリオ殿に挨拶をしておくべきかと思っていた。ソニア、頼む」
フィオリーナが会いたいと言うなら、シノブには断る理由も無い。そのため、彼はソニアにエンリオを呼んでくるように頼んだ。
「はい」
シノブの命を受けたソニアは、綺麗な礼をすると、その場から下がっていく。しかし頭を下げる前のソニアは、どこか面白そうな表情をしていた。
もしかすると彼女は、苦手なエンリオを前にしてアルバーノがどんな顔をするか、脳裏に思い描いていたのかもしれない。シノブは、ソニアの後姿を見ながら、何となくそんなことを考えていた。
◆ ◆ ◆ ◆
エンリオ・イナーリオは、猫の獣人に一般的な金髪に金の瞳であったと思われる。
思われる、というのは老齢のため彼の髪は色素が抜けて白銀とでも言うべき色合いに変じていたからだ。しかし、老いを感じさせない歩みや真っ直ぐに伸びた背筋からは、七十を過ぎても鍛錬を怠っていないことが窺える。
彼も顔立ちはアルバーノに似ているが、どちらかといえば次男のトマーゾに一番近いようだ。アルバーノ達三兄弟の中で、最も真面目そうに見えるのはソニアの父トマーゾである。シノブは、少し気難しげなトマーゾの雰囲気が、エンリオと共通しているように感じていた。
エンリオは、勝手に国を飛び出したアルバーノを勘当したそうだ。そのエンリオは、勘当したことを後に後悔したようだが、表向きは末息子を許すことが無かったという。そのため、ソニアは祖父や両親にアルバーノを探していることを告げなかったらしい。
そのような経緯からすると、エンリオとトマーゾはかなりの頑固者なのだろう。シノブは、歩み寄ってくるエンリオを見ながら、そんな想像をしていた。
「あら、あの子は珍しい髪色ですのね」
「本当です……」
シノブの脇で、セレスティーヌとミュリエルが囁いた。もちろん、周囲を憚ってのことであり、二人の声はシノブやその背後に控えるアミィくらいにしか聞こえなかっただろう。少なくとも、シノブを挟んで反対側のシャルロットは気が付いていないようだ。
それはともかく、エンリオの後ろにソニアと並んで付いてくる少年は、金髪に所々茶色や黒が混じった不思議な髪をしていた。ちなみに、十歳のミュリエルより少々年上らしい彼も、猫の獣人である。そのため少年を見たシノブは、三毛猫を連想していた。
「フライユ伯爵閣下、お初にお目にかかります。お目通りをお許し頂いたこと、光栄の極みでございます。フィオリーナ様、ご無沙汰しております」
シノブとフィオリーナに挨拶をしたエンリオは、流麗な挙措で片膝を突くと騎士の礼をしてみせた。彼の後ろでは、三毛猫のような髪の少年も、同じく跪礼をしている。
それを見たシノブは、エンリオは頑固かもしれないが、案外アルバーノと似ているのでは、と内心おかしく思っていた。何故なら、アルバーノと初めて会ったとき、彼も同じように跪き礼をしたからだ。それに、アルバーノも『光栄の極み』と言ったことがある。
どうやら、内面はかなり似た親子なのだろう。そう思ったシノブは、真面目な表情を維持するのに少々苦労していた。
「楽にしてくれ」
「エンリオ殿、ミケリーノ殿、お立ち下さい」
シノブが声を掛けると、エンリオの脇に控えていたソニアが更に促す。今の彼女はシノブの侍女である。そのためエンリオ達に対しても、他国の騎士や従士として接することにしたようだ。
「ミケリーノ……ということは?」
「はい。私の弟でございます」
少年の名前を聞いたシャルロットは、彼がソニアの弟だと気が付いたようだ。シノブも、そういえばソニアから以前聞いた、と思いながら少年へと視線を向ける。
「エンリオの孫、ミケリーノでございます」
シノブ達の視線を受けたミケリーノは、直答を許されたと判断したのだろう、優雅な仕草で立礼をした。その挙措と、まだ少年らしい鈴を転がすような声音に、シノブ達は思わず頬を緩ませる。
「フライユ伯爵閣下のご慈悲により、我が愚息に職をお与え頂きましたこと、真に歓喜に堪えません。こやつも、閣下のお力で真人間となったのでしょう……」
「アルバーノは、とても良くやってくれている。帝国との戦いでも、大いに役立ってくれた」
シノブは頑固親父の本領が発揮されたと思いつつも、彼の言葉にやんわりと割り込んだ。
既にアルバーノはシノブの家臣である。したがって実父といえども、アルバーノを非難するのは礼を失する行いであった。もちろんシノブ自身はエンリオに対して思うところは無いが、周囲の者の耳目もある。そのためシノブは、エンリオが妙なことを口走る前に話を逸らそうと思ったのだ。
「おお! ありがたきお言葉!」
「エンリオよ。アルバーノ殿は素晴らしく強いそうじゃ。ロマニーノでは勝てぬじゃろうな。ナザティスタも敵うかどうか……」
大仰な仕草で頭を下げるエンリオに、フィオリーナが笑いかける。
エンリオの孫ロマニーノは王太子の親衛隊員、ナザティスタは親衛隊長である。仮にナザティスタと互角であるなら、この国の武人でアルバーノに勝てる者は、殆どいないことになる。
「む……それほどまでに! しかしフィオリーナ様、我がカンビーニの武人も負けてはおりませんぞ! ナザティスタ殿なら、きっと勝利を掴むでしょう!」
ちなみにアルバーノが出るのは、徒手格闘と跳躍である。そしてフィオリーナやエンリオが言っているのは、格闘のことだろう。
「父上……ナザティスタ殿は競技大会に出ません。私も見てみたいとは思いますが……」
興奮する父親を宥めようと思ったのか、次男のトマーゾが彼の肩に手を掛ける。今回の競技大会は、フライユ伯爵領や旧帝国領に行きたい者を募る場である。そのため高位の武官達、それも王族の側に侍る者は出場しない。
もっとも、トマーゾもナザティスタが勝つと思っているらしい。アルバーノへと視線を向けた彼は、自国の者を誇るような空気を纏っていた。
「そうじゃな……良かろう、ナザティスタやロマニーノも試合に出すよう父上にお願いする。折角の機会じゃからな」
「母上、それは名案ですぞ! これは面白くなったのじゃ!」
フィオリーナとマリエッタは、楽しげな笑みを浮かべている。もちろん親衛隊員を国外に送るつもりはないだろうから、あくまで特別参加ということだろう。
一方シノブは、アルバーノが不敵な笑みを浮かべていることに気が付いていた。案外、彼は故国の高名な武人の参加を望んでいたのかもしれない。それらの達人に打ち勝ってこそ、故郷に錦を飾ったといえる。アルバーノの表情からは、そんな思いが窺える。
シノブは、そんなアルバーノの様子を頼もしく感じていた。そして彼は、明日の競技大会で繰り広げられる名勝負を想像し、一層期待を膨らませていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2015年9月30日17時の更新となります。