03.05 謎の王都
ミュリエルとミシェルに体内魔力操作を教えた後、シノブ達はそのまま昼食を共にした。
伯爵の第二夫人ブリジットの持て成しだから、シノブとアミィは遠慮を申し出た。しかし娘のミュリエルから熱望され、結局は彼女達の居室で歓待されることとなったのだ。
それに同じ狐の獣人ということもあり、ミシェルが『アミィお姉ちゃん』と慕って彼女の側から離れなかった。これも去るに去れなかった理由の一つである。
「また、明日教えに来ますからね」
「うん! アミィお姉ちゃん、絶対だよ!」
別れを告げるアミィに、ミシェルは年齢相応の口調で念を押す。
最初は丁寧な言葉遣いだったミシェルだが、すっかり打ち解けたようだ。お互い明るい茶色の髪で狐耳や尻尾も良く似ているから、本当の姉妹のようである。
「シノブお兄さま、今度『魔法の家』を見せてくださいね!」
ミュリエルは煌めく緑の瞳をシノブに真っ直ぐ向けている。彼女はシノブを兄と呼ぶほどで、誰の目にも明らかなくらい慕っているのだ。
食事の最中、シノブは『魔法の家』について語った。森にいたときの暮らしをミュリエルに問われたからだ。そしてミュリエルは、カードに変えて携帯できるという稀なる魔道具に強い興味を抱いたようだ。
「ああ、近いうちにね」
「それでは失礼します」
見送る少女達に手を振り、シノブとアミィはブリジットの居室を辞去する。そして彼らは、滞在している部屋に戻っていった。
「お疲れさま。やっぱりアミィは教え上手だね」
部屋に入ると、シノブはアミィを労った。
侍女のアンナは、家令のジェルヴェを呼びに行っている。ここ数日ジェルヴェには、午後から歴史や文化の教授をお願いしているのだ。
「まさかミシェルちゃんまで教えることになるとは思いませんでしたが……」
アミィは少し疲れ気味らしい。彼女の頭上では、狐耳も少し伏せていた。
「いや、見事だったよ。それに子供が飽きないような工夫もしていたじゃないか」
シノブの言葉は事実であった。アミィは二人でもできる練習として、幾つか遊び感覚を取り入れた訓練方法まで教えたのだ。
片方ができるだけ小さな魔力を動かし、それをもう片方が感知するゲーム。それに、一定時間で何回魔力を動かせるか競争。そんな飽きずに楽しくできる練習方法で、アミィは二人を指導した。
神々の眷属としての長い生には後輩達を導くことも多々あったのか、単なる思い付きとは思えない気の配りようである。
「幼稚園の先生みたいで良かったと思うよ。アミィも結構楽しそうだったじゃない」
「もう! 大変だったんですよ!
最初は諦めさせようとしたんですけど……でも、やっぱりミシェルちゃんが笑顔でいてくれるほうが私も嬉しかったです」
シノブは励まし半分からかい半分で笑いかけると、アミィは怒ったような表情を作る。しかしアミィはミシェルのことを思い出したのか、しみじみとした顔となった。
「しばらくはあのお遊戯で満足してくれるんじゃないかな。もしお遊戯をマスターしたら、次はダンスでも教えてみたら?
基礎がダメだと魔術は上達しないって言えば、当分は魔力操作だけで大丈夫じゃないかな」
シノブがダンスを勧めたのは、日本にいる妹の絵美を思い浮かべたからである。絵美はダンス部に入っているのだ。
「あっ、それは良いかもしれませんね!
派手で難しい振り付けにすれば、簡単には覚えられないし……。確かシノブ様が妹さんを撮った動画もありましたね……」
アミィは、にっこりとシノブに微笑みかける。どうやら彼女は、スマホから引き継いだデータに良さそうなものを見つけたようだ。
「おいおい、相手は六歳なんだ。あんまり無理をさせちゃいけないよ」
シノブは念のため一言添える。
絵美は中学生のダンス部選手権にも出場していたくらいで、踊りも本格的なのだ。こちらの世界には身体強化があるから可能かもしれないが、幼いミシェルに無理をさせるべきではないだろう。
◆ ◆ ◆ ◆
「アンナさん、どうしたのかな?」
「遅いですね……」
シノブが疑問を口にすると、アミィも心配げな様子で応じた。先ほどと同じく二人はジェルヴェからの教授を受けるべく待っているが、呼びに行ったアンナは一向に戻ってこないのだ。
普段のジェルヴェは主であるベルレアン伯爵の側に控えているし、伯爵のスケジュールは家臣にも明らかにされている。そのため当人が捕まらなくとも誰かに聞けば行き先は掴めるはずで、不在だったとしても時間を取られることはない。
「シノブ様、アミィさん! 申し訳ありませんが、お館様の執務室までお願いできますか!?」
二人が首を傾げているところに、アンナが慌てた様子で戻ってきた。
よほど急いだのか、アンナは息を切らしている。狼の獣人で体力のある彼女にしては珍しい。
「もちろんすぐ行くけど、どうかしたの?」
「ジェルヴェさんも向こうにいらっしゃいます。たぶん例の事件のことだと思います……」
問うたシノブに、アンナは済まなそうな顔をする。
どうもアンナは、はっきりしたことを教えてもらっていないようだ。事情を明かせないような件だとすると、彼女が推測したように伯爵継嗣暗殺未遂事件、つまりシャルロット襲撃から始まった事柄なのだろう。
早速、シノブ達は伯爵の執務室に向かう。
執務室には険しい顔をした男達、部屋の主ベルレアン伯爵コルネーユと家令のジェルヴェが待っていた。人払いをしたのだろう、室内にいたのは二人だけである。
「ああ、シノブ殿、アミィ殿。急に呼び立てて済まないね」
伯爵はシノブ達を見るなり、口早に言葉を発した。そして彼は間を置かずにソファーへと移動する。
「いえ、ミュリエルに魔力操作を教えた後ですから問題ありませんが……」
いつもの泰然とした様子との落差に、やはり重大事かとシノブも気を引き締める。そしてシノブ達も歩みを速め、伯爵の向かい側へと進む。
「おお、そうだったね。ぜひ聞かせてもらいたいが……先にこちらから話そう。マクシムの一件だ。……ジェルヴェ、頼む」
やはり用件は、例の事件に関してであった。シノブ達と同じく席に着くと、伯爵は傍らに立つジェルヴェを促す。
「はい、お館様。マクシムと部下を尋問した結果、暗殺事件に関与したことを認めました。そして……」
早速ジェルヴェは語り始める。
マクシムが使っていた公邸から、王都の商人と交わした借用書が幾つも発見された。それに襲撃者が持っていた割符の対となる片割れも、彼の書斎から見つかった。
当初マクシムは、借金と事件は関係無いし割符も誰かの陰謀だと言い張って否認した。しかし厳しい尋問に、部下の方が先に事実だと認め始めた。
これはマクシムが口走った暗殺関与を示す言葉を、シノブやアミィが聞いていたのが大きかったようだ。
あれだけ明確に関与を認めては、黙秘しても仕方がないだろう。それに部下達は、マクシムの父であるブロイーヌ子爵が付けた者が殆どだ。したがって己を捨ててまで庇うより、素直に白状して情状酌量をとなるのも無理からぬことである。
部下達は一旦自白し始めると、後は素直に答えていったそうだ。
「そこで改めてマクシムに問い質したところ、関与自体は認めたのですが、自分は脅されてやったと言うのです」
ジェルヴェは激しい怒りを抑えているのだろう、声にも嫌悪が滲んでいる。もっとも続く話を聞いたシノブも、呆れるのは当然だと思ってしまう。
マクシムは自分が首謀者ではないと言い出した。シャルロットの暗殺を条件に借金の肩代わりを申し出る謎の男がいたと、彼は主張したのだ。
暗殺計画の立案や襲撃者達の手配も謎の男がお膳立てをした、とマクシムは言い張っている。そもそも借金自体が男の口車に乗って背負わされたもので、自分は嵌められただけと供述したそうだ。
「マクシムの言う通りなら、詐欺紛いの手口で借金を背負わされ後は黒幕の言うがままに動かされた、ということだが……どこまで本当か判らないがね」
伯爵はマクシムの言葉を信じかねているらしい。
謎の男とはマクシムしか会っていないようで、彼の部下は存在すら知らなかった。そのためマクシムのでっち上げた嘘かもしれない。
しかし、どちらかと言えばシャルロットが生きている方が好都合だったはずのマクシムである。急な暗殺計画の裏に外部で唆した者がいたというのは、納得できなくもない。
「アミィに謎の男の姿を再現させましょうか?」
偽伝令の時のようにアミィの幻影魔術を使ってみては、とシノブは提案した。既に逃げているかもしれないが、手配をすれば牽制くらいにはなると思ったのだ。
「いや、謎の男がいるのは王都だから私に手配の権限はない。それに、どうも変装していたようでね……おそらく手配書を作成しても意味がないだろう。
顔を髭で覆ったふっくらとした老人だったというが、いつもフードを付けて面を隠すようにしていたそうだ。それに体格にしても、服の下に何か入れて誤魔化せるしね。
……そもそも名前からして偽りだ。『ミステル・ラマール』と名乗ったそうだが、明らかに偽名だよ」
伯爵も先刻のジェルヴェと同じくらい、強い嫌悪を示す。
『ミステル・ラマール』とは、建国王エクトル一世を導いた不思議な人物の名前だそうだ。彼はエクトルが神託を受けた直後に現れ、メリエンヌ王国の建国を見届けて姿を消した。しかも狭義の国造り以外にも飛び抜けて高度な知識を授けるなど様々に活躍したから、王国では神の使いと信じられている。
つまり謎の男は、建国の聖人を騙ったわけだ。後ろ暗い取引を持ちかけるのに本名を告げはしないだろうが、それにしても酷い話である。
信じる神の使徒を汚されては伯爵達が苦い顔となるのも当然だと、シノブも納得する。
(ラマールってフランス語で男だっけ。そう言えば、日本語が共通語なのに人や町の名前はフランス風だし、何か理由があるのかな?)
その一方でシノブの脳裏には、僅かな疑問が浮かんでいた。聖人の名が、どうにも引っかかったのだ。
とはいえ今は些細な違和感など後回しにすべきだ。そこでシノブは、二人の語る内容に注意を向け直す。
◆ ◆ ◆ ◆
結局マクシムと部下達が果たした主な役割は、子爵家の立場を悪用した通関証明書の不正発行と領内に入ってからの物資の提供らしい。
襲撃者達や偽伝令は、謎の男が集めて王都でマクシムに引き渡した。マクシムは彼らに通関証明書を渡して襲撃場所を伝え、少しずつ集合するよう指示する。そして襲撃者は近くの原野や林に隠れつつ、用意された食糧や物資を使って待機した。
偽伝令の装備は職人の使いを装って手に入れさせ、軍馬は子爵家の保有するものを与えた。乗馬が駄目になったとして、子爵家に替えを寄越させたそうだ。
「莫大な借金を伯爵家に知られたくなかったら言うことを聞け、と迫られたそうだよ。
借金自体は、新年からの各種式典に出席したときに作ったものらしいね。私も幾つか出たが、彼は王国軍の者と派手に騒いでいたようだから、そこで使ったのだろう。
……借金の総額はマクシム個人の収入や財産からすれば大きすぎる額だが、それでも王都の高官達の饗応なら足りなかったかもしれない」
聞き出したときを思い出したのか、伯爵は顔を顰める。
一方シノブは、ジェルヴェから教わったことを思い出していた。今年は創世暦1000年、王国成立五百五十年、現国王即位十年など式典が多かったそうだ。その度に大規模な接待をしていたら、確かに苦しくもなるだろう。
「謎の男が本当にいるなら、そこでわざと金を使わせたのかもしれません。
マクシムは武人であり子爵家嫡男でもあったからでしょう、常々他者の評を気にしていました。それに婿入りできるよう、王都の方々に根回しするつもりだったのかもしれません」
ジェルヴェも難しい顔で言い添える。
アンナはマクシムが威張っていると言っていた。彼が威厳を保とうとしたのは、身分に相応しくと心がけたからだろうか。マクシムの厳めしい顔を、シノブは思い浮かべる。
「私としても各方面からせっつかれたら、考慮しないわけにはいかないからね。
ともかく父上には、ブロイーヌ子爵と共に王都に旅立ってもらった。一族の者が借金漬けなど恥でしかないし、伯爵家と子爵家で折半して早急に返済するつもりだよ。
それに父上には謎の男なる者がいるのか、いたとして金を貸した商人と繋がっているのかも調べてもらう」
伯爵はシノブ達に今後の方針を告げた。
確かに極めて大きな醜聞だから、事後処理や調査も内々に済ませるべきだろう。そこで先代伯爵アンリの出馬となったわけだ。
「分かりました。内情を明かしてくださり、感謝します」
シノブは伯爵に礼を伝える。言いにくいこともあるだろうに、異国から来た自分達に隠さず打ち明ける姿に好感を持ったのだ。
「まだ黒幕がいるなら、シノブ殿達にも危険がないとは言えない。この館にいる以上何もないとは思うが、念のため早めに伝えておこうと思ってね。
……マクシムや深く関わった者達は、ブロイーヌ子爵が戻り次第処刑するよ。存在するかも判らない謎の男が捕まるまで待つわけにもいかないし、長期間拘留して逃げられたりしたら目も当てられない」
伯爵は僅かに顔を綻ばせ、急いで呼び出した意図を明かす。しかし僅かな間の後、冷徹な表情となった彼はマクシム達の処遇を告げる。
一方のシノブは、まだ会ったこともないブロイーヌ子爵に同情していた。大罪を犯したとはいえ息子の死を看取るためにやってくるなど、過酷な運命だと思ったのだ。
しかし、これも支配階級ならではの厳しさなのだろう。人の上に立つのだから、周囲が納得するように己を律するべきなのだ。そう思ったシノブは浮かんだ思いを心の底に沈める。
「……シメオン様は、結局何も関与していなかったのですね?」
代わりにシノブは、気になっていたことを訊いてみた。伯爵達が何も言わないから事件とは無関係なのだろうが、この際はっきりさせておきたかったのだ。
「ああ、シメオンは関係なかったようだ。少なくともマクシム達の尋問で彼の名は出なかったよ……どうやら彼は、内心を明らかにしない性格で損したようだね」
伯爵は苦虫を噛み潰したような顔となる。
事件に関係ないのであれば、申し開きにでも来てくれたら。おそらく伯爵は、そんなことを考えているのだろう。
さんざん疑っておいて言える立場ではないが、シノブもシメオンの動き次第で早期解決もあったのではと思ってしまう。
「彼は普段から正論ばかり口にして周囲から嫌われていた……内務次官という立場柄、公平な態度を心がけたのかもしれないがね」
更に伯爵は、付き合いも少なかったから悪い噂が先に立ったのではと言い添える。
結局シメオンは単に不器用であったのか。彼はマクシムに度々苦言を呈したようだが、事実を並べただけで競争相手を蹴落とすためではなかったのか。
いずれにしろ、言い訳しないのも程度問題だろう。そう思ったシノブは、心の中で溜息を吐いた。
◆ ◆ ◆ ◆
「それで、ミュリエルはどうかな? あの子は結構素質があると思うのだが?」
重苦しい空気を振り払うように、伯爵は次女の魔術訓練へと話を変えた。それに表情と口調も、普段の穏やかなものに戻している。
「ミュリエル様は魔力感知に優れていますし、体内魔力操作も修得されました。かなり魔力量があるようですから、修行すれば立派な魔術師になれると思います」
「伯爵と同じくらいの魔力量ですし、凄く有望だと思いますよ」
アミィは可愛らしい練習の様子を思い出したのか、ニコニコと微笑む。それに補足したシノブも、大きく顔を綻ばせた。
「おお、なんと! それはブリジットも喜んだだろう!」
「お館様、おめでとうございます。これでミュリエルお嬢様の将来も安泰でございますね」
大喜びの伯爵に、ジェルヴェが祝意を伝える。やはり魔力が多いのは、貴族の子女にとって極めて重要なことらしい。
「ジェルヴェさん、ミシェルちゃんも同じくらい魔力量がありましたよ」
「そ、それは……本当でございますか!?」
アミィの言葉に流石のジェルヴェも驚いたようで、珍しく言葉を詰まらせる。
ジェルヴェは孫の豊かな素質を嬉しく思っているようだが、相当意外だったらしい。あくまで一般的にだが、獣人族は人族より魔力が少ないからだ。
「ええ、今日は二人に体内魔力操作を教えました」
「そうか……事件のため仕方なかったが見たかったな……。ジェルヴェもそう思うだろう?」
アミィが午前中の様子を伝えると、伯爵は溜め息を漏らす。口にした通り、彼は二人の愛らしい練習風景を見逃したのが残念なようだ。
「それは……。しかし、まだ六歳のミシェルが魔術を教わって良いのですか?」
主の手前遠慮したのか、ジェルヴェは練習を見たいと明言しなかった。代わりに彼は、幼い孫が練習に加わって良かったのかと訊ねる。
「体内の操作だけで術として使えないから大丈夫だよ。それに魔力の感知や操作は、じっくり訓練した方が正確にできるから」
シノブはジェルヴェを安心させようとする。実際シノブ自身も日々の感知や操作の訓練で精度向上を実感しているから、嘘ではない。
「なるほど……シノブ殿達は、かなり正確に魔力量を把握しているようだが、幼いころからの訓練の賜物というわけか。
残念ながら私達は自分より多いか少ないか程度の曖昧な判断しかできないのだよ。それに、まだ魔力の使い方を知らない子供の素養も、はっきり判らなくてね……」
伯爵は賞賛の言葉に続け、彼らの魔術教育の実情に触れる。
確かにシノブやアミィは、伯爵達より優れた感知能力を持っているらしい。それだけ神の眷属であるアミィの指導が優れているのだろうが、飽きることのない訓練方法に仕上げた彼女の工夫も見逃せない。
「二人とも、アミィが教えた方法で魔力操作をするのが楽しくて仕方ないようですよ。明日も待っている、と言っていました。
あとミュリエルは『魔法の家』にも興味を示していましたね」
「ああ、以前聞いたピエの森で泊まるのに使った魔道具だね。私も機会があったら見てみたいよ」
シノブは感じたことを伯爵に伝え、同時に思い出した件にも触れた。すると伯爵も魔法の家に興味を感じていたようで、機会があればと頼み込む。
「ええ。そのうち森に魔狼でも狩りに行こうかと思っていたので、点検がてらお見せしますよ」
シノブ達が出現したピエの森には、魔狼の群れが多数いる。この魔狼の皮は革鎧や金属鎧の裏打ちなどに最適で、先日も軍御用達の革職人に売ったばかりだ。
「それは助かるね。魔狼の皮はまだまだ不足しているらしいから、ありがたいよ」
伯爵も狩りの成果に期待しているらしく、笑みを浮かべる。ピエの森の奥は危険だから、腕利きといった程度の武人や猟師では踏み込めないからだ。
◆ ◆ ◆ ◆
伯爵の執務室から辞した後、シノブとアミィは滞在している貴賓室へと戻っていく。
それにジェルヴェも一緒だ。密談も終わったことだし、当初の予定通り彼の教授が始まるのだ。
「シノブ様、アミィ様。ミシェルにも魔力操作を教えてくださり、ありがとうございます」
「ミシェルちゃんは素質もあるし頑張り屋さんだから、きっと上達すると思います!」
ジェルヴェの改めての礼に、アミィは満面の笑みで応じる。
同じ狐の獣人であり一緒に事件の捜査をしたジェルヴェに感謝され、アミィはとても嬉しそうだ。彼女は薄紫の瞳をキラキラさせながら微笑んでいる。
ジェルヴェを見上げるアミィの姿は、まるで祖父を慕う孫のようだ。仲良さげに語り合う二人に、シノブも思わず笑みを零す。
「それでは始めましょう」
部屋に戻るとジェルヴェは前回の続き、『メリエンヌ王国年代記』の後半を語り始めた。
とはいえ王国誕生から五百五十年、王家とベルレアン伯爵家はちょうど二十代目になる。その間の膨大な出来事を全て追っては大変なので、掻い摘んでの説明だ。
ちなみに王国成立直後は、同時期に誕生した周辺の国々と国境の確定で揉めたことも多かったようだ。しかし百年もしないうちに殆どと合意が成立、争いは大幅に減っていく。
唯一の例外が東の隣国ベーリンゲン帝国で、国境線を巡る争いが絶えなかった。そして今でも、十年から二十年に一度は大きな戦いが発生している。
したがって年代記の後半は、帝国との戦いが多くを占めている。
「最後の戦いが二十年前、先代様が当主のときに出陣された創世暦980年の戦いです。
実は私も先代様のお側付きとして従軍しましたが……あの時は先代様の弟君エドガール様を始め、多くの戦死者や行方不明者が出ました……」
当時のことを思い出したのかジェルヴェは悲しげな表情をした。
ちなみに先代伯爵アンリの弟エドガールとはマクシムの祖父、つまり先代ブロイーヌ子爵である。アンリは亡き弟の孫であるマクシムに目を掛けていたのだ。
もちろん決して贔屓することはなく、あくまでも後見役である。そのためアンリはマクシムの私生活に関与しなかったらしいが、それが暴走を招く一因となったのは何とも皮肉なことだ。
アンリの胸中を思ったシノブは、知らず知らずのうちに顔を曇らせていた。
「……それでは、今日はこの辺にしましょう。明日もミュリエルお嬢様に魔術の指導をされるのですか?」
暗くなった雰囲気を嫌ったのだろう、ジェルヴェは再び笑みを浮かべた。そして彼は翌日の予定へと話題を転ずる。
「ああ、午前中に行く予定だよ」
「分かりました。他に御用はありますか? ピエの森で魔狼を狩るとのことでしたが……」
明るく応じたシノブに、ジェルヴェは更に問い掛ける。
ジェルヴェは僅かに案ずるような表情となっていた。シノブ達が八頭の魔狼を倒したと知ってはいるが、それでも気になるのだろう。
「狩りは少し先にするつもりだ。その前に、領都の治療院を見学したいと思っているんだけど」
この機会にと、シノブはジェルヴェに訊ねてみる。
ピエの森にいたころ、シノブとアミィは町に着いたら治療院で治癒魔術を練習しようと相談していた。術自体はアミィが教えてくれたが、シノブには実践経験が不足しているからだ。
「治療院ですか? 近くに中央区の治療院がありますが……。
シノブ様達はお嬢様達や軍馬の怪我をあっという間に治療したと聞いています。それだけ術を極めていらっしゃるのに、こちらの治療院など見学される必要があるのですか?」
「いや、故郷と違うやり方もあると思って……」
ジェルヴェの疑問に、シノブは表向きの理由で説明する。
今までシノブが経験したのは、怪我の治療ばかりだ。したがって病気や中毒の対処など、より広範囲な術も確かめておきたい。とはいえ素直に明かすわけにはいかないから、新たな術を求めてとしたのだ。
「なるほど……仰る通りかもしれませんね。それでは明日の午後にでも見学できるよう、手配しておきましょう」
シノブの説明に納得したようで、ジェルヴェは一礼する。
対するシノブは真実を語れないことを済まなく思いつつも、仕方ないとも感じていた。幾らなんでも、この世界の最高神に導かれて来たなどと言えないからだ。
そんなことを口にしたら聖人ミステル・ラマールと同等の存在として祭り上げられるか、逆に騙りとして白い目で見られるかだろう。
しかし今回は切り抜けられた。思わず安堵の表情となったシノブを、アミィが柔らかな笑みと共に見つめていた。
お読みいただき、ありがとうございます。




