13.02 シノブ南方に発つ 中編
ベーリンゲン帝国の国民は、三割が人族で残り七割が獣人族だった。
帝国の獣人族は全て奴隷とされ、その多くは農奴として各地の村で働いていた。ごく一部は戦闘奴隷として軍に配備されたり都市や街道の建設などに回されたりしたが、全体からすれば少数である。
つまり国民のおよそ六割以上が農業に従事しているわけだが、これは特異な数字ではない。地球の歴史を例に挙げると、18世紀中頃の欧州でも第一次産業の従事者は七割前後だったようだ。また日本の場合も、江戸時代はおよそ八割が農民であったと言われている。
帝国以外の国に奴隷制度は存在しないが、人口に占める農民の比率は同じ程度であった。なお地球に比べて農業従事者が少ないのは、どうやら魔力の存在が大きいらしい。
大きな魔力を持ち魔術師として活躍したり身体強化を活かして軍人となったりするほどの者は、ごく一部である。しかし、そういう特別な者以外も、多少ではあるが魔力による身体強化を可能としていた。シノブが見たところ、地球の人類に比べて最低でも一割から二割は身体能力が優れているらしい。
流石に軍人のように常人の倍もの能力を備えてはいないが、普通の農民でもそれに迫る者は多かった。そのため農作業も、比較的少ない人数でこなせるようである。
特にドワーフや獣人は身体能力に優れた者が多い。そのためか人力や牛馬を使って作業している割には、生産能力も高いらしい。
そのため帝国の農業は、標高が高く山がちな土地にしては高い生産力を誇っていた。もっとも農奴として酷使される獣人の存在を前提としたもので、今後もそのまま継続するわけにはいかない。
「確かに我らの力が活かせますね! 我がエリュアールは、代々農業と漁業に力を入れてきましたから!」
シノブの話を聞いて得心顔となったのは、エリュアール伯爵デュスタール・ド・ラガルディーニである。今日は天気も良いこともあり、彼らはエリュアール伯爵家の館の庭に出ていた。エリュアール伯爵は、庭にある東屋でシノブ達を持て成しているのだ。
シノブ達は、エルフの使者を炎竜イジェやオルムル達子竜と引き合わせた後、この東屋へと移動してきた。
なお、竜達は少し離れた修練場で寛いでいる。東屋の近くは色取り取りの花が咲き乱れており、巨大なイジェが同席するには狭すぎる。それに彼らは魔力で生きる存在だ。成竜は自然に存在する魔力、幼竜は魔獣に含まれる魔力を糧としている。そのため竜達は農業に関心が薄く、同席を望まなかった。
「家臣にも、在地で農政に励む者が多いのですよ」
デュスタールの妻のジョルジェットは、笑顔と共に夫の言葉を補足する。
饗応する側は、この二人だけだ。三十前のエリュアール伯爵に子供は三歳のジスレーヌのみ、もちろん接待できるわけもなかった。
それに対して客側は多い。まずフライユ伯爵領から来た者から、シノブとアミィの主従、シャルロットとミュリエルの姉妹、王女であるセレスティーヌに、ドワーフのイヴァールにエルフのメリーナである。更に、エルフの国デルフィナ共和国から来た、四人の使者も同席していた。
「ええ。アルメル殿からも、そう伺いました」
シノブは、ミュリエルの祖母アルメルが語った内容を思い出しながら頷いた。
エリュアール伯爵家の初代オリヴィエ・ド・ラガルディーニは、弓の達人であったという。しかし、その一方で農政にも優れた才を示していた。
各伯爵家の初代は、いずれも建国王エクトル一世の股肱の臣である。彼らは都市国家メリエの貴族であったエクトルの騎士だったのだ。そして、ラガルディーニ家は広い農地を持つ半ば豪農というべき一族だったらしい。
そのためだろう、代々の領主は農業や漁業を手厚く保護し、家臣にも郷士というべき半士半農の者が多いという。
「農業が大切なのは、どこも同じですが、ここは特にそうですからね」
エリュアール伯爵は、少々苦笑しながらも誇らしげに答えた。
この辺りの国では、国民の六割以上が第一次産業に従事している。当然、各領地の収入の半分以上はそれらによるものであり、内政官も基幹産業の発展に力を注ぐことになる。
そして、エリュアール伯爵領は、永く戦いの無い平和な領地である。自然と軍も縮小し、治安維持や国境警備が中心となっていく。また、この地はデルフィナ共和国と接してはいるが交易も殆ど無く、他領に抜けるために使う者も殆どいない。そこで、官民合わせて農業や漁業に注力したというわけだ。
「色々教えていただけると助かります」
シノブは、自領への愛を滲ませるエリュアール伯爵の様子に、温かいものを感じていた。そして、これならアルメルが彼を推薦するのも当然だと納得していた。
アルメルの実家であるジョスラン侯爵家は代々農務卿を務める家柄だ。だが、ジョスラン侯爵は家格こそ高いものの小領主であり、貸し出せる人材はいないらしい。そこで彼女は、縁の深いエリュアール伯爵家を勧めたようである。実は、ジョスラン侯爵家は、エリュアール伯爵家の分家なのだ。
この国の侯爵家は、全て伯爵家からの分家である。昔は各伯爵家から閣僚を出していたが、今から十一代前、第九代国王ジスラン一世の治世に、侯爵家を設立して大臣職を彼らの世襲としたという。ジスラン一世は伯爵家と疎遠であったらしく、自分の手足となる侯爵家を設けることで王家の権力を増そうと考えたらしい。
そういった侯爵家設立の経緯はともかく、要するにアルメルにとってエリュアール伯爵家は実家の実家というべき存在である。しかも、ジョスラン侯爵家の治める都市ガダニーユは、エリュアール伯爵領から王都メリエに向かう道筋、マリアン・エリュアール街道に存在する。そのため、現在でも両家は親密な仲らしい。
ともかく、そんな背景もあり、アルメルはエリュアール伯爵領の農政について良く知っていた。そこで、内政と農業の双方に詳しい郷士を紹介してもらったらと、シノブに提案したのだ。
「私が行きたいくらいですが、流石に領地を放り出していくことも出来ませんね!」
「まあ、貴方……」
快活に語るエリュアール伯爵を見て、妻のジョルジェットは少々苦笑していた。
ジョルジェットは、背が高く体格も良い夫とは違い、小柄で細めの女性だ。しかも年齢もまだ二十歳と若い。だが、単なる若奥様ではなく、早くに爵位を継いだ夫を支える賢妻だという。もしかすると、そういう良妻がいるから、エリュアール伯爵が少年のような性格のままなのかもしれない。
シノブは、仲睦まじい夫妻の様子に、思わず微笑んでいた。彼の隣では、シャルロットも柔らかな笑みを浮かべている。もしかすると、エリュアール伯爵達にシノブと自分の将来を重ねているのかもしれない。
◆ ◆ ◆ ◆
エリュアール伯爵の立候補は単なる冗談でしかないようだ。しかし、他にも名乗りを上げる者が現れた。
「私なら、お手伝いできると思いますよ! そういうことは私達の得意分野ですから!」
爽やかな声でアピールしたのはエルフの使者の青年である。彼の名はファリオス・アヴェティ・エイレーネ。今回シノブ達に同行しているメリーナの兄であった。歳もメリーナとさほど離れていないらしく、シノブともさほど違わない年頃に見える若々しい外見だ。
なお、エルフは男性もほっそりとした種族らしい。ファリオスの背丈はシノブと大差ないが、胸板は薄く腕も女性のように細い。すぐ側に座っているエリュアール伯爵が、雄牛のような隆々たる筋肉の持ち主だから、余計に人族との差が目立つ。
更にファリオスの顔も、その体に似合った繊細なものだ。女性と見紛うばかりの美貌に、ストレートのプラチナブロンドを肩まで伸ばしたファリオスは、ドレスを着せれば少々背の高い貴婦人として充分通用するだろう。その声音も女性に近く、テノールというよりはアルトというべき声質である。
「ファリオス……」
不満げな様子で呟いたのは、その隣に座っている、もう一人の男性のエルフであった。
彼は、ファリオスとメリーナの父、ソティオス・エイレーネ・ソフロニアである。こちらも、ファリオスと似た女性のように美しい容貌だ。
もっとも、良く似た容姿の親子だが、その表情は対照的である。喜びに顔を輝かせるファリオスとは違い、ソティオスの面には苦々しさが滲んでいる。娘に続いて息子まで外国に行くのが、不本意なのだろうか。
「こうなるとは思っていましたが」
「はい……」
彼だけではなく残り二人の使者、ソティオスの妻のアヴェティと、先日シェロノワにも訪れたフィレネは苦笑気味である。
ちなみに四人の使者は、正使がアヴェティ、副使がソティオス、ファリオスとフィレネが従者であった。エルフの長は大半が女性であり、重要な地位には女性が就くことが多いらしい。アヴェティは、彼らが属するアレクサ族の長の補佐役だから、正使に選ばれたようである。
「父上、私は茄子という植物を育ててみたいのです! そして、将来は国に持って帰る! 我らエルフが知らない植物など、あってはなりません!」
「兄上……私達が知らないものなど、いくらでもあるでしょうに……」
高らかに宣言するファリオスとは対照的に、メリーナは恥ずかしげな様子であった。
彼女は、ここに来る途中、茄子に興味を示すエルフがいるかもしれないと言っていたが、それは自身の兄のことだったのだ。そのため、ファリオスが名乗りを上げること自体は予測していたようだが、ここまであけすけに未知の植物に対する興味だけを顕わにされると、身内として少々肩身が狭いのかもしれない。
「エルフの方々にも協力いただけるなら、これに勝る喜びはありません」
シノブは、苦笑を隠しつつファリオスを受け入れる意思があることだけを伝えた。彼自身の思惑はともかく、協力者が多いことは助かる。そう思ったので、ファリオスが口走ったことは聞き流すことにしたのだ。
「そうです、王国としても歓迎しますわ!」
「ええ。ぜひ、エルフの皆様のお知恵を貸してください」
シノブと同様に、セレスティーヌやシャルロットも、ファリオスの突飛な発言には触れなかった。二人は、上品な微笑みをエルフ達に向けている。
「茄子は凄く早く育つのです。きっと驚かれると思いますよ」
ミュリエルにとっては、茄子は自領のためにアムテリアが授けてくれた特別な農産物だ。そのためだろう、彼女は緑色の瞳を輝かせながら茄子について語っていた。
「少し早すぎるくらいですが……」
そんなミュリエルの脇で呟いたのはアミィである。彼女は、僅か二週間程で収穫できた茄子をファリオスが見たら、驚愕どころでは済まないと思ったようで、苦笑いを浮かべている。
「実は、近々学校を作ります。できれば、そこで教えていただきたいのです。もっともまだ準備中で、開校の時期も決まっていないのですが……」
シノブは、エリュアール伯爵やファリオスに、教育の場を設けようとしていることを伝えた。
これから設立する学校では、軍人や内政官となるべき若者への教育や、帝国の神の支配から解かれて記憶を失った大人への再教育を行いたい。そして、内政官には農政に関わる者が多いはずだ。そのため、シノブは進んだ技術を持つはずのエリュアール伯爵領やデルフィナ共和国から指導者を招きたかったのだ。
幸い、教育のための設備はある。であれば、後は優秀な講師を招いて生徒達に教えれば、それが広まっていくのではないだろうか。それらを含め、シノブは自身の考えを語っていった。
「シノブ殿、農業は教えただけで出来るものではありません! 実地での訓練が重要です!」
「そうです! 一年を通して畑を耕して初めて身に付くのです!」
エリュアール伯爵とファリオスは、シノブが語る内容を、座学に偏ったものと思ったようだ。彼らは、口を揃えて懸念を表していた。
「シノブ殿、大変恐縮ですが農業の経験は?」
「恥ずかしながらありません……」
シノブは、一転して真剣な表情になったエリュアール伯爵に、少々頬を染めつつ答えた。彼が世話した植物といえば、せいぜい鉢植えや庭木、それも水をやったくらいである。
それに、ベルレアン伯爵領やフライユ伯爵領でも、農村に赴く暇は無かった。ヴォーリ連合国の村々やアマテール村には行ったことがあるが、寒い時期であり、あまり農作業を見ることもなかったのだ。
「いけませんな! では、私がお見せしましょう!」
席から立ち上がったエリュアール伯爵デュスタールは、シノブに力強く宣言していた。
どうも、シノブの予想以上にエリュアール伯爵家は農業に力を入れているらしい。シノブは、今まで知らなかったデュスタールの姿を、若干の驚きを感じながら見つめていた。
◆ ◆ ◆ ◆
エリュアール伯爵領の領都ラガルディアの郊外には、大きな農園が広がっていた。農園では輪作が行われているらしく、牧草地らしきところと畑が入り混じっている。広大な農地の殆どは、近隣の農村のものらしいが、その中にはエリュアール伯爵家の所有する農場もある。シノブ達は、そこに主直々の案内で訪れていた。
一行をエリュアール伯爵が騎馬で先導し、その後ろにシノブ、アミィ、シャルロット、イヴァールも同様に馬に乗って続いている。メリーナやエルフの使者達も同様だ。なお、セレスティーヌやミュリエルなどは、エリュアール伯爵夫人のジョルジェットと共に馬車に乗っていた。
ちなみに、オルムル達は、農場の家畜を脅かさないように配慮したため、イジェと共にエリュアール伯爵の館で留守番をしている。
「デュスタール殿も、ここの作物の世話をするのですか?」
愛馬リュミエールに跨ったシノブは、隣を進むエリュアール伯爵へと問いかけた。その隣では、同じくフェイに乗ったアミィも興味ありげな様子で彼らを見つめている。
実は、磐船には馬も積んでいた。南方への旅では、馬や馬車も使うかもしれない。そのため、磐船で馬を輸送できるか試すために連れてきたのだ。幸い、フライユ伯爵家の馬は、竜に慣れていた。何しろ、毎日のように竜が来るし、オルムルを始め長逗留する竜もいる。それ故、自然と慣れたようだ。
「ええ。我が一族は、剣や弓と同様に農作業も仕込まれますので」
エリュアール伯爵は、彼に相応しい巨大な軍馬の背から、シノブに答えた。彼は、自家の色である深紅の服を着ている。一見軍服のように見えるが、どうも作業着らしい。
ちなみに、シノブ達も武術の訓練をするときの服に着替えている。エリュアール伯爵の勧めもあり、汚れても構わない格好に着替えたのだ。
「人族の領主にしては珍しいな」
ドワーフ馬ヒポに乗ったイヴァールは、誰に言うとも無く呟いていた。会談の間も殆ど口を開かなかった彼だが、流石にこれには驚いたらしい。
彼らドワーフは世襲制ではなく、長には実力のある者が就任する。そのため、若いうちは農業や狩猟を含むあらゆることを経験する。そのため、イヴァールも一通りのことは出来るという。
だが、シャルロット達ベルレアン伯爵家の者は、畑仕事をすることはない。そのためイヴァールとしては、エリュアール伯爵の言葉は予想外のものだったようだ。
「エリュアール伯爵家は特別なのです」
こちらも愛馬アルジャンテに騎乗しているシャルロットが、隣のイヴァールに微笑みかけた。
メリエンヌ王国の領主でも男爵家のような小領の主だと、自ら農作業を行う者もいる。しかし、大貴族である伯爵で、このような仕来りを持つのは、エリュアール伯爵家だけらしい。
「さて、到着しました! シノブ殿、どうぞ!」
ひらりと軍馬から降りたエリュアール伯爵は、シノブを畑へと誘った。
「おや! 今日も畑にお出でですか!?」
畑の中から、農夫らしき男が良く通る声を張り上げた。麦藁帽子を被った、羊毛らしい素材の服を身に着けた男である。畑には、同じような格好をした数人の農夫が作業している。磐船の上から見た畑と同様に、土入れを行っているようだ。
「ああ! 友人を案内しようと思ってね!」
エリュアール伯爵も、快活な笑みと共に返事をした。彼は農夫達と、かなり親しくしているようだ。伯爵家の農場とはいえ、よほど頻繁に訪れていなければ、こうはいかないだろう。
「植えたばかりなのでしょうか?」
麦畑といっても、畝の上に顔を出している葉は、まだ足首くらいの高さでしかない。そのため、セレスティーヌは、植えて間もないと思ったようだ。王女である彼女は、畑に来るのも初めてだから仕方ないだろう。
「種を蒔いたのは、去年の秋です。秋に蒔いて、冬を越してから発芽しますから」
セレスティーヌに説明をしたのは、ミュリエルだ。彼女は、シェロノワに住むようになってから、アルメルに農業についても教わっていた。とはいえ、彼女も農地に出向いたことは殆どないため、こちらも興味深げに眺めている。
「シノブ殿。畑に立ち、土の匂いを感じ、作物の表情を読む。それ無くして豊作はありえません」
農夫達の作業を邪魔しないように配慮したのか、エリュアール伯爵は彼らとは少し離れた場所にシノブを導いた。そして、少し声を落としてシノブに語りかける。
「エリュアール伯爵は、良くご理解されていますね! ……うん、ここは良い土だ!」
なんとエルフの青年ファリオスは、しゃがみこむと少々土を摘み口に含んでいた。
もちろん食べるわけではなく、土質を見るためである。ファリオスの仕草を見ていたシノブは、そういう映画があったことを思い出していた。
「土を作るのだって、その土地に合わせたやり方をしなくてはいけません。教えた通りにやっても必ず出来るとは限らないのです」
流石にエリュアール伯爵は口に含むことはないが、手の上に取った土を伸ばしたり握ったりして触り心地を試している。どうやら満足のいく出来だったようで、伯爵は日焼けした顔に微笑みを浮かべていた。
「ですから、学校と併設して農園を造ってはいかがでしょうか?
フライユでは、北部の高地を開拓したと伺っています。そこで若者達を鍛えても良いでしょう。高地なら、帝国とも気候などの条件が近いと思いますし」
「なるほど……」
シノブは、エリュアール伯爵の言葉に頷いていた。魔法の学校は、巨大な設備だ。少なくとも都市の中に展開できるようなものではない。
当初、シノブはシェロノワの郊外を候補地として考えていた。しかし、北の高地で一から農業を経験するという案には魅力を感じた。それに、帝国と条件が近い場所で教えるべきという指摘も、もっともである。
「そうですね! 若者も二十年も学べば、きっと良い指導者になるでしょう!」
「兄上、人族の成長は早いですから、二十年もしたら若者ではなくなってしまいます」
ファリオスの言葉に苦笑したのは妹のメリーナだ。
エルフは、長命な種族である。人族なら二十歳程度にしか見えないファリオスだが、実は50歳近いらしい。なお、彼の両親であるアヴェティやソティオスは、人族なら三十代半ばというところだが、実年齢は百歳をとっくに過ぎているという。
おそらくエルフなら、少年から成人の間の学習で二十年を費やすことも、ごく普通にあるのだろう。
「なんと! ならば尚更腰を据えてかからないといけないな!」
驚愕した様子のファリオスに、シノブ達は思わず噴き出した。
ファリオスは植物の栽培に関しては一流なのかもしれないが、どうにも世間離れした人物のようだ。しかし多様な種族や出身の者を集めた教育機関にしたいシノブとしては、エルフにも一枚噛んでほしかった。それ故シノブは、彼の両親が許可してくれたら自領に招きたいと考え始めていた。
◆ ◆ ◆ ◆
「ファリオス。他国に定住するなら、弓の試しを受けてもらおう。もし、私に勝てたなら好きにして良い」
笑い声を上げる一同の中、一人だけ黙りこくっていたソティオスが、つかつかと息子に歩み寄ると、語気も鋭く宣言した。
「ち、父上、それは酷いです! 何で私だけ! メリーナは!?」
「メリーナは娘だからな……」
驚愕した様子のファリオスに、ソティオスは苦々しげな口調で答えた。
「アミィ、弓の試しって?」
「エルフの仕来りの一つです。親権者が自身の子供に課す試しです」
シノブが小声で問うと、アミィが囁き返した。
彼女は、エルフが成年として認められるには、自身の親に弓の試しで勝たなければならないと続けた。男子は男親、女子は女親と弓で競い、勝利したら一人前として認められるという。
「そうすると、弓が下手なら一生子供扱いってこと?」
「多くの場合は形式的なものらしいですよ。よほど酷くない場合、親が手加減して負けてあげるそうです」
シノブの再度の問いに答えたのは、直ぐ近くにいたエリュアール伯爵である。彼は、デルフィナ共和国と隣接した領地を持つだけに、そのあたりの事情にも詳しいようだ。
「私も、母に勝ちを譲ってもらいました」
こちらはフィレネである。彼女は、つい最近エルフの成人年齢である三十歳になったばかりだという。
エルフはゆっくりと成長する。十歳までは他の種族と変わらないが、そこからはエルフの四歳が他種族の一歳に相当する。したがって、三十歳のエルフは他種族でいえば十五歳である。そのため、年齢による衰えも中々来ない。
例えば、ソティオスは百歳を超えているが、人族なら三十代半ばに相当する若々しさを保っている。仮に彼が十歳から弓を始めたとしたら、九十年以上も鍛錬を続けてきたことになる。その彼に、半分程度しか生きていないファリオスが勝つのは、至難の業だろう。
しかも、運の悪いことにソティオスはアレクサ族で一番の射手だという。
「貴方、それは厳しすぎるのではありませんか?」
アヴェティは、眉を顰めながら夫に語りかける。彼女は、息子が他国に行くことに対して必ずしも反対というわけでもないようだ。
「む……ならば、ここにいる誰でも良いから私に勝てば許そう! 何人でも良い! これならどうだ!」
「それなら私が! 我がエリュアール伯爵家は、王国では弓の名門と呼ばれた家柄ですからな!」
自信ありげな表情で一同を見回したソティオスに、すかさず名乗りを上げたのはエリュアール伯爵だ。
彼が言うように、メリエンヌ王国ではエリュアール伯爵家が弓の第一人者という認識である。その彼としては、ここで黙っているわけにはいかないのだろう。
どうやら、時ならぬ弓術大会が始まるようだ。どんな妙技を見ることが出来るのかと想像したシノブは、その顔を綻ばせていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2015年8月15日17時の更新となります。