12.08 リーベルガウの陰謀 後編
「閣下、お待ちしておりました!」
メグレンブルク軍管区の領都リーベルガウに訪れたシノブ達を待っていたのは、シノブの家臣アルバーノ・イナーリオであった。アルバーノは、神像による転移で大神殿に現れたシノブ達に、少々気障にも映る仕草で一礼をしてみせる。
「アルバーノ、どうしてここに? ゴドヴィングに居た筈だけど?」
シノブは彼特有の大仰な言動に慣れたので、それには触れなかった。アミィはもちろんのこと、シャルロットやミュリエル、それにセレスティーヌもアルバーノがどういう人物か把握してきたようで、同様である。
他もアルバーノを気にした様子はない。まだ幼いミシェルは初めて来た場所が珍しいのだろう、しきりに周囲を見回している。それにフレーデリータは彼と接点が少なく、しかもメリエンヌ王国の風習に疎いため、そういう礼法なのかと思ったようで平静なままであった。
「今回は、私が閣下の護衛隊を率います。これは、東方守護副将軍閣下のご推薦でもあります。さあ、どうぞ!」
意味ありげな笑みを浮かべるアルバーノに、シノブは苦笑を隠せなかった。おそらく東方守護副将軍、つまり先代アシャール公爵ベランジェが、何か企んでいるのだろう。そう察したシノブは大人しく彼の後に続き、大神殿から歩み出ていった。
「……本格的だね」
大神殿の前には、騎馬姿の王国軍人達が整列していた。人数はおよそ50名であろうか、シェロノワからシノブ達を警護してきたアルノー達と合わせると100名近い大人数になる。馬車も数台用意され、アルノーの部下が乗る分であろう、空馬も多数用意されていた。
「王女殿下に奥方、それにミュリエル様をお迎えするのですから、これくらいは当然です。既に、リーベルガウ中に、閣下がご家族と視察されることを通達しております。
あっ、もちろん住民の生活を妨げるようなことはしておりません! 当地方の特産品を扱っている大店の交易商を押さえておりますが、そちらにも充分な保証はしました」
アルバーノは、シノブが眉を顰めたことに気がついて、慌てて釈明をした。
ミュリエルがメグレンブルクとの交易に興味を示したことは、アミィを通してリーベルガウを預かるトヴィアスや、たまたま居合わせたベランジェにも伝えている。そのため、彼らはミュリエルの要望に応えるべく、事前の手配を済ませていたようである。
「ありがとうございます」
「アルバーノのおじさん、ありがとうございます!」
アルバーノの言葉を聞いたミュリエルとミシェルは、その顔を輝かせていた。
ミュリエルは頬を微かに紅潮させ、狐の獣人であるミシェルは、頭上の狐耳をピンと立て尻尾を嬉しげに揺らしている。それに、フレーデリータもどこか嬉しげな顔をしている。
そんな三人の姿にシャルロットとアミィは微笑み、セレスティーヌも目を細めていた。ミュリエルがリーベルガウの訪問を望んだ理由は不明なままであったが、それはそれとして少女達の楽しそうな姿に思わず和んだようである。
「勿体ないお言葉。このアルバーノ、閣下とご一族様の命とあれば、例え火の中水の中、皇帝直轄領の中だって……しかし、おじさんはまだ勘弁頂きたいところですが……」
途中までは威勢の良かったアルバーノだが、最後は誰にも聞こえないような小さな声で残念そうに呟いていた。
アルバーノは既に四十歳だが、とても若々しく動作も溌剌としており外見は三十前としか思えない。しかし一方で彼は、ソニア・イナーリオの叔父でもある。
最近のソニアは諜報活動に重点を置いているが、シャルロットの侍女でもありミシェルは良く知っている。つまりミシェルが『おじさん』と呼んだのは、ソニアとの続柄を差しただけかもしれない。
それはともかく、アルバーノは案外年齢を気にしているようだ。彼は慌ただしく髪を撫でつけているが、これは彼ら猫の獣人に特有の動揺を隠すときの仕草であった。
ちなみにシノブは、この仕草の意味を同じく猫の獣人のソニアから聞いていた。それ故彼は動揺するアルバーノから目を逸らし、笑いを堪える。
「アルバーノさん?」
どうやらアミィも、シノブと同じことを考えているようだ。彼女は、僅かに微笑みながらアルバーノを促した。
「おお、これは失礼しました! では、改めましてどうぞ!」
アルバーノは、ハッとしたような顔を一瞬したものの、直ぐに普段の態度に戻ると、シノブ達を馬車へと誘う。そしてシノブも、彼が来た理由は後で聞くこととし、急ぎ足で馬車に向かっていった。
◆ ◆ ◆ ◆
リーベルガウでは、交易商といえば殆どが東区に店を構えていた。これは、ベーリンゲン帝国で最も西方のメグレンブルクでは、交易相手といえば東の他領を指すから当然である。
なお、大店ほど中央区に近い一角に店を持っているのは、メリエンヌ王国と同じである。どうやら国が違っても、そのあたりは変わらないようだ。
そして今、東区の大通りには大勢の人が押し寄せていた。彼らは、街を守護する王国兵に制されながらも、何かを待ち望むかのように中央区の方を見つめている。
「領主様が、こちらにお見えになるのですか?」
街路の端に並んでいる男の一人が、すぐ側にいる王国兵に尋ねた。メグレンブルクが王国の支配下に入ってから、まだ半月程度ではあるが、男は恐れる様子もなく兵士に話しかけている。
なお、正確にはシノブは領主ではなく、この地の管轄する軍の司令官である。しかし、そんな細かいことは領民にとってはどうでも良いことのようだ。そのため彼らの間では、シノブは領主、現地で統治するトヴィアスは代官と呼ばれていた。
「そうだ。済まないが、暫くここは通行できない。ご家族もいらっしゃるのでな」
対する王国兵も、口調こそ厳めしいが男の問いを咎めない。彼らは元々の住民との融和を心がけるよう指示されており、領民達には丁寧に答えるのが常であった。
「兵士さん、あんたは猫の獣人なのかい?」
「ああ。こちらでは俺達のようなのは珍しいようだな」
その隣では、別の兵士に中年の女性が尋ねかけていた。どうやら女性は、北方にいない猫の獣人が珍しかったようである。
大通りで警備をしている兵士のうち半数近くが獣人族だ。しかも彼のような南方系の種族、猫や虎の獣人まで含まれている。
それに帝国軍では獣人は戦闘奴隷として使役され、前線の歩兵や下働きとなる。そのため、こういう晴れやかな場の警備を獣人達が担当することは、無かったのだ。
「領主様が変わってから、暮らしやすくなったわね」
「そうよね。前の領主様も悪い方じゃ無かったけど……帝都で何かされていたんでしょ?」
こちらでは、若い女性達が雑談をしながら中央区の方を眺めている。
王国軍は、前領主であるエックヌートや主だった家臣、それに神官などが帝国の『排斥された神』の支配下にあったことを早い段階で公表していた。大神殿を始め各地の神殿をアムテリアとその従属神を祭る場として作り変え、それまでの信仰を否定した以上、その理由を明確にする必要があるからだ。
幸い、これらの変革は住民達には好意的に受け止められた。
住民達は喜捨の名で事実上の重税を課せられ、従来の神官達に不信感を覚えていた。それに新たな体制に移行した結果、税率は下がり理不尽な徴用も無くなった。
そのため住民達にとって、メリエンヌ王国の統治は概ね喜ばしいものであった。
「東方守護将軍閣下がお見えになった! ここから前に出ないように!」
隊長らしい兵士の声に、街の住民達は雑談を止めると西の方に一斉に視線を向けた。
西側、つまり中央区から、立派な軍馬に跨った騎士達に先導された豪華な馬車がゆっくりと進んでくる。先導する騎士達は、十名程度で後続も同じくらいだ。
厳重な警護ではあるが、シノブがリーベルガウに連れてきた兵士とアルバーノの部下達は合わせて百名近くは居た筈で、それから比べれば少ない。とはいえ過剰な警戒は住民の反発を招く可能性もあるから、このくらいが妥当なのかもしれない。
人々が好奇とも期待ともつかぬ視線を向ける中、馬車はメグレンブルクでも一二を争う交易商、ランペルツ商会の店舗に近づき、その正面に止まった。
なお、メリエンヌ王国では、大商会は中庭に駐車場などを設け、それを囲むように敷地一杯に店舗を建設することが多い。
しかし、より寒さの厳しいメグレンブルクでは、そういった構造は好まれないようで、店舗は店舗で纏められ、その脇に駐車場を設ける形式が殆どである。それに建物自体も壁が厚く窓が小さいものが多い。これらは、暖房のしやすさを重視した結果なのだろう。
「あれが領主のシノブ様か……随分若いんだな」
「あちらが奥方のシャルロット様ね。隣にいるのが、妹君のミュリエル様かしら?」
馬車から降りてきたシノブ達を目にしたリーベルガウの住民達は小声で囁き合っていた。
トヴィアス達は、シノブの視察を事前に大々的に布告していた。その中には、シノブが同行する者達の名もあったため、街の者達も誰が来るかを予め把握していたのだ。
「もしかして、あの方が王女様なのか?」
「あの子が、アミィ様ね! 本当に獣人でも側近になれるのね……」
馬車から降りてきたのは、シノブを含んだ五人だけであった。なお、ミシェルやフレーデリータの姿は見当たらない。
シノブは将軍職ということを意識してか、軍服に光の首飾りや光の盾を着けた一種の正装とでもいうべき姿であった。なお、光の大剣は背負うしかないため邪魔なのだろう、持ってはいない。
一方、女性達は全員ドレス姿である。煌びやかな衣装を纏った女性達に、住民の男達は思わず目を奪われ、女達も嘆声を漏らしている。
そんな視線の中、シノブ達は周囲の人々に愛想よく笑いかけ、手を掲げてみせる。彼らの親しみを感じさせる姿に、街の者達も思わず笑みを漏らしていた。
◆ ◆ ◆ ◆
「動くな! 住民達の命が惜しかったら我らの言う通りにしろ!」
「魔術も使うなよ! 魔力が動いたらこいつらを殺す!」
和やかな雰囲気を切り裂いたのは、二人の男の怒号であった。しかも、蛮行に出た者は他にもいる。二十名近い男女が手近な住民を盾に取り、隠し持っていた刃物を突き付けていた。
「帝国の残党か!?」
「待て! ……お前達、何者だ?」
気色ばんだ騎士や兵士達を抑えたシノブは、正面の男に向かって静かに問いかけた。彼の相貌は鋭く引き締められてはいたが、落ち着きは保ったままである。
「そんなことを言う必要はない。さて、住民を解放してほしくば、我々の指示に従うのだ。そうだ……代わりに誰か人質となってもらおうか」
最年長の男が、シノブに要求を突き付けた。おそらく、彼がこの場を指揮しているのだろう。
実は、彼は特務隊長ローラントの部下の一人、しかも右腕というべき人物であった。どこともしれぬ密室で、シノブを陥れる策を謀っていた者の一人である。そして、その場に集っていた他の者達も、人質を盾にしつつシノブ達を囲んでいた。ただし、別行動しているのかローラントの姿は見えない。
「私が行きましょう」
「お前は駄目だ。『ベルレアンの戦乙女』の異名は重々承知しているからな」
凛々しい声音は、暴漢達を指揮する男の冷徹な声に打ち消された。彼らも、シノブの妻が『ベルレアンの戦乙女』として名を馳せた一流の武人であることは承知しているようだ。
「流石はシャルロット様……」
「ああ、しかしシャルロット様を失うわけにはいかないからな」
王国の騎士や兵士達も、異名に相応しい凛々しく気品に満ちた行動に嘆声を漏らしていたが、その一方で彼女が敵の手に落ちなかったことに、安堵しているようである。
「……そこの娘、ミュリエルとか言ったな。お前と王女が来い。そうしたらこいつらは解放する」
「わかりました。私も『魔槍伯』の娘です。民を守るためならこの身を捧げましょう」
『魔槍伯』とは、ベルレアン伯爵コルネーユの異名である。その彼に良く似たアッシュブロンドと緑の瞳の少女は、恐れ気もなく暴漢達に向かって歩んでいく。
「私もですわ。このような非道を見過ごすなど、王家の者の行いではありません」
「殿下……」
王女に相応しい行動に感じ入ったのだろう、騎士達の誰かが感極まったような声を漏らす。しかし彼らは、二人の女性が暴漢達に向かっていくのを、身動きも出来ず悔しそうに見るばかりである。
「素直に来たお前達に敬意を表して人質は解放してやろう。それに、こんな平民共を捕らえておくより、お前達の方が有益だからな」
指揮官らしい男と隣にいた女が歩んできた二人を捕らえると、他の者は住民達を解放し、その周囲に集まってきた。一人一人が人質を取るよりは、少数の重要人物を押さえている方が自由に行動できるからだろう。暴漢達の多くは短剣で周囲を牽制し、一部は魔術を強化するためか小さな杖を取り出した。
「さて……折角だから、竜を従えるお前の力を試させてもらおうか。ただし、抵抗は許さん。魔術も使えない状況で、我らの攻撃にどこまで耐えられるかな?」
どうやら魔術を使う者達は、シノブを攻撃するようだ。大通りを警備している兵士達も、隠し持てるような短剣などはともかく、小剣や大剣を見過ごすことはない。となると、充分に殺傷能力があるのは魔術ということなのだろう。
「生憎だが、お前達に付き合う時間は無い。人質もいないからな! アミィ、ソニア!」
しかしシノブは、男の要求には従わなかった。彼はそれまでとは違う余裕のある表情を見せると、アミィとソニアの名を叫んだ。
「はい! シノブ様!」
「了解しました!」
何と、暴漢達が捕らえていたのは、ミュリエルとセレスティーヌではなく、アミィとソニアであった。二人はアミィの幻影魔術で姿を偽っていたのだ。
アミィは指揮官らしい男の短剣を奪い取ると、そのまま投げ飛ばした。10歳程の少女が大の男を苦も無く投げるのは非現実的な光景だが、強力な身体強化が出来る彼女にとっては造作もないことである。
そしてソニアはドレスの下に隠し持っていた短剣を抜き放ち、その柄で自身を押さえていた女をあっさりと気絶させる。
「くっ、こちらもか!」
幻影魔術で姿を変えていたのは、アミィ達だけではなかった。シノブの隣にいたのはシャルロットではなく、アルバーノの部下の女性兵士であった。ソニアと同じく猫の獣人らしい彼女は、体格がシャルロットに近かったため選ばれたのだ。
なお、シノブの側にいた筈のアミィは、姿を消していた。こちらは背格好の合う兵士がいないため、幻影だけであり実体は存在しなかったのだ。
「撃て!」
慌てた暴漢達がシノブに水弾や火炎の魔術で攻撃をするが、それらは全て光の盾から出た光鏡によって吸い込まれていく。
「光弾よ!」
そしてシノブは、限界まで小さくした光弾で暴漢達の手足を打ち抜いていく。指先ほどの大きさに縮小された光弾は、暴漢達の間を自由に飛び抜けていくため、多くの人がいる場で使うのには最適である。
「拘束して領軍本部に連行しろ!」
「はっ!」
全ての暴漢を倒したシノブは、騎士や兵士達に指示を出した。彼らは、手際よく暴漢達を縛り上げ、軍馬へと乗せていく。
そんな軍人達の姿に安心したのか、ざわめいていた観衆達も落ち着きを取り戻していた。彼らは民を盾にした暴漢達、おそらくは帝国の手先と思われる者の非道を憤りつつも、シノブ達の手際の良さにも感嘆を隠せないようである。
「あとは、アルバーノだな……」
そんな中、シノブは街路の彼方へと視線を向けていた。彼は街並みを見ながら、この襲撃を知らせ、囮作戦を提案した男の姿を思い浮かべていた。
◆ ◆ ◆ ◆
「やはり、敵わなかったか。だが、奴の弱点は確認できた。次は……」
特務隊長ローラント・フォン・ヴィンターニッツは、大通りを並ぶ建物の上を音も立てずに疾走していた。彼は、部下達を使って得た情報を一人帝都に持ち帰るつもりなのだろう。
囮を使ったシノブ達の対処は、裏を返せば人質となった者を彼らが見過ごしに出来ないことを示している。今回は、より価値のある人質を得ようとして失敗したが、それなら人質交換など最初から考えなければ良いだけだ。
例えば、都市の住民を大量に盾にして、少しずつその命を奪っていけば、どうだろうか。王国は帝国の西側の伯爵領を順次攻略するつもりらしい。そして、その先は皇帝直轄領の都市だろう。だが、そこに大規模な罠を仕掛けておけば、勝機はある筈だ。
そんなことを考えているのだろう、疾駆するローラントの顔は憎らしいほどに落ち着いている。しかし彼の表情は、次の瞬間に一変する。
「……次のことなど考えずとも良いのでは?」
「ぐっ!」
どこからともなく飛んできた刃と言葉で、ローラントの余裕は消え去った。
気配もなく、姿もなく、もちろん音もなく接近した何者かが投擲した短剣が、彼の太腿に突き刺さっていたのだ。
「貴様は!」
「特務隊長殿に名乗る名もない、哀れな戦闘奴隷の成れの果て……ですかな」
足を止めたローラントが声のする方向に振り向いた。すると、何もなかったはずの場所から一人の猫の獣人が、滲み出るように姿を現した。そう、透明化の魔道具で潜んでいたアルバーノである。
アルバーノは、皮肉げな笑みを浮かべたまま、右手で新たな短剣を弄んでいる。
「私の事を知っているのか?」
「貴方の部下を捕らえましてね……帝都に送ったでしょう? 私は主のように優しくはないので結構手荒に扱ったのですが、そのお蔭で貴方達の存在が掴めたわけでして」
リーベルガウに潜入してから、ローラント達は何度か帝都ベーリングラードに使者を送っていた。潜伏先を知らせたり収集した情報を送ったりと、往復を合わせたら三日に一度は出入りしている。
一方アルバーノと部下達はメグレンブルクやゴドヴィングの諜報担当として網を張っており、彼らのうちの一人を捕まえたのだ。
「生憎、潜伏場所までは聞き出せなかったので、こんな茶番を仕組む羽目になりましたがね」
敢えてなのだろう、アルバーノは大袈裟な仕草で肩を竦めてみせる。
アルバーノ達は特務隊長ローラントがリーベルガウに潜んでいると知ったが、場所までは特定できなかった。しかも神々の御紋による記憶の喪失を恐れ、ローラント達は軍人や内政官に接触してこない。
そこでアルバーノは、視察で訪れたシノブに囮を使った作戦を提案したのだ。
「そうか……だが、最後の詰めを誤ったな。姿を消したまま私を倒しておけば良かったものを。奇襲ならともかく、今更姿を消しても無駄だ」
ローラントは足に刺さった短剣を引き抜くと、アルバーノに向けて構えた。彼は治癒の魔道具を持っているのか、太腿から血が滲むこともなく行動にも支障は無いようだ。
「貴方を殺しては、情報が得られませんからな!」
不敵な表情となったアルバーノは手に持つ短剣を構え直し、飛燕のような速度でローラントへと襲いかかった。そして彼は、常人では視認も出来ない電光のような刺突を一瞬のうちに幾度も繰り出した。
「舐めるな!」
生け捕りを宣言されたローラントは、冷徹な表情に僅かな綻びが生じていた。しかし彼は、それ以上の動揺を見せずに、アルバーノの刺突を右手に握った短剣で防いでいく。
「舐めてなどいませんよ……さて、遊びは終わりです!」
何とアルバーノの姿がぼやけると、あっという間に数が増え、ローラントの周囲を取り巻いていた。およそ十人となったアルバーノは、驚愕するローラントを完全に包囲している。
「こ、これは! 魔道具か!?」
十人のアルバーノからは、気配や魔力も感じられない。そのためローラントは、何らかの魔道具で姿を投影していると思ったようだ。
「魔道具なんて使っていませんよ……もっとも、これだけの力を得たのは、貴方達の『隷属の首輪』のお蔭ですから、魔道具を使ったとも言えますが……」
口にした通り、アルバーノは身に付けた体術だけで分身を実現していた。気配を消すのは猫の獣人である彼の特技で、並はずれた身体能力や魔力の隠蔽は戦闘奴隷として過ごす間に修得した技である。
「それでは、良い夢を!」
ある者は短剣を突き入れ牽制し、別の者は柄で殴り。十人のアルバーノは、多彩な攻撃を披露する。
身体強化は、筋力だけではなく反射速度も含めたあらゆる身体能力を向上させる。とはいえ通常は、せいぜい倍程度までしか強化できない。
それに対しアルバーノは、瞬間的に何十倍もの身体強化が出来るのだろう。それ故彼は、十人が別々に襲いかかったのと同等以上の動きを可能としているのだ。
「ぐっ!」
変幻自在のアルバーノの攻撃を食らっては、ローラントには為す術もない。意識を失った彼は、一人に戻ったアルバーノの前に敢え無く崩れ落ちていた。
「さて、無事に捕獲できましたな。帝都攻略の前に、少しでも情報を集めなくては……」
アルバーノは腰に下げていた縄を使い、ローラントを手際よく拘束していく。そして彼は立ち並ぶ石造りの建物の上を、軽やかに駆け中央区へと戻っていった。
◆ ◆ ◆ ◆
シノブ達は、交易商のランペルツ商会を改めて訪問していた。
大神殿からメグレンブルク総督府に移動したシノブ達は、アルバーノの進言により囮作戦を実施した。ちなみに、その間アミィを除いた同行者は、念のために魔法の家で一旦シェロノワへと送り返していた。そして、安全を確認したシノブは、再びシャルロット達をリーベルガウに連れてきたのだ。
「……ところでミュリエル、どうしてここに来たかったのかな?」
真剣な表情で羊毛の毛糸を選ぶミュリエルに、シノブは後ろから小声で尋ねていた。
今、二人の周囲には誰もいない。シャルロットとセレスティーヌは、毛織物の服を手に取って眺めているし、ミシェルやフレーデリータは、アミィと一緒に貴金属や宝石を使った装飾品の置かれた一角にいる。
シノブもミュリエルが言いたくないことを聞き出すつもりは無かったが、それでも教えてくれるのならリーベルガウへの訪問を望んだ理由を知りたかった。
朝食の時のミュリエルは、フレーデリータを気遣っているような様子であった。シェロノワに来て間もないフレーデリータに悩みがあるなら、シノブとしても出来ることはしたいと思ったのだ。
「あのですね……これは、内緒ですよ?」
ミュリエルは、色取り取りの毛糸を一旦棚に戻すと、シノブの方を振り返った。そして彼女は、素早く辺りを見回して周囲に人がいないことを確かめると、少し恥ずかしげに頬を染めてシノブに囁きかける。
「ああ、約束するよ」
シノブはミュリエルの肩に手を置き、彼女を再び棚の方に向けた。そして彼はミュリエルの後ろから顔を寄せていく。これなら、一緒に毛糸を選んでいるように映ると思ったのだ。
「この毛糸で、赤ちゃんの服や帽子とか作ろうと思ったのです」
ミュリエルが語る内容は、シノブの予想もしないものであった。
彼女は、フレーデリータからメグレンブルクに古くから伝わる風習を聞いたという。メグレンブルクは、羊毛が特産品の一つで、寒冷な気候でもある。そのため、赤子が健康に育つことを願って、親族が出産前に産着や帽子、手袋などを編んで贈る風習が出来たらしい。
贈り物は、子供授かったことが判明したら、なるべく早く準備すべきとされ、準備が早いほど健康な子供になるという。
そのためミュリエルは、シャルロットや、その母カトリーヌ、自身の母のブリジットに、毛糸を編んで贈ろうと考えたのだ。
「シェロノワも少し寒いですし、シャルロットお姉さまや、お母さまが出産するのは、冬だと聞いています。ですから、赤ちゃんも暖かくした方が良いですし……」
そうなれば、まさかカトリーヌの子だけ用意しないということもないだろう。彼女は夏前の出産予定であるから、大きめに編むという。
ちなみにメグレンブルクの風習では、贈り主が自分で毛糸を選ぶのが良いとされている。そのため、彼女はリーベルガウへの訪問を望んだのだ。
「そうか……ありがとう。でも、それならそれと教えてくれれば良かったのに」
「私、編み物は初めてですから……」
温かな笑みと共に礼を言ったシノブに、ミュリエルはますます頬を染めて言葉を返す。彼女は、上手く出来るかわからないから、内緒で準備をしたかったらしい。
「なるほど。それなら内緒にしておくよ。ところで、朝食の時、フレーデリータの様子が少し変だったけど、何か知っている? リーベルガウに帰りたいようでもないけど……」
シノブは、残る一つの疑問をミュリエルに問うた。フレーデリータは、リーベルガウに行く話が出たときに、顔を赤くして俯いていたのだ。
「えっと、これも内緒ですよ? フレーデリータさんは、去年、間違えて贈り物を用意したそうです」
昨年フレーデリータは母のエマリーネが、子を授かったかも、と呟いたのを聞いて贈り物を準備したらしい。実際には、単なる勘違いだったらしく、彼女が編んだ帽子は、大きめに作りなおして弟のネルンヘルムに贈ったという。
「そういうことか……わかった、秘密にするよ」
賢そうなフレーデリータが、そんな勘違いをするとは意外であったが、新たな家族の誕生をよほど喜んだのだろう。そう思ったシノブは、自然と微笑みを深くしていた。
シノブは、周囲に祝福されて生まれてくる新たな命に、自身も贈り物を用意しようと考えた。彼は、ミュリエルと毛糸を選びながら、自分が贈ることが出来るものは何かと、思いを巡らせていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2015年7月18日17時の更新となります。