03.01 その家令、博識
ベルレアン伯爵達と内々の祝宴を開いた数日後。逗留中の貴賓室で朝食を済ませたシノブは、とある懸案を片付けるべく言葉を発する。
「アンナさん、歴史とか文化についての本ってあるかな?」
随分と馴染みを感じてきたソファーから、シノブは侍女のアンナに声を掛けた。
伯爵家の館への滞在を始めて半月近く、シノブ達の世話係はアンナのままだ。そのためシノブも彼女に何かを訊ねたり頼んだりするのに慣れ、戸惑いを覚えることはない。
「歴史や文化……ですか?」
朝食の片づけをしていたアンナだが、シノブの唐突な問いに首を傾げた。頭上の狼耳も少し斜めに傾いているのが、何となく可愛らしい。
「……お館様の書斎には、そういった書籍もあると思います」
僅かな間、アンナは思案らしき沈黙をした。そして彼女は、主であるコルネーユの蔵書にシノブの望むものがあるだろうと応じる。
「ありがとう。できれば読んでみたいんだよね。この国のこととかもっと知りたいし」
シノブは歴史書などの閲覧をしたかった。
ここベルレアン伯爵領を含むメリエンヌ王国について、シノブが持っている知識はアミィから教わったことや森を出てからの見聞で得たものだけである。そのためシノブは更に多くを学びたかったのだ。
「そういうことですか!
シノブ様のお申し出なら、もちろんお貸しくださると思いますよ。お館様にお伝えしておきますね」
アンナは納得がいったようで、微笑みを浮かべた。そして彼女は伯爵への伝達を請け負う。
「お願いするよ。別に急がなくていいから、伯爵の時間があるときにでも訊ねてほしいな」
シノブ達は当分の間、ベルレアン伯爵家の館に留まる。そこでシノブは、いつでも良いからと付け足した。
「私達、この町に来てから捜査ばかりしていましたからね~。
森を出るときは、町に着いたら色々この国の情報を集めてみよう、って考えていましたが、結局手つかずでしたね」
アミィが言うように、当初シノブ達は街で魔術師や学者などを探そうと考えていた。アミィが持っている知識もおよそ二百年前のもので、通用するか不明だったからだ。
しかしシノブとアミィは街道でシャルロット達を助けた後、そのまま事件の調査に乗り出した。それに王国や伯爵領は、アミィが知っている二百年前と多くが変わっていないらしい。
そのため二人は、事件と直接関係のないことに関する情報収集を後回しにしていた。
「ああ。一段落したことだし、そろそろこちらの知識も修得したいからね」
シノブは学びたいことを思い浮かべる。
歴史や地理は必須だろう。どのような国かアミィから聞いているとはいえ、あくまで概要である。こちらの風習や常識も必要だし、面倒事を避けるには不文律なども教わりたい。
当面は非常に遠方から来たとして切り抜けるつもりだが、限度はある。最初は広く浅くで良いが、早急に対処せねば。シノブは、そのように考えを纏めた。
「お二人は遠くのお方ですから、王国や伯爵領のことはご存じないですものね……。それに故郷に帰る手がかりも、お知りになりたいですよね?」
アンナは少し悲しげな表情だ。どうも彼女は、シノブ達が故郷に帰る手段を探していると思ったようだ。
シノブは伯爵家の人々に、転移装置の暴走で遠くから飛ばされてきたと説明している。したがって普通に考えたら、帰還手段も調査の対象だと思うだろう。
「う~ん、難しいんじゃないかな? 向こうにいたとき、こっちの国々の名前を聞いたことがないから」
非常に遠方だから帰還は困難だという先日からの説明を、シノブは持ち出した。
シノブの故郷である日本は、こちらから見ての異世界である。したがって同一世界の中での移動だと帰還できない。
しかしシノブとアミィに異世界に触れるつもりはないから、二人は自分達を極めて遠方からの異邦人としていた。
「そうですね~。突然帰ったりしないから、心配しないでくださいね」
優しい微笑みを浮かべながら、アミィが続く。
狼と狐と違いはあるものの、アミィとアンナは獣人の従者同士だ。そのため二人は随分と親密になったようである。そしてアミィは、仲の良い相手を安心させたかったのだろう。
幸いアミィの気持ちはアンナに伝わったようだ。アンナの顔からは最前までの憂いが完全に消えていた。
◆ ◆ ◆ ◆
「シノブ様、アミィ様。僭越ながら私、ジェルヴェがご教授させていただくことになりました」
昼食を済ませたシノブ達の前に現れたのはアミィと同じ狐の獣人、家令のジェルヴェだった。彼は教授役を務めると宣言し、更に深々と一礼する。
「本を借りるだけで大丈夫だけど……何故ジェルヴェさんが?」
シノブはジェルヴェの登場に驚いた。
ジェルヴェは家令という地位が示す通り、この館の使用人の頂点に立つ人物である。こんなところで油を売っている暇などないはず、とシノブは訝ったのだ。
「お館様が大層お喜びになりまして……『我が国、我が領に興味を持ってもらえるとは嬉しいことだ』と。
私としても、ぜひこの国のことをご理解いただき親しみを持っていただければ、と考えまして」
「それで、ジェルヴェさんが自ら?」
本を借りたいという話が大袈裟なことになった、とシノブは思ってしまう。とはいえ好意の申し出を断るわけにもいかないだろう。
(読む手間が省けたと思えば良いか……それに一緒に事件を解決したジェルヴェさんなら、こちらも気楽だしね)
歴史好きなシノブだけあって、書物を読むのも苦にならない。しかし一国の歴史や文化を学ぶのだから、要点を纏めてくれるのは確かに助かる。それに相手は慣れ親しんだジェルヴェだから、遠慮なく質問できるだろう。
そう思ったシノブは「ではありがたく」とジェルヴェに答えたのであった。
ジェルヴェは、幾つかの本を持参してきていた。
『創世記』『メリエンヌ王国年代記』『エウレア地方の文化比較』などという表題が、シノブの目に入る。流石は伯爵の蔵書だけあり、どれも立派な装丁の分厚い本だ。
「歴史と文化、ということでしたので、まずはこれらをお持ちしました。
『創世記』は表題通り大神アムテリア様の創世の御業を記したものです。『メリエンヌ王国年代記』は我が国の成立の経緯とその後の歴史、『エウレア地方の文化比較』は近隣諸国の文化についてです。
ご説明は、どれからにいたしましょうか?」
ジェルヴェは手にしていた三冊をシノブの前に並べる。
卓上に並んだ本は横より縦が四割ほど長く、現代日本でも一般的な形状だ。しかし大きめの図鑑ほどもあって広げたら肩幅くらいにもなるだろうし、厚みも収録語数を誇る辞書ほどはある。
対するシノブは、しばしの間だが思案する。どれもシノブの興味を惹く内容だったからだ。
(創世の経緯はアミィからある程度聞いているけど……でも、地上の人々がどう考えているかも知りたいな。神様の眷属だったアミィとは見方が違うかもしれないし……。
それに最初の出来事から、って意味では『創世記』かな)
シノブは最も大きく美麗な表紙の本に目を向けた。おそらく三冊とも街の者が手を出せる品ではないのだろうが、中でも『創世記』は別格であった。
どれも厚い革の表紙で書名は華麗な金文字だが、『創世記』は更に神々の姿まで描かれており美術品として飾っておきたいくらいである。
やはり神々への信仰が厚いからであろう。『創世記』の表装は、携わった人々が他にも増して心血を注いだことが明らかだ。
「……『創世記』からで。我々に伝わっているものと違いがあるのか興味もあるし」
シノブは、ジェルヴェに自身の希望を伝えた。
神々が息づく世界だけに、人々の精神的な在り方も神話に大きな影響を受けているだろう。ならば、そこを最初に把握するのが良いとシノブは思ったのだ。
◆ ◆ ◆ ◆
「それではどうぞ」
ジェルヴェは極めて分厚い『創世記』を何気ない様子で手にし、シノブへと差し出す。ジェルヴェは武術の方も相当の腕らしいから、鍛え方が違うのだろう。
とはいえシノブも毎日アミィと訓練しているし、非常に強い基礎身体強化もあって常人とは隔絶した能力を持つ。そのため鈍器として充分通用する重さの書籍だろうが、シノブも困りはしない。
それはともかく本を開いたシノブは、上等の羊皮紙を捲ってみる。
外装に相応しく、紙面にも美しい文字が整然と並んでいる。また、文章自体も相当に格調高く表現豊かなようである。
そして眺め終わったシノブが手を止めると、ジェルヴェは柔らかな声で創世神話を語り出す。
「この世界は大神アムテリア様がお姿を現すまで、とても生き物が住める場所ではありませんでした。
大地は火を噴き、海は荒れ、空は厚い雲に覆われて豪雨が降り注ぐ、そんな有様で人間どころかどんな生き物も住むことはできなかったのです。
そこに大神アムテリア様が降臨なさり、世界を造りなおしたのです。偉大なる大神の御業により、世界は今のような穏やかで祝福された地へと生まれ変わりました。
次に大神アムテリア様は、自身の子である神々をお創りになりました。闇の神ニュテス、知恵の神サジェール、戦いの神ポヴォール、大地の神テッラ、海の女神デューネ、森の女神アルフールの六柱の従属神を創造し、それぞれに役割をお与えになりました。
続いて御自身や従属神に仕える眷属を、そして最後に我々人間を含む、あらゆる生き物を大神アムテリア様はお創りになりました」
ジェルヴェは、何も見ていないのにスラスラと説明していく。もっとも創世の物語ともなると、多くの人が諳んじているのかもしれない。
内容自体は、アムテリア自身やアミィの説明と違いはないようだ。世界というのはおそらくこの惑星のことであろう。話を聞きながら、そんなことをシノブは考える。
「大神アムテリア様は、あらゆる生き物に魔力という恩恵を与えました。そのため全ての生き物は、自身の特徴を更に活かすことができるようになったのです。しかし我々人間は、肉体的には特別な力はありませんでした。
人間は他の生き物に比べ高い知能を持っており、大神アムテリア様から言葉も授かりました。知恵を使って生きていくようにとの配慮だったのですが、他の生き物のような強さや素早さはなかったのです」
このあたりはアムテリアやアミィの説明にはなかった部分である。そのためシノブは興味深く思いつつ耳を傾ける。
「自らの弱い肉体を嘆いた人間は、神々に不公平だと訴えました。すると四柱の神々が、それぞれ自分を信奉する人間に力を授けると名乗り出ました。
知恵の神サジェールを信奉したものは高い知性を得て人族になりました。
戦いの神ポヴォールを信奉したものは強い力と素早さを得て獣人族になりました。
大地の神テッラを信奉したものは頑健な肉体と鉱物を扱う技を得てドワーフになりました。
森の女神アルフールを信奉したものは植物のような強い生命力と長い寿命を得てエルフになりました。
こうして人間には人族、獣人族、ドワーフ、エルフの四つの種族が生まれたのです」
つまり各種族の誕生秘話ということらしい。これもシノブにとって初耳であった。
「そして最後に大神アムテリア様が、人間達に知恵をもって魔力を使う方法、魔術を授けました。
肉体的に特別強靭ではない人族とエルフは、熱心に魔術を学びました。しかし獣人族とドワーフはそれぞれの種族に与えられた力を使って生きる道を選び、あまり魔術には熱心でなかったと言います」
今度は、魔術の得意不得意が生じた理由である。
地球でも人種の違いなどを神代の出来事に由来すると語る神話は多い。そのため事実とは違うかもしれないが、それはそれで思想や信仰を反映した結果なのだろう。
「このように世界が創られ各種族が誕生したのが、現在でいう創世暦元年です。そして創世からしばらくの間、神々は人間に文字、農業、狩猟、建築など生きていくのに必要な様々なことを教えました。
神々と眷属の方々は大よそ数十年ほど、人々が知識を理解し生活できるようになるまで頻繁に地上を訪れて導いたといいます。
しかし創世から百年ほどが経ったとき、神々と眷属の方々は地上を去りました。人間が自分の力で新たな知識を得て活用できるようになったからです。
その後の神々や眷属の方々は、ごく稀に地上に降臨される以外、天上から見守るのみとなったのです」
そこで一旦ジェルヴェは話を区切った。するとアンナが彼にお茶を差し出す。
「ありがとう。
俺が聞いていたものと大筋は同じだね。ただ、人間が四つの種族に分かれた理由は、今まで聞いたことがなかったな」
シノブは率直な感想を口にした。非常に遠方から来たとしているから、多少の違いがあったとしても悪くないと思ったのだ。
「おや、そちらでは種族誕生のくだりは失われてしまったのでしょうか?」
ジェルヴェは意外そうな顔をしていた。それに隣で控えるアンナも同様だ。
「たぶん、そうなんだろうね」
まさか、そこはアムテリアから説明されていません、と言うわけにもいかないだろう。そう思ったシノブは、自然な様子を装いつつジェルヴェに同意した。
◆ ◆ ◆ ◆
シノブは『創世記』に書いてある細かい逸話を、後ほど読むことにした。こちらに伝わっている神話も概要は同じだと分かったからだ。
そこでシノブは『メリエンヌ王国年代記』、特に王国設立のくだりを聞いてみることにした。創世と同じで、国の成り立ちを知ることが重要だと判断したからである。
「創世暦400年代前半まで、現在メリエンヌ王国のあたりには小さな都市国家が乱立していました。
その都市国家の一つメリエに創世暦411年、後に初代国王となるエクトル・ド・ヴィリエ様がお生まれになりました。そしてヴィリエ家の家臣の子として、創世暦415年にシルヴァン・セリュジエ様、つまり後の初代ベルレアン伯爵が誕生されました。
シルヴァン様と同様に、他の六伯爵家もヴィリエ家の家臣の出です」
またもジェルヴェは何も見ずにスラスラと説明していく。もっとも自国と主家の誕生についてだから、暗記していて当然なのかもしれない。
「他の六伯爵家とは?」
シノブは気になった点を質問した。
既にシノブやアミィも、メリエンヌ王国にベルレアン伯爵領と同様の伯爵領があることは知っている。しかしシノブは、全てを列挙できるほど詳しくなってはいなかった。
「これは失礼いたしました。
フライユ伯爵、マリアン伯爵、エリュアール伯爵、ポワズール伯爵、ボーモン伯爵、ラコスト伯爵の六伯爵です。これにお館様のベルレアン伯爵を加えて、メリエンヌ王国七伯爵となります。ちなみに我が国の伯爵家は、建国以来この七家のみです」
「ありがとう」
シノブはジェルヴェに頷いてみせる。
父親よりも年上の相手に対し、随分と素っ気ない対応だとシノブは思う。しかし今の自分は伯爵家の客だからと、シノブは表情と声音のみで謝意を示す。
「シルヴァン様を始めとする七人の家臣は、エクトル様と共に成長しました。そして創世暦432年、エクトル様が御年二十一歳で都市国家メリエの代表に選出されます。
更に創世暦435年、エクトル様はメリエの郊外ラシェーヌで、この地を統一し平和を齎すように、と神託を授かりました」
ジェルヴェは一礼し、説明を再開した。
神様のいる世界だけあって、王権神授説ではなく実際に王権神授があったようだ。どのような光景だったのだろうと思いつつも、シノブは続きに耳を傾ける。
「エクトル様は神託に従い、近隣の都市国家を併合していきます。そして七人の家臣はエクトル様を助け、内政、外交、軍事と活躍していきました。
ついに創世暦450年、エクトル様は現在のメリエンヌ王国とほぼ同等の範囲を纏め上げ、エクトル一世として即位したのです。更にエクトル一世陛下は、都市国家メリエのあった場所を王都と定めました。これが現在の王都メリエです。
同時に王国設立に貢献したシルヴァン様以下七人の股肱の臣も、それぞれ伯爵位と領地を得ました。以後、七伯爵家は五百五十年の長きに渡って王国を支えているのです」
主家の活躍を語っているためだろう、ジェルヴェは感慨深げな表情だ。更にジェルヴェは、ベルレアンが伯爵領で最も広いのは初代であるシルヴァンの貢献度が一番だったからだ、などと微笑ましい主家自慢も披露する。
他にもジェルヴェは、王領や各伯爵領の位置関係や力関係など、現代でも役立つ情報も教えてくれた。これらについても、彼は何も見ずに詳細まで語っていく。
「当年は創世暦1000年に加え、王国誕生から五百五十年、更に現国王アルフォンス七世陛下の即位から十年でもあります。そのため新年から、王都でそれぞれ盛大な式典が実施されました」
ジェルヴェは感慨深げな顔で締めくくった。名門たる伯爵家で家令を務めるだけあり、彼は国や伝統への思い入れも強いのだろう。
一休みしたジェルヴェは、他にも建国期の逸話を幾つか紹介してくれた。そしてシノブは『メリエンヌ王国年代記』の続きを明日以降も教わることにした。
何しろ王国成立から五百五十年、全てを一日で知るのは不可能である。
最後の『エウレア地方の文化比較』だが、これは後日にした。
思った以上に『創世記』と『メリエンヌ王国年代記』の内容が多いので、まずはこの国のことを中心に覚えることにしたのだ。
◆ ◆ ◆ ◆
「いや~、ジェルヴェさん、凄かったね。何も見ないのに全く詰まらずに説明していくんだもの。色々質問しても、全部すぐに答えてくれるし」
シノブはアミィとアンナに笑みを向ける。先ほどジェルヴェは退室し、再び室内には三人しかいない。
「本当ですね~。伯爵家にお仕えする方々は、全員あのくらい簡単に説明できるんですか?」
アミィもシノブに続いてアンナへと問う。
あの後シノブとアミィは気になった点を幾つか質問したが、どれもジェルヴェは即座に応じた。しかも退室後に『創世記』と『メリエンヌ王国年代記』で確認してみると、どれ一つとして間違いがない。
「いえいえ、ジェルヴェさんは別格です! 私達も概要は覚えていますけど、ジェルヴェさんは年代記を全て暗記しているとの噂ですし!」
とんでもないといった表情のアンナは、手に加えて尻尾まで左右に振っている。
家令ともなれば、伯爵に随伴して王宮に参内することもある。そのためジェルヴェは並の家臣とは違うのだ、とアンナは口にした。
「へぇ~、家令だけあって別格かぁ」
「そうですよ。跡継ぎのフェルナンさんも苦労して暗記されていますが、なかなか完璧にはできないようですよ。それでジェルヴェさんに厳しく叱られているとか……」
アンナは、そんな裏事情まで話してくれる。フェルナンは二十代後半だから代替わりも遠くはない。それ故ジェルヴェは、以前に増して息子の指導に力を入れているそうだ。
「ああいう人を完璧執事っていうのかな……」
「『シツジ』とは、どのようなものでしょう?」
シノブの呟きを、アンナは聞きつけたようだ。狼の獣人の彼女は、人族よりも耳が良いからだろう。
どうやらこちらには執事という言葉はないらしい。言葉も通じるし本も普通に読めるが、ところどころ表現に偏りがあるようだ。
ちなみにシノブの耳にした限りでは、少々古風な言葉が多いようである。
「アンナさん、シノブ様の故郷では家令のことを執事と呼ぶ人が多いんですよ」
助けの手を差し伸べようと思ったのだろう、アミィがシノブに代わって執事とは何かを説明する。
シノブはスマホに辞書や辞典のアプリも入れていた。そのためアミィは意味だけであれば、日本のことをほぼ問題なく説明できる。
「なるほど~。シノブ様の故郷にも、ジェルヴェさんみたいな方がいらっしゃるのですか?」
「あ、ああ、ごく一部にね……」
シノブは、口ごもりつつアンナに言葉を返す。執事喫茶なるものがある、と説明するのもどうかと思ったのだ。
「シノブ様も故郷では、その『シツジ』を雇っていらっしゃったのですか?」
しかしアンナは重ねての問いを発した。自身が侍女だからであろう、彼女は異国の使用人達に興味があるようだ。
「いや、俺にはアミィがいるからね。アミィがいれば、なんでも完璧にやってくれるから」
仮に日本で使用人を使う身であっても、アミィがいてくれたら充分だ。そう思ったシノブは、心に浮かんだ通りにアンナに答えた。
そしてシノブの言葉を聞いたアミィは、可愛らしい面に至福の笑みを浮かべていた。
◆ ◆ ◆ ◆
夕食後、片づけを終えたアンナは別室に下がる。そこでシノブは改めてアミィに訊いてみた。
「初代国王エクトルに、神託が下ったって本当なの?」
天狐族としてアムテリアに仕えていたアミィなら真実を知っているかも。シノブは、そう思ったのだ。
「はい、実際にあったことです。当時、ここを含むエウレア地方は小さな国同士で争っていたみたいです。
これを憂えたアムテリア様が各地の有望そうな者に加護を授け、それぞれの地域を纏めるように促したそうです。そしてエウレア地方の国の多くは、このとき選ばれた者を始祖としています」
アミィ自身は当時のことを知らないようだ。しかし彼女は、神々か先輩の眷属から教わっているらしい。
「なるほどね。それでアムテリア様が厚く信仰されているのかな?」
神に選ばれた血筋が王を務めているなら、信心深くもなるだろう。それに七伯爵家も選ばれし英雄を支えた家系だ。ならば信仰は先祖崇拝の意味もあるのだろうと、シノブは想像する。
「それもあると思います。
この地方が平和になってから、神々や眷属は殆ど地上に干渉していません。それでも神託や加護は正しい心の持ち主が授かる、という信仰は根強いようですね。
シノブ様のご加護も大っぴらにしないほうが良いですよ。あっという間に聖人認定されてしまいますから」
「そ、そうか。建国王と同じ、とか思われるとそうなるかもね……」
シノブはアミィが指摘した光景を想像し、内心冷や汗を掻いた。
神と会ったことがあり、従者は眷属である。シノブの心配は、決して杞憂ではないだろう。
「もしかすると、王女様の婿になって王家の一員となれ、とか言われるかもしれませんね~」
アミィの口調は冗談めかしたものであった。彼女の薄紫色の瞳も悪戯っぽく輝いている。
「う~ん。出自を誤魔化すのは心苦しいけど、とても真相を言える状況じゃないね。今のまま、非常に遠い国から来たことにしておこう」
今は謎の異邦人で通すしかないと結論付けたシノブだが、同時に先々にも思いを馳せる。
まだ、この世界に来たばかりで知るべきことは多い。それに自分が何をすべきかも見えていない。
自分の進むべき道を早く見つけなくては。漠然と抱いていた思いを、シノブは改めて強く意識した。
お読みいただき、ありがとうございます。
今回から第3章です。章タイトル通り、伯爵家での出来事が中心となります。




