02.12 それから
事件解決の翌日。先代伯爵アンリ・ド・セリュジエと彼の孫娘にして伯爵継嗣であるシャルロットが、ヴァルゲン砦から領都セリュジエールに戻ってきた。もちろん二人の帰還は、当代伯爵コルネーユが急遽の知らせを送ったからだ。
シャルロットは砦の司令だが、急転した事態を知り一時的に帰還した。そしてアンリの本来の仕事は息子に代わっての領軍の監督だ。そのため彼が孫娘と共に帰るのは当然である。
この急ぎ戻った二人と、シノブとアミィは伯爵の執務室で再会した。
もっとも事態が事態だけに、交わした言葉は僅かだ。シャルロットとアンリはシノブ達に礼を伝えるときこそ笑顔を見せたが、以降は沈痛と表現すべき面持ちである。
「あ奴の企みだったとはな……」
アンリの力強く威厳のある声、歴戦の将に相応しい雷鳴のような声音も、今は曇っている。軍人らしく高身長でがっしりとした先代伯爵の姿が、シノブには初めて会った時より小さく見えた。
「マクシム殿は感情的なところもあったが、暗殺など仕掛けるような方には思えなかった……欠点はあれど武人としての誇りは持っているとばかり……」
首を振ったシャルロットが、祖父に続き嘆く。
大至急の帰還故だろう、シャルロットは先日同様の騎士鎧姿であった。そのため彼女の動きに合わせ、白銀の鎧と白地に金の縁取りのマントが光を放つ。
「マクシムは取り調べ中だ。いずれ暗殺の首謀者として公表するが、現在は家臣にも箝口令を敷いている。まだ詳しい動機や背景も判っていないからね。
一応、彼の公邸を捜索して手がかりらしきものは掴めたが……。今から言うことは、当面は内密にしてほしい」
ベルレアン伯爵は集った者達に鋭い視線を順に向ける。
広い執務室にいるのは極めて僅かだ。コルネーユ、アンリ、シャルロットのベルレアン伯爵家の三人を除くと、家令のジェルヴェ、そしてシノブとアミィだけである。
「マクシムは多額の借金を抱えていた。
シノブ殿達との調査でジェルヴェが集めた情報には無かったが、王都の商人と交わした借用書が部屋から幾つも見つかったよ。借金を返すために跡取りの確定を急いだのかな」
伯爵は不愉快そうな表情で集った五人に告げた。特に最後の跡取りに関して触れたときなど、柔らかな言葉や口調では覆い隠せないほどの怒りが滲んでいた。
「私が結婚しないから、排除してミュリエルの婿に、ということですか?」
シャルロットの顔にも憤りが浮かんだ。しかし彼女は自身の感情を抑えることに成功したらしく、区切るような口調で疑問の解消へと移る。
「あ奴は、シャルロットに勝つべく剣の修行に励んでいたのにな……最近でもたまには儂に教えを乞いに来たが……。
シノブ殿。奴の祖父、つまり儂の弟は立派な武人でな。残念ながら二十年前のベーリンゲン帝国との戦いで命を落としたが……弟に似て武芸の見込みはあったから、儂も可愛がってやったのに……」
先代伯爵は弟のこともあり、マクシムを鍛え後見もしていたようだ。過去を振り返るような彼の言葉からは、早くに亡くした身内への愛情が溢れていた。
「父上はマクシムに期待していましたね。私も子爵の嫡男だからと王都への用事を任せましたが、それが仇となったのかもしれません。
……シャルロット。おそらくお前の言うとおりだろうが、気に病むことはない。武技に秀でたお前が、婿に相応の実力を求めるのは当然だ。そもそもミュリエルなら、と思うような浅ましい男に爵位を譲るわけにはいかないよ」
伯爵は、自身の父と娘に慰めるような言葉を送った。
アンリとシャルロットは無言のままだった。しかし二人はコルネーユの気遣いを感じたのだろう、表情から僅かに険が取れた。
「……とにかく処刑するにしても動機がはっきりしているほうが良い。尋問を続け、なんとか自白させるつもりだよ。
シノブ殿達が華麗に解決してくれたんだ、私達も後始末くらいはね」
自分に言い聞かせるような調子の伯爵だったが、最後はシノブとアミィに向かって微笑んだ。どうやら彼は、繰り言はここまで、と気持ちを切り替えたらしい。
「調査しましたが結局最後は罠に陥れたわけで、華麗どころか汚い手ですよ」
シノブは敢えて大袈裟に肩を竦めつつ応じた。雰囲気を変えたいという伯爵の気持ちを、シノブは察したのだ。
もちろん賞賛が気恥ずかしいという思いもあったが、シノブが伯爵家の三人の憂いを晴らしたかったのも事実である。
「何を言うか! 見事な策だったと聞いているぞ!」
先代伯爵は目を見開き、破顔する。彼も息子やシノブが作った流れに乗り、不快な出来事を押しやろうとしたようだ。
「そうだぞ。決定的な手がかりが無い以上、果断な措置は当然だ」
シャルロットも深々と頷き、先代伯爵の言葉に同意した。
武人であるシャルロットやアンリからすれば、騙し討ちも立派な策略ということかもしれない。それに伯爵や家令のジェルヴェも、罠に何の反対もしなかった。科学的な捜査が発達していない社会だから、おとり捜査に忌避感がないのかも、とシノブは想像する。
それはともかくシャルロットには凛々しい振る舞いや発言が目立つ。きっと女の身で伯爵継嗣として立つのは相当に大変なのだろう、とシノブは密かに同情を寄せる。
「ともかく事件も一応の終わりをみた。そこで今夜はシノブ殿達に感謝の意を奉げたい。内々に祝宴を開くから、ぜひともご出席いただきたい」
やはり一族の不始末に重くなりがちな雰囲気を変えたいのだろう、伯爵は先刻までとは打って変わっての明るい口調で、シノブとアミィに晩餐会への出席を要請する。
もちろん、シノブに断る理由はない。事件の解決に大きく関与したのは事実だし、伯爵やジェルヴェとは随分と打ち解けた。そのためシノブは間を置かずに、承諾の意を示した。
◆ ◆ ◆ ◆
「シャルロット様……」
シノブは予想もしなかった事態に声を失った。
初日、晩餐が開かれた迎賓用の大広間。百人以上を収容できそうな大広間は相変わらず壮麗であったが、その光景はシノブの目に映っていなかった。
「うっ、やはり似合っていなかっただろうか? 申し訳ないがドレスを着るのも久しぶりなのでな……」
頬を染めたシャルロットは、自分の着ている服に目を向ける。彼女は口にした通り、華やかなドレスを纏っていたのだ。
「いえ、あまりに美しいので、我を忘れてしまって……」
シノブは、思わず本心からの言葉を返してしまう。
思えばシノブは今まで、鎧姿のシャルロットしか見ていなかった。出会ったときは全身鎧で顔も見えないまま。治療の時は鎧を外したが、顔以外は分厚い鎧下で覆われていた。そのためスタイルが良いのは見て取れたが、武骨な印象が強かった。
そして、以降のシャルロットは兜だけ外した騎士鎧だ。シノブが彼女の女性らしい姿を見るのは初めてである。
本人の雰囲気も、まるで違う。武張った口調もあり女性らしさを表に出さないシャルロットも、ドレス姿となると印象が激変していた。
ワインレッドの艶のあるドレスは鮮やかで、背が高めで姿勢の良いシャルロットに似合っている。飾りの少ないドレスだが、彼女の美しさを引き立てるには、むしろ適切であろう。
元々非常に整った容貌の佳人だから、飾り立てたドレスよりもすっきりしたデザインの方が彼女自身の魅力を引き出していた。
騎士姿のときは結い上げていたプラチナブロンドも解かれ、緩いウェーブを描いてドレスに掛かっている。まるで、真紅の薔薇を飾りたてる白金の絹糸のようだ。
『ベルレアンの戦乙女』と呼ばれている女騎士も、武具を外しドレスを身に纏えば、モデルのようなスタイルの美しい淑女である。
戦乙女から令嬢へ。あまりの変わりように、しばしシノブは見惚れていた。
「ほほう、我が娘のドレス姿も大したものではないか。たまにはこうやって見せてくれると嬉しいのだがね。砦に行ってから、碌に館に寄り付きもしないし……」
歩み寄ってきたベルレアン伯爵は、シャルロットに冷やかすような言葉を掛けた。もっとも伯爵の顔には優しい笑みが湛えられており、彼の真意が別にあるのは明らかであった。
「ち、父上!」
シャルロットは美しい顔に血を上らせた。それに色の薄い彼女の肌は、顔以外も真っ赤に染まっている。
よほどの羞恥を覚えたのか、シャルロットは反論もせずに押し黙ったままだ。それに彼女は今更ながら自身の衣装が気になったようで、僅かな間だがドレスに視線を走らせていた。
「うむ。稀なる武術の才を感じて幼いころから鍛えたが、軍務のみに邁進させたのは間違いだったか。……もっとこういう場に顔を出させるべきだな。こうしてみるとカトリーヌ殿に似た貴婦人ぶりではないか」
先代伯爵アンリも、感心した様子を隠さない。
一見するとシャルロットは穏やかな印象のカトリーヌとは対照的だが、そこは母娘。青い瞳とプラチナブロンドに彩られた容貌は、瓜二つであった。
しかも色やデザインは違うとはいえ、同じドレス姿となったのだから、更に相似が強調される。
「お爺様まで……」
ますますシャルロットは赤くなり、ついには俯いてしまう。それまでの舞台女優のように凛としていた立ち姿が、嘘のようだ。
「あなた、お義父様、そんなにからかっては逆効果ですよ。
……でもシャルロット。たまには帰ってこういう姿を見せてくれると、私も嬉しいですよ」
カトリーヌは夫と義父に苦言を呈したものの、内心では二人の意見に賛成しているようだ。彼女もシャルロットの着飾った姿を見るのは久しぶりらしく、娘の華やかなドレス姿に微笑んでいた。
◆ ◆ ◆ ◆
宴席にはシノブとアミィ、ベルレアン伯爵家の面々に加え、アリエルとミレーユ、家令のジェルヴェが着いた。おそらく身内と事件の関係者ということだろう。
前回同様に、上座には伯爵と彼の第一夫人のカトリーヌに並んでシノブ達が座る。
この前と違うのは、アミィの側に先代伯爵アンリとシャルロットが入って伯爵の第二夫人ブリジットと彼女の娘ミュリエルと続いていること。そしてカトリーヌの側にはシメオン達ではなく、アリエル、ミレーユ、ジェルヴェと並んでいることだ。
「シノブ殿達のお陰で、シャルロットに対する陰謀は潰え、危機は去った。……お前達にも心配をかけたが、まずはこの慶事を喜ぼうではないか」
伯爵は、柔らかな声音で列席する者達に語りかけた。語る内容は穏やかとは言い難いが、落ち着いた語りと優しげな笑顔が言葉どおり全てが良くなったと告げているかのようだ。
「シノブ殿、アミィ殿。改めて礼を言うよ。ありがとう」
伯爵に合わせて、一同はシノブ達に頭を下げた。そして祝宴では、それ以上事件について触れられることはなかった。
カトリーヌにブリジット、そしてミュリエルは、先にある程度説明を受けていたのだろう。『陰謀』とは何のことか三人が問うこともない。
アリエルとミレーユも、静かな笑みを浮かべているだけだ。おそらく二人は、配下が口を挟むことではないと思ったのだろう。
そのためか、話題はシノブ達の今後についてが中心となっていった。
「シノブ様、このままずっと館にいてください! もっとお国の話も聞きたいですし、シノブ様がいてくだされば、とっても心強いです!
シャルロットお姉さまも全然帰ってきてくれないし……」
ミュリエルが父親似の緑の瞳をキラキラとさせ、シノブへと熱心に頼み込む。
シャルロットは成人前から軍務に就き、ヴァルゲン砦の司令官となったのも早かった。そして彼女は砦に赴任してからは帰還することも稀らしい。
そのためミュリエルが姉とゆっくり会えるのは、年に数度も無いという。まだ九歳の少女が寂しく思うのも当然だろうと、シノブも同情めいた思いを抱く。
「ミュリエル!」
妹の言葉に、シャルロットは慌てた様子で声を上げた。
そして真紅のドレスを纏った麗人は気恥ずかしげな様子となり、僅かにシノブへと視線を向ける。彼女は妹の暴露をシノブがどう受け取ったかが気になったらしい。
「あら、あなたはシノブ様達に早く出ていってほしいのですか?」
カトリーヌが冗談めいた口調で娘に笑いかける。
娘の年齢相応の姿に、カトリーヌは非常な喜びを感じているのだろう。シャルロットの本心を引き出すような言葉と表情は、続いての一幕を待ち望むかのように楽しげである。
「それは……私もずっと逗留いただければと思っています……。まだ、私自身は何のお礼もできていませんし……」
シャルロットは口ごもりつつも、自身を見つめる母に答えた。
うっすらと上気した顔からすると、シャルロットは恥じらいを感じているようだ。しかし彼女は母に己を偽りたくないのだろうか。紡ぐ言葉は明確にシノブの滞在を望むものであった。
「差し出がましいことを言うようですが、私もシノブ様達にご逗留いただきたく思います。シャルロット様と共にミュリエルも救っていただいたわけですし……」
第二夫人のブリジットも控えめながら後に続く。
シャルロットに何かあればミュリエルが立つことになる。それが陰謀によるもので仕掛けた相手に娘を盗まれるなど、ブリジットとしても願い下げだろう。
「とりたてて行く当てもないので、しばらくは留まりたいと思っていますが……」
熱心な誘いを無下にもできず、シノブは承諾する。
実際、他の地など知識すら碌に持っていない。よほど居づらいならともかく、この状況で辞去する理由は無かった。
「それは嬉しいね。何しろ我が家は見ての通り女ばかりでね。数少ない男としてはなかなか肩身が狭いものだよ」
伯爵も微笑みをシノブに向ける。どうやら彼は女性達の言葉に乗じ、シノブに伝えたいことがあるらしい。おどけたような仕草をしつつも、瞳の奥には他の感情も宿っているようだ。
「ふん、それはお前の不徳の為すところではないか? 儂はお前と言う息子を得たし、父上は三人の男子を授かった幸運の持ち主であったぞ」
先代伯爵は、伯爵に皮肉を言う。捻くれた愛情表現なのかもしれないが、相変わらず伯爵には辛い表現を用いる老人である。
一般に貴族の子供はできにくく、更に女子に比べ男子は少ない。それは広く知られるところで、この微妙な話にシャルロットを始めとする一同も何と言うべきか判らない様子であった。
◆ ◆ ◆ ◆
「……そうです! シノブ様が私達のお兄さまになってくだされば良いのです!」
場の雰囲気を変えるかのように、ミュリエルが唐突な提案をする。一心にシノブを見つめる少女は、それさえ叶えば全てが解決すると言わんばかりの笑みを浮かべている。
一方のシノブだが、思わぬ言葉に何と答えるべきかと困惑した。何しろ相手は伯爵令嬢だ。兄になると軽々しく言えるわけはない。
「ご迷惑ですか? シノブ様?」
押し黙るシノブに、ミュリエルは上目づかいで言葉を継ぐ。自分の言葉がシノブの気に障ったと思ったのか、少女は心配げな表情となっていた。
銀髪に近いアッシュブロンドの、人形のように可愛らしい少女の懇願。言葉どおりの了承は無いとしても素気無く断るのは、とシノブも思ってしまう。しかしシノブは、気の利いた返しを思いつかないままだ。
「……流石に兄と呼ばれるわけにはいかないでしょう」
迷った挙句、シノブは思ったままを言葉にする。内容が内容だけに、軽口で済ますわけにはいかないとシノブは考えたのだ。
「ダメですか……」
なんだかミュリエルは泣きそうな感じである。そして寂しげな少女の姿を目にしたシノブは、何か掛ける言葉が無いかと探してしまう。
「正式な場でなければ良いと思うがね。小さい子が兄と慕うのは、よくあることだよ」
伯爵も娘に助け舟をと思ったのだろう。彼はシノブに笑いかけながら内々でと提案する。
「ありがとうございます、お父さま! シノブお兄さま、よろしくお願いします!」
一転して笑顔になるミュリエルに、シノブも再度断ることはできなかった。シノブは銀髪の少女に大きな首肯で承諾を示した。
「ミュリエル、よかったですね」
「はい、カトリーヌお母さま!」
カトリーヌが優しく微笑むと、ミュリエルは幸せ一杯といった表情で応えた。
そしてミュリエルの様子を、先代伯爵アンリが好々爺というべき穏やかな顔で眺めていた。どうやら彼は、自身の発言から思わぬ方向に転がったのを気にしていたらしい。息子には厳しい老武人も、孫娘が相手だと随分と勝手が違うようだ。
「良かったね、ミュリエル。……シャルロット、お前も兄と呼ばせてもらったらどうかね。シノブ殿は一つ年上だよ」
伯爵は次女を祝福した後、長女に悪戯っぽい口調で語りかけた。そして彼は、跡取りである娘を静かに見つめ続ける。
「な、何をおっしゃるのですか! 九歳のミュリエルはともかく、私は……」
つい先刻までのシャルロットは妹に慈しみの滲む顔を向けていた。
おそらくシャルロットの瞳には、喜ぶ妹しか映っていなかったのだろう。そのため彼女は自分に矛先が向くと思っていなかったに違いない、動揺も顕わに父へと振り向く。
「シャルロット様には頼れる男性が必要です。とはいえシノブ様を兄と呼ぶわけにもいかないでしょう」
アリエルが冗談のようなことを言う。
それを見たシノブは、少々意外に感じる。セリュジエールへの道中で見たアリエルは、副官らしく謙虚かつ知的な女性だったからだ。
「そ、そうです! アリエルの言うとおり、成人して軍務に就いている私が『お兄さま』などと呼べるわけがありません!
……それとアリエル! 私は一人前の軍人だ! そうそう人に頼って良いわけがないだろう!」
シャルロットは狼狽しながらも、父親と腹心に言葉を返す。そして彼女の慌てぶりが意外だったからだろう、広間を楽しげな笑い声が満たす。
「シノブ様、シャルロット様はああ言っていますけど、これからもよろしくお願いしますね! アミィさんもね!」
ミレーユまで軽口めいた発言をする。どうやら彼女は、先輩であるアリエルの尻馬に乗ったようだ。
「はい、ミレーユさん!」
外見年齢が近いアミィとミレーユは、偽伝令の姿を再現したとき既に意気投合していた。今も長年の友人同士のように、アミィもニコニコと微笑み気安げに応じていた。
◆ ◆ ◆ ◆
和やかな祝宴にも終わりの時は来る。心温まる談話と会食にシノブは名残惜しさを感じつつも、アミィと共に逗留中の客室へと戻る。
「この前の晩餐と違って雰囲気は良かったけど、ああも持ち上げられると困ったね」
部屋に入ったシノブは、自身の感じたことをアミィに伝えてみる。気持ちの良い場だったが、賞賛の嵐については勘弁してほしいと思っていたのだ。
「そうですね~。私もミュリエル様に『魔術を教えてください!』って言われちゃいましたし」
アミィも困惑気味らしい。シノブを見上げる彼女は、どこか似たような表情をしていた。
「アミィは俺にも魔術を教えてくれたし、適任だと思うよ。ミュリエル様……いやミュリエルは、魔力量が多いらしいし」
あの後、ミュリエルは様付けはやめてもらえないかとシノブに訴えた。妹に『様』を付ける兄はいない、というのが彼女の主張だ。
戸惑いを感じた一幕を思い出したシノブだが、アミィが教師役として最適だという言葉に偽りは無い。そのためシノブは表情を引き締め、勇気付けるように頷いてみせる。
「はい。確かに伯爵のご家族では、一番多いと思います。年齢的にも、そろそろ魔術を覚えて良いかもしれません」
あまり小さい時から魔術を覚えようとしても、魔術理論が理解できなかったり幼さ故に暴発させてしまったりと問題が多い。
そのため十歳前後から教えることが多い、とアミィは言う。
「長逗留することになったし、そのうち教える機会もあるんじゃないかな。アミィに教えてもらえば、きっとすぐ上手くなるさ」
シノブはアミィに向けて微笑んだ。
自身もアミィの教えで様々な技を会得した。それ以前に、ここまで来たのは彼女の導きあってのことだ。そのアミィが指導するなら、ミュリエルも劇的な進歩を遂げるに違いない。
それはシノブにとって、火を見るより明らかな事実であった。
「はい! 私、頑張りますね!」
輝く表情で、アミィは純粋な喜びを表す。
アミィを歓喜に導いたのは、賞賛だけではない。言葉に篭められたシノブの大きな信頼を、彼女は感じ取ったのだろう。そして誰のものよりも、シノブからの信頼が彼女にとって嬉しいことなのだろう。
それを示すかのように愛らしい少女の頭上では狐耳が元気よく動き、背後ではフサフサした尻尾が大きく揺れている。
「まあ、あの魔力操作の訓練は、ミュリエルにはやめた方が良いかもね。貴族のお嬢様に軍隊調は似合わないんじゃないかな」
自身の信頼に勝る強い思いを返されたシノブは、少しばかり照れくさく感じた。そこでシノブは、冗談に紛れさせようとしてみる。
「あ、確かに……ミュリエル様にはもっとソフトに行くことにします」
アミィは森での出来事、自身の熱血指導を思い出したらしい。彼女は頬を赤く染め、恥ずかしげな声音で応じる。
どんな指導をミュリエルが受けるか、それはシノブには判らない。しかしシノブは、そこから更なる交流が生まれるだろうと期待を抱く。
自分達は新たな道へと歩み出す。初めての街での大事件には驚いたが、それは信頼に足る人々との出会いを齎し、自分達をこの世界に招き入れてくれたようでもある。
ならば恐れず堂々と進もう。可愛らしい導き手と、心を交わした人々と。そのためには更に多くに触れ、学ぶべきだ。
シノブはアミィと共に微笑みながら、明日から広がる探求と触れ合いの日々に胸を弾ませていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回から第3章になります。
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