00.02 ええっ、女神様!?
忍の目の前には光り輝く女性が立っていた。いや、立っていた、というのは正確ではない。その女性は地面から僅か上に浮かんでいたのだ。
透き通るような白い肌。極上の金糸のような髪は、緩やかにウェーブを描きながら流れている。
エメラルドのように神秘的に煌めく瞳にすらりとした鼻梁、上品さを醸し出す薄く色づきの良い唇。穏やかな微笑を浮かべる清楚な美貌からは、優しさだけではなく侵しがたい気品と高い知性が感じられる。
ゆったりとした白く光り輝く長衣を身に纏った姿は、静謐かつ優美であり、ギリシャ神話の女神を彷彿とさせた。
彼女は宙に浮いているため、一見すると忍より背が高いように見えた。だが、実際には忍よりは小柄なようだ。忍が身長175cmだから、160cm台後半といったところであろうか。
忍はしばらくの間、目の前の幻想的な情景に目を奪われ、呆然と立ち尽くしていた。
「希望を捨ててはいけませんよ」
固まったままの忍に、光り輝く女性が美しい声で優しく語りかける。そのお陰か、彼はようやく正気に戻った。
「あの……貴女は……」
忍は漠然とした問い掛けをした。
どこから現れたのか。入り口が塞がれた洞窟の、しかも最奥に。光っているのは。浮かんでいるように見えるのは。忍は何から訊くべきか迷った結果、女性が如何なる存在か訊ねることにしたのだ。
「私は女神アムテリアと申します」
「……女神様?」
「はい。こことは異なる世界に存在する、ある惑星の監理をしています」
現実離れした内容であるが、忍は何故かすんなりと納得してしまった。
誰が見ても女神と言うに違いない容姿であるが、忍が納得したのは外見からではなく、アムテリアが漂わせる雰囲気、オーラとでもいうべき何かを感じたからであった。
(こんなに神々しい方を前にしたら信じるしかないよね……)
そう忍が考えると、アムテリアはにっこりと微笑んだ。それまでも優しげであった彼女だが、どこか親しみの滲む微笑みは、息子を見る母親のようでもある。
「ご理解いただけたようですね」
考えを読まれた。そう悟った忍が絶句すると、更にアムテリアは言葉を続けていく。
「貴方は私の神域に迷い込んでしまったのです」
「えっ、神域!?」
あまりのことに、忍はオウム返しに言葉を返してしまった。アムテリアの柔和な表情と穏やかな言葉が、忍の緊張を取り去ってくれたのかもしれない。
「実は、ここは私がこの地の神であったときに定めた神域なのです。貴方が迷い込んだ森には人払いの結界が施されており、何人たりとも入ることはできないはずでした。
しかし貴方は私がこの地に残した血を非常に強く受け継いでいます。そのため私の神域に入ることができたのです」
「結界って……それでは途中から凄い巨木ばかりになったのは……」
結界という言葉に、忍は洞窟までの道を思い出していた。
道に迷ってから、それまでとは違う畏れすら感じる神木というべき木々ばかりとなった。おそらく、そこからがアムテリアの神域に違いないと忍は思い至ったのだ。
「そうです。そこから私の神域だったのです。私を含む地球の神々は遥か昔にここでの役目を終え、それぞれが新たな道へと進みました。
この世界の別の惑星に行き、そこの生物を育て知的生命体へと導いているものもいます。私のように別の世界に旅立ったものもいます。
皆、地球を離れ新たな役目に就いているのです」
忍は女神の説明に疑問を感じた。地球を去ったなら、どうして神域が残っているのだろうか。
「私達は、地球にいたときに特に縁のあった場所をそれぞれの神域として残しました。そして、ときおり神域を通して地球を眺め、自分が育て守護してきたものを懐かしんでいるのです。
私の場合、ここを含む二つ三つの場所を神域としています」
「アムテリア様、私はここから出ることはできないのでしょうか? このままここで死ぬしかないのでしょうか!?」
アムテリアの優しく理知的な様子に緊張が解れたのか、忍は現在の苦境を何とかできないかと藁にも縋る思いで問いかけた。
「死なずに済む方法はあります」
「そ、それは!?」
忍はアムテリアの言葉に歓喜し思わず相好を崩した。しかし彼は、続く言葉を聞き愕然とした。
「私の管理する惑星に来ていただき、そちらで生き続けることなら可能です」
◆ ◆ ◆ ◆
それからしばらく忍はアムテリアの説明を聞いた。
アムテリアは異世界に存在する地球と極めて似通った惑星の最高神であること。異世界に行ってからアムテリアが生み出した従属神と共に、その惑星を管理し生物を誕生させたこと。
その世界には地球のある世界とは異なり、魔力が存在すること。そのため通常の動物とは異なり魔力を使う魔獣が存在するが、人類も魔力を使うことができること。
人類には地球人に近い人族の他に、幾つかの種族が存在すること。地球に比べると文明は発達していないが、魔力を使うことで地球以上に進んでいる分野もあること。
忍は異世界への移動に伴い、向こうの人類同様に魔力を使えるよう肉体を作り変えて送り込まれること。異世界に行った後もこちらの記憶を保ったままであり、習い覚えた知識を活用できること。
もう、この世界には帰れないこと。
「もう戻れないのですか……」
忍は顔面蒼白となり言葉を失った。もちろん、ここで死にたくはない。しかし、これまでの人生との決別は忍に大きな衝撃を与えたのだ。
「残念ですが、こちらの世界に大きく干渉することは、私には許されていません。
この神域に人を近づけないための軽度の精神操作はできますが、この世界の物質に大幅に干渉したり別の場所に転移させたりすることは許されていないのです」
アムテリアは、済まなそうな顔で忍に告げた。彼女は忍の心が読めるから、彼の並々ならぬ驚愕や動揺も感じ取ったに違いない。
「つまり出口を塞ぐ岩をどかしたり、私を外に出したりはできないってことですね……」
「はい、申し訳ありませんがそうなります。私のいる世界に転移させることは可能ですが……。
その代わり、転移先では貴方が当面の生活に困らないよう、ある程度の支援はさせていただきます」
よほど忍を哀れんだのだろう、アムテリアの美貌には今までに増して憂いが滲む。しかし彼女は、沈んだ気持ちを振り切るように、強い意志を宿した声音で忍に語り掛ける。
「えっ、とっても助かりますが、そんなことをして良いのですか?」
忍は思わぬ申し出に聞き返してしまうが、アムテリアはにっこり笑って説明する。
「私の管理する惑星であれば、多少の介入は問題ありません。それに転移をお勧めするのは、私自身のためでもあるのです。
貴方がこのまま神域の中心であるここで亡くなった場合、神域を放棄しなくてはなりません。貴方の心残りがここに残って神域を穢してしまうからです」
「怨霊みたいなものですか……」
忍はアムテリアの告げる内容に衝撃を受けた。この暗くて狭い洞窟に死後も縛られるなど、忍にとって想像したくもないことであった。
「そうです。仮に異世界に移ったとしても、貴方があまりに早く亡くなった場合は、地球との縁が強すぎてここに帰ってきてしまいます。
どちらの場合でも、貴方の心残りは永遠にこの地に縛られたままでしょう」
「それで当面は生きていけるようにしてくださる、と」
アムテリアの懇切丁寧な説明に、忍は彼女が自身の世界にと勧め支援まで申し出る理由を理解した。確かに彼女の提案は、両者にとって最善の道であろう。
「はい。ですから、どうか私のいる世界に来ていただけませんか?」
◆ ◆ ◆ ◆
忍はアムテリアの提案を受け入れることにした。
家族や友人に会えないのは嫌だが、このまま洞窟に閉じ込められ酸欠か飢えで死ぬのはもっと嫌だ。挙句の果てに洞窟の中で寂しく地縛霊になってしまうなんてゾッとする。
アムテリアの優しげな様子を見ていると、彼女の守護する惑星で生きるのも悪いこととは思えない。少なくともこのまま死ぬよりは何倍もマシだろう。
「それではお願いします」
忍は覚悟を決め、申し出を受けると決然たる声で告げた。
不安もあるし心残りもあるが、忍は表に出したくなかった。やせ我慢だと思うが、常々祖父が口にしていた言葉を思い出したのだ。
男子たるもの常に前向きに生きろ。後悔する暇があったら未来を見つめるのだ。儂らは武士の末裔、その誇りを忘れるな。
このように教えてくれた祖父なら、命あるだけでも感謝すべきと言うに違いない。そう思い浮かべ、忍は心の揺れを押さえつけた。
「転移先は安全な場所ですので、しばらくはそこで生活できます。惑星の中でも比較的進んだ文明を持ち、争いも少ない地域ですから。
とはいえ日本と比べれば危険なので、充分に注意してください。現在の日本は地球上でも特に安全な国の一つです……こちらの常識に囚われない方が良いですよ」
アムテリアは、忍に転移後の注意まで与えてくれる。やはり向こうは日本とは大きく異なる場所なのだろう、彼女は僅かに案ずるような顔となっていた。
「ご忠告ありがとうございます」
「貴方は私の血を強く引き継いでいますから、私の加護を強く受けています。
こちらでは私の影響力がないため、加護があっても何の効果もありません。それに対し向こうは私の影響力が強いので、加護により大きな力を持つことになります。魔力などもかなり大きくなるので生きていくのに不自由しないと思いますが、過信はしないでくださいね」
アムテリアの言葉は忍にとって大変ありがたい。しかし忍は、少しばかりくどいなぁ、と感じてしまう。すると彼の心を読んだのか、アムテリアは微かな笑みを浮かべ口を噤んだ。
「それでは転移を始めます」
それまでも光を纏っていたアムテリアだが、一層強い光に包まれた。そのため忍は、思わず目を閉じてしまう。
(父さん、母さん、絵美。もう会えないけど、俺は別の世界で生きていくよ。だからあまり悲しまないでほしいな……)
優しい両親や仲の良い妹に、忍は別れの言葉くらい言いたかった。でも、家族にはもう会えないのだ。
両親や妹に伝わることはないと理解しているが、それでも忍は目を瞑ったまま心の中で別れを告げる。万が一、奇跡が起こって家族に届くことを願い、強く強く思いを込めながら。
──我が一族に連なりしものに幸あれ──
アムテリアの祈りに似た思念が届いた瞬間、忍は意識を失った。
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