10.22 ガルックは今日も雪だった 前編
「おはよう、シャルロット」
シノブは、隣で休んでいるシャルロットに声をかけた。少し前に起きた彼は、愛妻の寝顔を穏やかな笑みと共に見守っていたのだ。
繊細なプラチナブロンドに彩られたシャルロットの容貌は、就寝中であってもその美しさを欠片たりとも失っていない。それどころか幸せそうな微笑みを浮かべた彼女は、共に暮らすシノブであっても思わず見惚れてしまう麗しさであった。
「……シノブ、お早うございます」
シノブの言葉に、シャルロットは目を覚ました。
武人らしく、周囲の気配には聡い彼女である。シノブの囁くような小声でもシャルロットは目覚め、その深く澄んだ湖のような青い瞳をシノブへと向ける。シノブが先に起きていたのを気にしたのか、白く滑らかな相貌には少々恥ずかしげな表情が浮かんでいた。
シノブは結婚の直後、自分が先に起きても気にしなくて良いと妻に伝えた。しかしシャルロットとしては、そうもいかないようだ。
武術に邁進したシャルロットだが伯爵家の令嬢でもあり、母のカトリーヌから理想の貴婦人像も教わっていた。そして教えの一つに、この件も入っていたのだ。
そんなこともあってシノブは先に起きたとき、あまり間をおかず言葉をかけることにしていた。愛する妻の幸せな眠りを妨げるのは本意ではないが、それが彼女の願いであればと割り切ったのだ。
「結婚して一月経ちましたね。貴方の妻となれて幸せです」
「俺も幸せだ。愛してるよ、シャルロット……」
身を起こしたシャルロットは、僅かに乱れた髪を直しながら陶然とした面持ちでシノブへと囁いた。そして、同じく上体を起こしたシノブは、彼女を抱きしめ優しくキスをする。
今日は、創世暦1001年2月8日だ。1月7日に王都メリエで結婚式を挙げた彼らだから、結婚して一ヶ月が過ぎたわけである。そのため、まだ新婚というべき二人の朝の挨拶は、互いの愛情を表すかのように深く情熱的なものであった。
普段は軍人として、そして領主の妻として己を律しているシャルロットも、夫と二人だけの時間は別である。彼女は、人前では甘えた姿を見せることが出来ない分を取り戻そうかというように、子供のように体を預けて至福の表情で顔を寄せている。
もちろんシノブも、そんないじらしい伴侶に自身の気持ちを伝えるべく、柔らかく芳しい妻の体を抱きしめると、彼女の求めに応じていった。
「しかし、一ヶ月目がこんな日になるとはね……本当なら、ゆっくりしたかったところだけど」
メリエンヌ王国では、結婚一ヶ月を祝う行事などはないらしい。とはいえ、起きぬけのシャルロットが口にするくらいだ。やはり、女性としてはそういったことを大切にするのだろうか。そう思ったシノブは、妻に気遣うような視線を向けていた。
「仕方ありません。帝国に囚われている人達を助け出すのは、大切なことですから」
シノブの内心を察したのか、シャルロットは温かな笑みを浮かべながら答えを返す。今日は、ベーリンゲン帝国へと侵入して救出作戦を実行する日である。今日から三日かけて帝国の村々を回り、そこにいる獣人達を救い出す予定となっている。
既に、実行部隊を率いるアルノー・ラヴランは帝国との国境を守るガルック砦に、部下達と共に移動済みである。このあとシノブとアミィは、魔法の家でガルック砦に移動するのだ。
「それに、もうすぐ貴方の誕生日です。作戦の成功と合わせて盛大に祝います。ですから、無事にお帰りください」
シャルロットは、六日後のシノブの誕生日に触れた。
特別巡見使として滞在中の王女セレスティーヌも参加する祝宴には、シャルロットの両親であるベルレアン伯爵やカトリーヌも招いている。そのためか、彼女はとても嬉しげな表情をみせていた。
「ああ……期待しているよ。大勢の人を助け出してくるから、受け入れをよろしくね。多すぎて予算が足りなくなるかもしれないけど」
シノブも、再びシャルロットを強く抱きしめながら、冗談交じりの言葉を返した。彼の役目は『隷属の首輪』を無効化するだけだ。それに、自分自身やアミィの能力なら失敗はないだろう。そんな思いからか、彼は戦地に赴く朝だというのに、全く緊張はしていなかった。
「はい……お待ちしております……」
しかし、シャルロットの声は僅かに湿りがちである。夫が最高神アムテリアの強い加護を持つと知っていても、それでも案じてしまうのだろう。彼女はシノブの胸に顔を伏せながら、彼と同じくらいの強さでその抱擁に応えていた。
◆ ◆ ◆ ◆
食事を済ませたシノブ達は、館の庭へと移動した。
朝日に照らされる伯爵家の館の庭は、まだ空気も冷たく吐く息も白い。だが、そこには大勢の使用人達や武官達が集まっていた。それに、揃いの制服を着た彼らが立ち並ぶ中には、シメオンを始めとする文官も、僅かながら混じっている。
たぶん、領都シェロノワを動かす家臣達のうち、主だった者は全て集まったのではないだろうか。
館に勤務する者からは、ジェルヴェや衛兵隊長のジュスト、侍従のヴィル・ルジェールなどだ。彼らの後ろには、従者見習いの少年達パトリックやレナン、そしてルジェールの息子のロジェなども並んでいる。
もちろん、女性の使用人達も集まっている。ジェルヴェの妻で侍女長のロジーヌの背後には、リゼットやソニア、アンナとその母ロザリーなどの侍女が整列していた。
武官達の多くは見送りであるが、一部の者は砦まで同行する。
シノブに付き従いガルック砦に赴く第三席司令官のマティアスや、見送りの領都守護隊司令ジオノや領都守護隊本部隊長のラシュレー大隊長などを先頭に、多くの武官がシノブ達を待っていた。
そして、内政官はシメオンにミュリエルの祖母で農務長官のアルメル達だ。彼らも、次官や副官などを数名連れて来ている。
「シノブお兄さま、アミィさん、気をつけてくださいね!」
「アミィお姉ちゃん、頑張ってね!」
そんな中、ミュリエルとミシェルは、シノブとアミィに笑顔と共に言葉をかけた。
「ああ。三日後には戻ってくるから、心配しないでね」
「ミシェルちゃんも、元気にしているんですよ」
シノブはミュリエルの肩に手を置き、そしてアミィは抱きつくミシェルの頭を撫でながら、それぞれ微笑みを返す。
今日のシノブとアミィは軍装である。伯爵であるシノブは飾り緒のついた豪奢な軍服に、白地に金の縁取りのマントを身に着けている。そしてアミィも最近誂えた同じような軍服、ただし貴族ではないから黒地に金の縁取りのマントである。
士官のマントの色は領軍ごとに異なり地は各伯爵家の象徴色、大隊長から上は更に金の縁取りが許される。つまりアミィの装いは、フライユ伯爵家の大隊長以上だと示している。
身長180cmを超えるシノブはともかく、外見は10歳程度の少女であるアミィの軍装は、子供が軍人の真似をしているように見えなくもない。だが、ここにいる者達は彼女の実力を熟知しており、侮るものなど存在しない。
「シメオン、受け入れのほうはよろしく頼む。アルメル殿もお願いします」
シノブは、ミュリエルからシメオン達へと視線を向けた。二人はシャルロットと共に受け入れの準備をしているのだ。
「はい。準備は整っています」
「北の高地には新規の開拓地を用意しています。充分に受け入れ可能です」
シメオンとアルメルは、シノブを安心させるように柔らかく頷いた。
戦時に救出した者の受け入れが一段落したかどうかというこの時期である。そのため、シノブは更なる増加については僅かに不安を感じていた。
「シノブ。救出した人達に希望を示すという貴方の方針は間違っていません」
シノブと同じく軍装に身を包んだシャルロットが、凛々しい表情で夫に言葉をかけた。起きぬけの様子とは異なり、多くの部下を持つ司令官としての言葉ではあるが、それでもシノブは彼女の優しさを感じ取り、僅かに相貌を緩ませた。
「そうです! 家族が囚われたままで楽しく暮らせる人なんていませんから!」
「シノブ様、後はお任せください。軍も受け入れの準備をしています」
シャルロットに付き従う二人の女騎士ミレーユとアリエルも、主に続いて口々に励ましの言葉をかける。
実際に、シャルロットは守護隊の、シメオンは内政官の増員で受け入れ先を用意していたし、アルメルは開拓を急がせてアマテール村の周囲に幾つかの土地を確保していた。したがって、将来はともかく今回は問題ないようである。
「ありがとう。頑張ってくるよ」
シノブは、三人の言葉に朗らかな表情で頷き返した。
助け出した後に問題が起きれば、そのとき皆で考えれば良い。頼もしい仲間や家臣達の姿に、彼はそう思いなおしたのだ。
「シノブ様、御武運をお祈りしております。
大神アムテリア様の御意思に叶う今回の作戦、必ず成功しますわ。ですから少しでも多くの人達を助け出してくださいませ」
最後にシノブに声をかけたのは、王女セレスティーヌである。彼女は王族らしい気品と共に、シノブの勝利を祈念した。
「ありがとうございます。では、行ってきます」
アミィが魔法の家を展開したのを見て取ったシノブは、出立を宣言した。
「戦地に赴く皆様に、大神アムテリア様の加護があらんことを!」
「大神アムテリア様の加護があらんことを!」
見送る面々の中で最も高位であるセレスティーヌが、代表してシノブ達へと神々の加護を祈念する。
そして、その言葉を受けて居並ぶ者達が唱和する。シノブやアミィ、そして随伴するマティアス達に対し、使用人や内政官は厳かな言葉の後に左胸に手をあて敬意を示し、武官達は抜剣礼をする。
そして、そんな彼らに見送られ、シノブ達は魔法の家へと入っていく。シャルロットやミュリエル達が見守る中、扉が静かに閉まると僅かな時を置いて魔法の家は掻き消えていた。
◆ ◆ ◆ ◆
「ガルック砦は寒いね」
「一面の雪ですからね。それに、今も降ってますし」
シノブの言葉にアミィが苦笑しながら答えた。彼女の言うとおり、窓の外は雪が降っている。吹雪というほどではないが、強い風に大きめの雪片が舞っており、遠くまで見通すことはできない。
「ホリィ、毎日大変だったね。ありがとう」
シノブは鎧掛けに止まったホリィの頭を優しく撫でた。いくらアムテリアの眷属である金鵄族といっても、こんな天気の中を毎日あちこち偵察するのは、さぞかし大変だっただろう。そうシノブは思ったのだ。
──とんでもございません! でも、お気遣いありがとうございます!──
頭を撫でられピィピィと気持ち良さそうに鳴いているホリィは、心の声でも喜びを伝えてくる。
「……それじゃ、会議を始めようか」
ひとしきり青い鷹ホリィと戯れていたシノブだが、部屋の中央へと向き直った。
ここはガルック砦の上層部にある会議室だ。防音のための厚い石壁に囲まれた会議室の真ん中には、樫の木で作った大きなテーブルがあり、軍人達が着席していた。
作戦は日が落ちてから開始されるが、今はまだ午前中で時間は充分にある。そのため軍人達は、最後の確認をするために集まったのだ。
「実行部隊の準備は万全です。
対象の村々の出身者に地図を作成させ、それを元に演習場で突入訓練を繰り返し、満足のいく水準まで仕上げました。今回の作戦対象は10箇所を予定していますが、どこであっても30分以内に制圧と救出を完了するでしょう」
実行部隊を率いる大隊長のアルノー・ラヴランが、席に着いたシノブの視線を受けて発言をした。シノブとアミィが並んで着いた席の右手には、アルノーと、その配下の獣人の兵士達が座っている。
「彼らと、その下の者も、厳しい訓練に耐えてくれました。急造の部隊ですが、ご安心ください」
アルノーは、そういうと左側に座る部下達に頼もしげな視線を向けた。
彼の隣には、武術大会『大武会』本選で二回戦に進んだ狼の獣人ヘリベルト・ハーゲンがいる。彼は、救出された獣人達の中では一段上の実力を持っている上、30歳前後と年長である。そのため、今回の作戦ではアルノーの副官を務めていた。
そして、その下手には同じく『大武会』本選に進んだ面々が並んでいる。熊の獣人オットー・マイドルフ、狐の獣人クラウス・アヒレス、狼の獣人ディルク・バスラーは、本選の一回戦で敗退した。だが、元々大隊長や中隊長などの実力者が出場する大会である。決して彼らの実力が劣っているというわけではない。
「演習場で何度か確認しましたが、素晴らしい出来でした! ラヴラン大隊長が手塩に掛けて育てた部隊、何の心配も要りません!」
領軍第三席司令官のマティアスが、感激した面持ちで大声を上げた。いかにも軍人らしい偉丈夫だけに、その声は会議室に響き渡る。
「私も昨日彼らの訓練を見せていただきましたが、これなら全く問題ないと思います。村人の救出どころか、砦の奪取でも可能でしょう」
マティアスの言葉に、エチエンヌ侯爵の嫡男シーラス・ド・ダラスも同意した。二人の貴族の賞賛に、ヘリベルト以下の獣人達も、嬉しげな表情を隠せないようである。
マティアスやシーラスはアルノー達の反対側、シノブから見て左手に座っている。マティアスを筆頭に、国境防衛軍の前線司令官シーラス、そして彼らの部下達だ。
ちなみに国境防衛軍とは、ここガルック砦を含む国境地帯を守るために新設された軍隊であり、メリエンヌ王国が直接配備した軍である。前フライユ伯爵クレメンの反乱後に、フライユ伯爵領のみがベーリンゲン帝国との戦いを受け持つのは不公平であるとして、王国直轄の軍が置かれることとなったのだ。
もっとも、その最高司令官にはフライユ伯爵であるシノブが就いているため、王国軍でありながら一伯爵の指揮下にあるという変則的な指揮系統となっている。そのため、それらの整合性を取るために、シノブには東方守護将軍という新設の役職が与えられていた。
とはいえ、普段は領内のことで手一杯のシノブである。そこで、実務は前線のシーラスが担当し、後方ではマティアスがシノブを補佐している。特にマティアスは、ほとんど最高司令官代行といってよい状況であった。そこで彼は、今日の会議にも出席しているのだ。
「そうか。よく頑張ってくれたな。……ところで、帝国の状況は?」
マティアス達の言葉を聞いたシノブは、アルノー以下の実行部隊を労った。そして彼は、アミィの腕に止まっているホリィへと視線を向けた。
──砦には動きはありません。それに目標となる村々もです。なお、この作戦と直接関係ありませんが、帝国の新たな大将軍の名前がわかりました──
「ベルノルトの後任か?」
ホリィの心の声を聞いたシノブは、その表情を引き締めた。なお、ホリィは鳴き声で『アマノ式伝達法』としても表現しているため、シノブとアミィ以外の思念でのやり取りが理解できない面々も、緊張した面持ちとなった。
──はい。ヴォルハルト・フォン・ギレスベルガーといいます。ベルノルトという前任者の甥ですね。ゴドヴィング伯爵の次男です。
その下にシュタール・フォン・エーゲムントとヴェンドゥル・フォン・ゲーレンハイトという将軍がいるようです──
ホリィが触れたゴドヴィング伯爵とは、帝国でメリエンヌ王国に二番目に近い伯爵領の領主である。ちなみに王国に一番近く国境に面しているのはメグレンブルク伯爵領だ。
「ヴォルハルトという男は、私達が帝国にいた頃は将軍だったはずです」
狼の獣人ヘリベルト・ハーゲンの言葉に、彼の左に並んでいる獣人達が頷いた。彼らは帝国にいた頃を思い出したのか、一様に顔を顰めている。
「シュタールとヴェンドゥルは?」
シノブは、ヘリベルトの精悍な顔へと視線を向けた。彼らは帝国生まれであるし、ゴドヴィング伯爵領に住んでいたものもいるらしい。そのため、戦闘奴隷として王国に潜んでいた時期の長いアルノーよりは帝国の事情に詳しいとみえる。
「確か、大隊長だったはずです。そうだな、クラウス?」
ヘリベルトは、並んで座っている狐の獣人クラウス・アヒレスへと尋ねかける。熊の獣人オットー・マイドルフや狼の獣人ディルク・バスラーもクラウスの顔を見つめている。どうも、新たに加わった獣人達の中では、クラウスという男が一番事情通のようだ。
「はい。それぞれエーゲムント子爵とゲーレンハイト男爵の息子です。
ヴォルハルトもそうですが、ベルノルトやその部下の将軍達と比べると、彼らはまだ若いです。しかし、その分だけ苛烈な性格をしていると聞きました。……厳しさのあまりでしょう、彼らの部隊に配属された仲間達には命を落とす者が多かったのです」
クラウスは、悔しそうに顔を歪めている。
詳しく聞くと、新たな大将軍と将軍達は、一番年が上の者でも30歳になるかならないかだという。前回の戦の後わかったことだが、ベルノルトが40代半ば、そしてその下の二人の将軍エグモントとボニファーツが40歳前後から30代後半らしい。そんな彼らからすると、新任者はかなり若手だといえよう。
「そうか……ホリィ、他には?」
──その三人は皇帝直轄領で極秘任務についているようです。ゼントル砦の士官達が噂していました──
ホリィがシノブに答えた内容からすると、今回の作戦への影響はなさそうである。
作戦対象となる村は、王国に最も近いメグレンブルク伯爵領から八つ、二番目に近いゴドヴィング伯爵領から二つ選んでいる。移動は魔法の家で行うため多少遠くても問題はない。そのため、対象の村は分散させていた。ちなみに、どの村も皇帝直轄領からは距離がある。
「その任務は、どんなものなのですか? それに、こちらに来る可能性は?」
アミィが小首を傾げながらホリィに質問した。
今回の作戦は、いずれは王国側の仕業と判明するだろうが、なるべく帝国を混乱させておきたい。そう考えたシノブ達は、村人達が何らかの理由で『隷属の首輪』の影響を逃れ、どこかに逃げ出したと思わせたかった。それに、小手調べともいえる救出作戦で、帝国軍の本隊と遭遇するようなことは避けたい。
──残念ながら不明です。ただ、王国と戦うための新兵器を準備しているらしい、と噂していました。それが極秘任務の理由らしく、詳細はわかりませんが。
それと、大将軍達は帝都から見て北東の山脈に向かったようです。ですから、こちらに来る可能性は少ないと思います──
「ありがとう。とりあえず今回の作戦に影響がないなら構わない。後は、調査を継続して情報を集めよう」
そう言うとシノブは、ホリィへと頷いて見せた。
帝国には『排斥された神』という謎の存在がいるらしく、その中枢である帝都への調査は後回しにしていた。アムテリアの眷属であるホリィといえど、神と名乗る存在と出会ったら無事に帰還できるかわからない。そのため、慎重に事を進めていたのだ。
「では、解散とする。マティアスとシーラスは残ってくれ」
ともかく、夜に作戦を控えた今、あれこれ推測しても仕方がない。それ故シノブは解散を命じた。そんな彼の言葉に、アルノー達は一礼し、会議室から出て行った。
そして会議室の中は、シノブとアミィにホリィの他は、マティアスとシーラスのみとなった。
◆ ◆ ◆ ◆
四人と一羽だけとなった会議室は、人が少なくなったせいか、どことなく寒々しく感じられた。そして、相変わらず席に座ったままのシノブは、しばらく口を開かない。
アミィにマティアス、そしてシーラスは、そんな彼を怪訝そうな表情で見つめている。
「……シーラス、国境防衛軍の勤務はどうだ?」
「はっ、何の問題もありませんが……」
シノブの唐突な質問に、シーラスは問題ないと答えながらも疑問を感じているようだ。
砦についてから会議室に入るまで、そして会議の参加者が揃うまでも、シーラスは国境防衛軍の現状を説明していたから、余計に不審に感じたようである。
「その……リュディヴィ殿は王都に残したままだろう? それに、この先も当分は砦に詰め切りだろうから……」
リュディヴィとはシーラスの妻である。ちなみに、彼女はアシャール公爵の娘でシーラスとの間には娘が一人いる。しかし、シーラスは帝国との戦いに出発した後、王都には帰っていない。つまり、彼はかれこれ二ヶ月は妻や娘と会っていないのだ。
領都シェロノワでシャルロットに別れを告げてきたシノブではあるが、結婚後シャルロットと一日以上離れたことはない。
そんな我が身と比べてしまったせいか、彼は申し訳なさそうな顔でシーラスを見つめていた。
「お気遣いありがとうございます。実は、そろそろシェロノワかグラージュに呼び寄せようかと思っていまして……」
対するシーラスは、シノブの意図が理解できたせいか、どことなく恥ずかしげな笑顔となっていた。
銀に近いアッシュブロンドを短髪に纏めた、いかにも軍人といった巨漢の青年が照れているのは、なんとなく笑いを誘う光景であった。そのせいか、アミィやマティアスも表情を緩めている。
「どちらでも良い、好きなほうに公館を用意しておこう!」
シノブはシーラスの家族がシェロノワに来ることを喜んだ。
一人前線の砦を守る彼を心配していたということもあるが、彼が家族を呼び寄せるのは、永くこの地を守っていこうという意思表示のように感じたからだ。それに、フライユ伯爵家やその家臣だけではなく、重臣の一族である彼が腰を据えるのは、領内で暮らす者達も好意的に受け取るだろう。
「シーラス殿、どうせならシェロノワが良いのでは?
グラージュは馬で半日もかからない距離だが、国境に近すぎる。それにシェロノワならシャルロット様達もいらっしゃるから、奥方も心強いだろう」
シノブの言葉を聞いたマティアスはシェロノワを勧めた。
都市グラージュはガルック砦から約100kmと近いため、身体強化が得意な軍馬なら数時間で行くことができるが、前回の戦いで敵兵が攻め込んだ前線の地である。
それに対し領都シェロノワは、およそ150kmと遠いが、彼の言うとおりシャルロットを始め身分の高い女性もいる。しかもシャルロットは、リュディヴィとは従姉妹にあたる間柄だ。
「では、そうさせていただきます。ところで、マティアス殿はお子さんを呼ばないのですか?」
シーラスは素直に頷くと、マティアスへと問い返した。
妻と死別したマティアスだが、二人の息子と一人の娘、計三人の子供がいる。現在、王都で彼の両親である先代子爵夫婦が三人の世話をしているという。
「うむ……父はまだ軍で働いているからな。だから、子供達だけとなると、少々面倒でな」
「ああ、そういえば軍務省でしたね」
マティアスの父親、先代子爵はまだ50過ぎであるため軍の高官として働いている。それは、軍務卿の息子であるシーラスも知っていたらしく、彼は納得したような表情となっていた。
「ですが、再婚されてはいかがでしょうか? 聞いていますよ。義父上にからかわれたと」
シーラスにとってアシャール公爵は義父である。そのため、彼は私的な場では義父上と呼ぶようだ。
「全く……軍務卿仕込みの耳の早さか? あれは公爵閣下の冗談だろう」
マティアスは、シーラスの言葉に苦笑いを漏らした。彼は、アシャール公爵の発言を本気にはしていないようである。
「義伯父上は決してからかっただけではないと思うが……」
それまで二人の会話を聞いていたシノブだが、思わず口を挟んでしまった。そして、そんな彼の言葉に、シーラスは表情を輝かせる。
「マティアス殿! リュディヴィの知り合いでもご紹介しましょうか!? イポリートはまだ成人前だし、アリエットに聞いても良いな……」
シーラスが言うイポリートとは彼の妹で、王女セレスティーヌの友人である。シノブも何度か会ったことがあるが、彼女はまだ13歳だ。そしてアリエットとは、シーラスの異母妹でアシャール公爵の嫡男アルベリクの妻である。
「シーラス殿!」
マティアスは、真っ赤な顔をしてシーラスへと叫んでいる。跡継ぎもいることだし、彼は再婚など考えていなかったのかもしれない。
──シノブ様が結婚するように命じたら良いのでは? そういう領主もいるみたいですが──
──なるほど……人間の結婚には色々あるのですね──
アミィの心の声にホリィが感心したような思念を返す。確かに、一族や家臣の結婚相手を見繕う領主というのもいるらしい。
──パーティーもあるから、しばらく様子見かな──
シノブは、内心苦笑いしていたが、表情に出さないように気をつけながら思念を返した。
彼の誕生パーティーも数日後だ。そしてパーティーともなれば、当然多くの女性も参加するし、ダンスくらい行われるのだろう。そのときマティアスがどんな反応をするか見てみるのも悪くはない。シノブは、そんな思いと共に二人の青年貴族の言い争いを静かに見守っていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2015年4月19日17時の更新となります。