10.01 夜明けのスキット
「……朝か」
シノブは、微かに動く気配を感じ、目を覚ました。フライユ伯爵家の館、その左翼三階にある領主が暮らすための区画に、シノブの寝室はあった。
「起こしてしまいましたか……お早うございます、シノブ」
隣で休んでいたシャルロットが身を起こしたのが、シノブの目覚めを促したらしい。シャルロットは、少しすまなそうな、でも、愛するシノブと会話できる喜びに満ちた幸せそうな表情をしている。
新婚特有の幸福で甘い雰囲気を纏った彼女は、シノブにそっとキスをした。
「ちょうど起きる時間だからね」
シノブは、ベッドのヘッドボードにある置時計へと目をやった。微かな明かりで照らされたそれは、豪奢な金細工が施されている。灯りの魔道具に、機械式の置時計。前者はともかく、後者は庶民には手の出すことの出来ない高級品である。
天蓋付きのベッドを含むこれらの品は、シャルロットがベルレアン伯爵家で使っていたものだ。白に薄い桃色の刺繍が施されたベッドや、寝室に配置された家具も含め、魔法のカバンに入れて運んできたのだ。
元々、前フライユ伯爵クレメンが使っていた家具は、別室に収納されている。反逆者である彼の持ち物をそのまま使うのも、なんとなく躊躇われる。そのため、領主の居室は、シャルロットが使っていた家具や、ベルレアン伯爵の館の貴賓室にあったものなどを譲り受け、持ち込んでいた。
「まだ寒いね」
シャルロットとの抱擁を解き、巨大なベッドの四隅を囲むカーテンを開けたシノブは、ひんやりとした空気に思わず呟いた。
今は、一月も下旬に入ろうかという時期であり、これから降雪も増える。幸い、領都シェロノワは標高もそれほど高くない。緯度としては、ベルレアン伯爵領の領都セリュジエールよりも南だが、標高が高い分セリュジエールと同じか少し寒いようである。
「そうですね。ですが、貴方と一緒なら暖かいです」
シノブの呟きを聞いたシャルロットは、再び彼に寄り添った。彼女は、部下や侍女達の前では見せない甘えたような表情で、再びシノブにキスをする。
「俺もだよ。愛してるよシャルロット」
シノブも最愛の妻を抱きしめると、その態度と言葉で己の思いを伝えた。シャルロットは、シノブの腕の中で柔らかく微笑み、体を預ける。
「……さあ、着替えようか」
暫く愛妻との温かな時間に浸っていたシノブだが、名残惜しく感じつつも体を離してベッドから歩み出た。そしてシノブはシャルロットの手を引きながら、化粧台がある一角へと誘う。
「義母上の化粧台、いつ見ても素晴らしいね」
金銀を象嵌された化粧台と、その上に据えつけられた大鏡。それらをシノブは感嘆を抱きつつ眺める。
シノブが嘆声を漏らすのも無理はない。この化粧台は、先王妃メレーヌを母に持つカトリーヌの嫁入り道具なのだ。
輝くような紫檀の地の各所に王家の象徴である白百合が銀と小さな宝石で描かれた、国宝とでもいうべき品である。
「はい……子供の頃、これを使う母上を良く眺めていました。時々母上は、私を膝に座らせて、髪を梳かしてくれました」
化粧台の椅子に座ったシャルロットは、そう言いながら自身のプラチナブロンドを梳いていた。母と過ごした幼い日々を思っているのだろう、鏡に映る彼女は目を細めて懐かしげな表情をしている。
長く豊かな、そして緩やかにウェーブを描く髪をゆっくりと撫でるように整えるシャルロット。その姿は彼女の母カトリーヌと良く似た、優しく包み込むような笑みを浮かべていた。
◆ ◆ ◆ ◆
「シノブ様、シャルロット様! おはようございます!」
室内着に着替え寝室から居室へと出た二人に、アミィが朗らかな笑顔をみせた。彼女の薄紫色の瞳は、内面の活力を表すかのように、キラキラと輝いていた。
「おはよう! アミィ!」
「おはようございます、アミィ」
二人の返事に、アミィはますます嬉しげな表情となる。彼女の狐耳は真っ直ぐ立ち、尻尾も元気良く揺れている。
今日の彼女は、王都で購入した赤い制服のような衣装を身に着けている。少女らしく可愛らしいデザインの服は、明るく元気なアミィに、とても良く似合っている。
「シノブ様、国境のホリィから連絡がありました。
帝国も雪が激しくなったから砦に閉じこもっているようです。それに、まだ壊した城壁を修復している最中みたいですね」
アミィはお茶を入れながら、ソファーに座ったシノブ達にホリィから聞いた情報を伝える。
どうやら、早朝だというのに、ホリィは既に活動しているようである。アムテリアの眷属であるホリィは、アミィに定期的に心の声で連絡を入れている。ここ領都シェロノワから、国境はおおよそ150kmである。したがって、帝国側に深く侵入したときは別として、大よそ思念が届く範囲だという。
ホリィは、国境線に沿って設置された王国側の三つの砦や、それに向かい合うように存在する帝国側の砦を上空から偵察したが、帝国が再侵攻を企てている様子は無いようである。
「そうか。出入りする間者もいないようだし、暫くは安心できるかな」
ここ数日、ホリィは国境を中心に国内に侵入しようとする間者がいないかも、調査していた。だが、国境の砦の守護は、王領軍を中心に再編成されている。それ故、密輸や人攫いも難しい。
それを知ってか、国境越えをしようとする者も今のところ現れていない。
「はい、当分は安心できそうです。厳冬期で山越えしにくいですから、砦の内部と通じていなければ難しいでしょう」
アミィは、シノブの言葉に頷いた。
都市グラージュや国境を守るガルック砦は標高が高く、領都シェロノワに比べて積雪量が多い。グラージュはまだ良いが、砦が存在するガルック平原は、もうそろそろ雪に閉ざされ身動きも出来なくなるだろう。
「そうですか。春までは安心できそうですね。その間に、領内の間者をどうにかしたいものです」
シノブと並んで座るシャルロットも、自領への侵入者がいないと聞いて嬉しげな顔をした。
だが、フライユ伯爵領内に潜んでいると思われる、帝国の間者達を思い出したのか、その美しい眉を僅かに顰めた。
「ソニアさんは、もう館の中には怪しげな動きをする人はいない、と言っていました」
アミィはソニアに透明化の魔道具を渡し、館の中を監視させていた。アミィは、幻影魔術で自身の姿を消すことができる。それを応用して作った魔道具だ。
しかも、ソニアに渡した魔道具は、変装用のものとは違い魔力を蓄える結晶を幾つも装着している。そのため、長時間の連続使用にも耐える本格的なものだ。
「内部は大丈夫か……外部は、どうするかな?」
シノブは、館の内部に間者がいないようで、少し安心した。
話術が巧みで、女優のように自身の内心を隠しながら相手に応じた対応が出来るソニアである。普段の会話などからも多くの情報を入手し、これはと思った相手を魔道具で姿を消して監視しているという。
そんな彼女は、シェロノワに到着してから数日の間に二人の間者を発見していた。だが、もう館の使用人に関しては大丈夫なようだ。
「領政庁や領軍本部は、シノブ様やシャルロット様の用事という名目で、ソニアさんを出向かせても良いですね。でも、街中や、他の都市までは手が回らないと思います」
アミィは、僅かに困ったような表情をみせた。フライユ伯爵領には、26万人近い領民がいる。そして、シェロノワだけでも人口4万人だ。その中に紛れた間者に、ごく僅かな者だけでは対応できないのは当然である。
「シノブ、お国ではどうしているのですか?」
「う~ん。警察官という、人々の安全を守り犯罪者を捕まえる職業があるんだけどね。
でも、こちらも軍や自警団が同じことをしているから、あまり違いはないよ」
シャルロットの問いに、シノブは答える。
最近、シャルロットやシメオンは、私的な場では日本のことを積極的に訊ねていた。どうやら、軍務や内政に活かしたいようである。
「……でも、間者は軍や自警団にも入り込んでいるかもしれないし……安心できるのは、獣人達くらいか」
帝国では奴隷とされている獣人族は、『隷属の首輪』で呪縛されていないかぎり、間者となる可能性は少ないのではないだろうか。もちろん、身内を人質に取るなど、首輪以外でも言うことを聞かせる手段はいくらでもあるだろう。とはいえ、人族より安心できるのは間違いない。
「シノブ様、解放した獣人達に警戒をさせてはどうでしょう?
通常の軍や自警団とは別に、間者対策のみを担当してもらえば、当面住み分けは問題ないでしょうし」
「なるほどね。シメオンとも相談しておくよ!」
アミィの言葉に、シノブは笑顔になる。
確かに、解放された彼らが間者ということもないだろう。間者への対策にもなるし、獣人達の雇用先も確保できる。
幸い、領地を立て直すための資金は、シメオンが王宮の重臣達からもぎ取っている。細かいところは内政官に考えてもらうしかないが、悪くないアイディアだとシノブは思った。
「さて、それでは早朝訓練に向かうか! お茶、美味しかったよ!」
一つ問題が片付きそうな予感に、シノブの心は浮き立った。その内心の動きを表すかのように、一気にお茶を飲み干したシノブは、アミィに朗らかな声音で礼を言った。
その言葉に、アミィも輝くような笑みを見せる。彼女は、急いで後片付けをすると、シノブやシャルロットと共に、室外へと出て行った。
◆ ◆ ◆ ◆
早朝訓練には、珍しくシメオンも来ていた。
前庭の訓練場には、シノブやシャルロットと、その腹心達がいる。だが、シメオンが早朝訓練の時に来ることは、今まで無かった。
ベルレアン伯爵領にいた頃は、シメオンも時々訓練に参加していた。彼は、少ない魔力を効率的に使う方法に興味があったようだ。
しかしシメオンは、つい先日まで全ての長官を兼務していた。そのため、こちらに来てからは訓練どころではなかったのだ。
「少し顔色が悪いのでは? 仕事、手伝いましょうか?」
アリエルが、心配そうな顔をしつつシメオンに言葉をかける。
「わ、私も手伝いますよ!」
ミレーユは少し顔を赤らめながら、同僚に続いた。
「ありがとうございます。でも、そちらも軍務があるでしょう。
それに、アルメル様に助けていただいていますから」
シメオンは微かに微笑みながら、二人の申し出をやんわりと断った。
多忙を極めていたシメオンだが、ミュリエルの祖母アルメルの農務長官就任により、少しは楽になったようである。それに、他の部門もアルメルから紹介された家臣を次官に配したため、大幅に業務が改善されたらしい。
とはいえ、まだ朝から晩まで政庁に詰め切りには違いないのだが。
「折角だから手伝ってもらえば良かったのに」
フライユ流大剣術の型を練習していたシノブは、『光の大剣』を鞘に収めてシメオンへと笑いかけた。
「いえ……」
「シノブ様、大変です!」
シメオンが口を開きかけたとき、侍女のアンナが慌てた様子で駆け込んできた。
「アンナさん、どうしたんですか?」
アミィは、息を切らしているアンナに駆け寄り、心配そうに見上げた。
ベルレアン伯爵領にいるときから、彼女達は仲が良い。それ故、尚更気にかかったのだろう。
「そ、それが……前伯爵の遺品を整理していたら……光ったんです……」
「光ったって、何が?」
途切れ途切れに伝えるアンナに、シノブは問い返した。どうも、彼女の説明は要領を得ない。
「しょ、燭台です……魔道具の……何もしていないのに、点滅しているんです! あれは、前伯爵の呪いでは!?」
やっと息が整ってきたアンナは、最後の方は勢い良く言い切った。
「故障しているのではないですか?」
アンナの側に寄ったシャルロットは、彼女の様子を案じるように眉を顰めながらも、現実的な意見を口にする。
「まあ、ともかく見に行ってみようよ。何か仕掛けがあるのかもしれない」
シノブの言葉に一同は訓練を中止し、遺品を収めた部屋へと向かうことにした。
◆ ◆ ◆ ◆
「……特に仕掛けは無いようです。少し古いから、どこか悪くなっているのかもしれませんね」
アミィは、精緻な金細工が施された燭台を丹念に調べている。
燭台といっても魔道具だから蝋燭を付けるわけではない。真上に一本、そして横に六本ある枝の先には、炎を象った見事な水晶がある。どうやら水晶の下に灯りの魔道具が仕込まれているらしい。
「そうか。やっぱり故障かな?」
シノブは膨大な魔力を持っているし、魔力操作も精密にできる。しかし、今まで魔道具について学ぶ時間は無かった。したがって、調査はアミィに任せていた。
アミィは、最初は魔道具を熱心に見ていたが、今度は魔力での調査をするようだ。彼女は精神を集中し、魔道具に手を翳す。
「あっ! 今、光ったような!?」
ミレーユが驚いたような声を上げる。
彼女の言うとおり、燭台は七つの枝の先に微かな光を一瞬だけ灯したのだ。
「確かに光ったね。もう一回、魔力を込めてみたら?」
「はい!」
シノブは、アミィに再度魔力を注ぐように促した。彼女が再び魔力を込めると、やはり燭台は微かに光る。どうやら、魔力に反応して光るようである。
「魔力に反応していただけなんですね……」
アリエルは、ホッとしたような表情をしている。普段は冷静な彼女だが、呪いの魔道具などと聞いたせいか、少し不安になっていたようだ。
「でも、私は魔力を込めたりしていません。それに、燭台には近づいてもいませんし」
アンナは、まだ不安そうな表情である。
そこで、アミィやアリエルが色々試してみた。彼女達が調べた結果、アミィは1mくらい離れたところから魔力を込めても燭台が光るが、アリエルだとかなり接近しないと光らない。
「おそらく故障だと思うのですが……そのせいで魔力を拾っているのでしょう。でも、アンナさんしかいないときに光った理由はわかりませんね」
「何か途轍もない魔力でも感知した、とかかな? ……まさか!?」
アミィの困ったような顔を見ていたシノブは、あることに気が付いた。彼は、手に持っていた『光の大剣』を、鞘から半分抜いてみた。
「燭台が!」
シャルロットは燭台が煌々と輝いたことに驚き、思わず声を上げていた。
「『光の大剣』の魔力に反応していたんだね。鞘に入っているときは漏れないけど、この剣の魔力は凄いから」
シノブは『光の大剣』を鞘に収めたり、また半分ほど抜いたりと繰り返す。それに合わせて、燭台は明滅している。
「面白いですね~。まるで『アマノ式伝達法』みたいですね~」
「そうか! それだ!」
ミレーユの呟きを聞いたシノブは、思わず叫び声を上げていた。そんな彼の様子に、一同はシノブへと視線を向ける。
「シメオン、これを応用すれば無線が作れるぞ!」
「……『ムセン』とは何ですか?」
当然だが、メリエンヌ王国には無線という言葉は無い。そのため、シメオンはシノブの言いたいことが理解できなかったようだ。
そんなシメオン達に、シノブは無線について説明していく。彼は、初期の電信のような単純な信号による通信、つまりモールス信号のようなものを考えていた。そもそも『アマノ式伝達法』自体がモールス信号から発想したものだから、この連想は当然かもしれない。
「なるほど、原理はわかりました。遠くで発生した魔力を感知する装置を作るのですね。そして、魔力の波動が一致するものだけに反応させるのですか……」
「そうだね。難しいけど、これが出来れば俺達だけではなく、誰でも遠くに連絡できるよ」
流石にシメオンは理解が早い。そして、シノブは無線実現の利点に触れる。
現在、シノブやアミィにホリィ、そしてガンド達岩竜は、思念で連絡しあうことができる。しかし、彼ら以外には、思念で意思疎通できる者などいなかった。
「……実現できれば、軍事でも大きな利点となりますね」
シャルロットは、軍務への応用を考えているようだ。
現在の光の魔道具での連絡は、夜間中心という欠点がある。それに、魔力の波動が電波のようにある程度障害物があっても届くなら、直線的な経路の確保も不要になるかもしれない。
「そうだね。まあ、先のことになると思うけど」
すぐには実現できないかもしれないが、もしかすると、これが新たな魔道具産業へと繋がるかもしれない。そう思ったシノブは、笑顔になっていた。
そんなシノブの思いが伝わったのか、シャルロット達も微笑みを浮かべていた。
「もう、朝食だね! さあ、行こう!」
既に、早朝訓練の時間は終わっていた。シノブは、大きな変化を起こすかもしれない燭台を手にすると、足取りも軽く室外へと歩みだしていった。
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次回は、2015年3月8日17時の更新となります。
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