08.10 グラージュ占領 前編
都市グラージュ。現在、そこにはメリエンヌ王国の王太子テオドールが座す総司令部が置かれている。
ベーリンゲン帝国に最も近い都市だけに城壁は厚く、都市内部も民間の建物ですら、どこか厳重な造りである。
ましてや中央にある代官の公館など、砦と見紛わんばかりの堅牢な建物であった。壁は攻城兵器でも容易には破れないほど分厚く、窓は小さい上に銃眼とでもいうべき代物である。
敷地の境は高く聳える壁で囲み、中も小規模な石壁に空堀や塹壕すら散見される城砦と言ったほうが似合う公館。そこが、王国軍の総司令部となっているのだ。
この日は創世暦1000年12月21日。総司令部では、ガルック平原で王国軍と帝国軍が衝突すると予測している、いわば決戦の日である。そのためガルック砦から50km近く離れたグラージュでも、多くの将兵が日も昇らないうちから活動している。
しかし総司令部の一角に、厳重な軍事施設に似合わぬ若い女性や少年達の元気の良い声が響いていた。
「えいっ!」
「やあっ!」
まだ薄暗い早朝の空気を裂く掛け声。発したのはシノブの従者であるレナン・ボドワンとパトリック・ラブラシュリであった。元々商人の息子であったレナンと、ベルレアン伯爵家の従士の息子であるパトリック。二人は伯爵家の家令ジェルヴェの指導を受け、剣術の訓練に励んでいた。
少年達は木剣での素振りを一心不乱に行っている。13歳のレナンと10歳のパトリックだが、商人としての範疇で護身の手ほどきを受けていたレナンと、従士の息子として父ジュストから教育されていたパトリックは、ほぼ同じ技量であった。
それ故ジェルヴェも、二人まとめて指導することにしたらしい。
「リゼット殿は、あまり向いていないかもしれませんね。自身の護身程度を目標としましょう。……ソニア殿は、筋が良いようです。カンビーニ王国で武術を習っていたのですか?」
ジュスト・ラブラシュリは、侍女達に教授している。
今まで侍女達はアミィやアリエル達の指導を受けていたが、アミィは戦場でアリエル達も決戦を控えて司令部に詰めている。そこで、ジュストの出番となったようである。
侍女達には小さめの木剣を持たせてはいる。しかしジュストが言うように護身を前提としているのか、敵を倒す技術を習得するというよりは、体捌きなどを中心に教えているらしい。
「ありがとうございます。故郷が少々荒っぽいところでしたので……」
レナンの姉リゼットが、苦笑しつつも教えられた動作を繰り返す中、猫の獣人ソニア・イナーリオはジュストににこやかな笑みと共に答えを返した。
シノブやアミィ、シャルロットにしか打ち明けていないが、ソニアはカンビーニ王国の従士階級の出身である。20年前の戦に傭兵として参加した叔父の消息を突き止めるためにメリエンヌ王国に来た彼女だが、子供の頃は当然武術の指導を受けているのだ。
そんなソニアと商人の娘リゼットに差があるのは、仕方がないことだろう。それにレナンやリゼットは人族だ。狼の獣人であるラブラシュリ一家や、猫の獣人のソニアが身体能力で勝るのは自然なことでもあった。
「ソニアさんは、いいですね……」
しかし何事にも例外はあるらしい。ジュストの娘でパトリックの姉アンナ・ラブラシュリは体術が苦手なようである。狼の獣人であるのに戦闘が苦手な彼女は、ソニアを羨望の眼差しで見つめている。
「アンナさんには魔術の才能があるじゃないですか」
後輩ということもあってか、ソニアは柔らかく答えを返した。
ソニアが言うとおり、アンナは魔術に適性があった。しかも彼女は、比較的珍しい光属性や闇属性を使えるのだ。
アンナはアミィの魔術に驚嘆していたが、決して才能がないわけではなかった。アミィはこの世界の人類としては最高峰と言ってもいい魔術の達人である。それにアムテリアの眷属である彼女は魔力量も桁外れであるから、比較するほうが間違っている。
実際のところアンナの魔力量は、シャルロット程ではないがミレーユやジェルヴェよりも多かった。しかし残念ながら身体強化の才能がないため、戦闘能力の向上は出来ないようである。
一般的に獣人は魔術が苦手な代わりに高い身体能力を持つ。しかもアンナの父は衛兵であり、彼女は魔術に触れる機会も少なかったようである。そのため彼女は、光属性など珍しい魔術を使えるとは思っていなかったらしい。
加えて王国の魔力感知や属性判別は、シノブやアミィに比べて遥かに劣る。それ故アミィが色々調べた結果、やっとアンナは自身の特性に気がついたのだ。
「そうですね。アンナは良い治癒術士になれそうです」
仲良く訓練する侍女達の下に、騎士鎧姿のシャルロットが現れた。
側近のアリエルやミレーユは、王太子の側に詰めたままだから伴っていない。しかし二人に休憩を勧められたシャルロットは、気分転換に庭に向かったのだ。
どうやらジュストは、その辺りの事情を察したらしい。彼は侍女達の訓練を一時中断とする。
「ありがとうございます。なんとか軽い切り傷くらいなら治せるようになりました」
主の言葉に、アンナは嬉しそうに微笑んだ。
元々アンナは、シャルロットを深く尊敬している。彼女は以前、武術の才能があればヴァルゲン砦にも同行したかった、と言っていたくらいである。
おそらく貴重な治癒術士になれば、軍人である彼女の手助けができると思ったのだろう。アンナの笑みには、そんな希望に満ちた輝きがあった。
「このまま頑張れば、シノブ達の手助けも出来るかもしれませんね」
しかしシャルロットは、自身を慕うアンナの思いに気がつかなかったようである。いや、気がつかなかった、というのは正確ではないかもしれない。彼女は顔を出しつつある冬の朝日を見つめていたのだ。
ゆるゆると昇る日輪。それは遥か東の平原で、王国軍と帝国軍が激突する合図のようであった。
そして血のように赤い太陽を、シャルロットは祈るような表情で注視している。おそらく彼女は、婚約者のシノブや父であるベルレアン伯爵のことを案じているのであろう。
いつしかアンナを始めとする侍女達も、静かに東の空を見つめていた。同じ女性だけあって、主の胸中を痛いほどに察したに違いない。
◆ ◆ ◆ ◆
「戦況は有利です。王国軍は平原の中央まで進み、本隊、右翼、左翼ともに帝国軍を圧倒しております!」
総司令部には1時間に2度か3度、伝令兵が到着する。現在、12月21日の午前9時過ぎ。開戦から2時間強を経ているが、全て王国の順調な進撃を告げるものばかりであった。
伝令の報告を聞くたびに、総司令部の将官達は沸き立っている。王太子テオドールや、その周囲に控える白百合騎士隊の面々からも、笑顔が絶えない。だが、その中でシメオンのみが苦い表情をしていた。
「シメオン殿。どうしたのですか?」
そんなシメオンの様子が気になったのか、シャルロットは彼の側に寄り、周囲に聞こえないような小さな声で尋ねかけた。
戦地から遠く離れた都市グラージュではあるが、総司令部に詰めているということもあり、彼女は騎士鎧を身に纏っている。流石に兜は取っているが、いつ被っても問題ないように美しいプラチナブロンドは綺麗に結い上げたままなのだ。
しかし騎士鎧姿のシャルロットは、慣れているためか、それとも伯爵家特注の逸品であるせいか、歩み寄るときも音を立てることはない。
「伝令兵に、王領軍や我が領の騎士がいないのが気になります。それに、報告の内容も都合が良すぎます。
……シャルロット様、念のために侍女達を避難させたほうが良いでしょう。都市の郊外に我が領の補給隊や従軍職人がいます。彼らの下に伝令という名目で向かわせ、そのまま後方に下げたほうが良いかと」
シメオンも、シャルロットに小声で囁き返す。どうやら彼は、ここも戦に巻き込まれると考えているらしい。
「やはり、殿下が狙いですか?」
シャルロットは僅かに眉を動かすが、表情の変化はそれだけだ。こちらも最悪の場合を想定していたのだろう。
メリエンヌ王国は、戦意高揚のため王太子テオドールを出陣させた。名目上の総大将だから最前線には行かないが、こうやって最も近い都市に総本陣を構えている。
帝国からすれば、これは絶好の機だろう。王太子を害してメリエンヌ王国を危うくさせても良いし、捕らえて侵攻に利用しても良い。
つまり、ここグラージュが狙われる可能性は充分にある。
「ええ。まずはここを抑えるはずです。シェロノワに向けて撤退すれば、ここよりは安全でしょう」
進言するシメオンに、シャルロットは無言のまま頷いた。そして彼女は密かに指示を出すべく、側仕え達への指示書を綴り始めた。
郊外の補給隊は、総司令部にも定期的に物資を運んでいる。今なら昼に向けて糧食を運び込む一隊の帰りに便乗して、都市の外に出ることが出来るのだ。
側仕えには若い者が多いが、衛士として経験豊富なジュスト・ラブラシュリがいる。彼が率いて侍女や従者見習いの少年達を連れ出せば問題ない。
文書の最後にシャルロットは、伯爵家継嗣としてのサインをすると、受け取るべく控えていたジェルヴェに渡す。そしてジェルヴェは、周囲に悟られないよう司令室から静かに去っていく。
「これで打てる手は打ちました。後はシャルロット様達の武力に期待します」
シメオンが言うとおり、従者達の安全についてはジュストに任せるしかないだろう。
流石に王太子テオドールの護衛であるシャルロットが姿を消すわけにはいかない。彼女の側近であるアリエルやミレーユ、ベルレアン伯爵領の高官であるシメオンや家令のジェルヴェも同様である。
「ええ。私も伊達にシノブ達と修練したわけではありません。この槍にかけて、殿下をお守りします」
シャルロットは、自身が持つ長槍に目を向けた。
シノブが持つものと同じ、アムテリアから授かった神槍。もっとも槍の来歴を知っているのは、ここでは彼女だけだ。
「ええ、シノブ様の槍ですからね」
神槍とは知らないシメオンだが、そんな彼の目にも並の槍とは違うのはわかるのであろう。彼もシャルロットが持つ槍を頼もしげに見つめた。
「シメオン殿。シノブから頂いたのは間違いありませんが、私が言いたいのはそういうことでは……」
シャルロットは、シメオンの言葉をいつもの冷やかしと受け取ったようだ。彼女は微かに頬を染めて、シメオンに非難するような視線を向けた。
「これは、普段の行いが災いしましたね……シャルロット様、殿下がお呼びですよ」
シメオンのとぼけたような口調に、シャルロットは彼が誤魔化すつもりだと一瞬思ったようだ。だが、念のため王太子テオドールへと視線を向けると、どうやら本当に呼ばれているようである。彼女は、急いで王太子の側に歩み寄っていった。
◆ ◆ ◆ ◆
そして伝令兵達が王国有利の報を続ける中、ついに決定的な瞬間が訪れた。
「我が軍勝利です! 敵を殲滅し、グラシアン様が砦に凱旋されました!」
正午をだいぶ過ぎ13時になろうかという時分。そろそろ昼食でも、という時間帯に駆け込んできた伝令兵は、満面の笑みと共に司令部の面々に報告する。
「シノブ殿や、叔父上は? それにベルレアン伯爵は?」
歓喜に湧く将官達を他所に、王太子テオドールはアシャール公爵やシノブ、ベルレアン伯爵の動向を問い質した。勝利自体は嬉しいのだろうが、親しい面々に関する報告がなかったのが気にかかったのだろう。
「皆様、ご無事と伺っております!」
だが、テオドールも続いての言葉に安堵したようである。そんな中、シャルロットとシメオン達、ベルレアン伯爵家の一同は微かに視線を交わしたが、周囲に合わせて笑顔を作る。
「それでは、殿下。ちょうど時間もよろしいですから、昼食にしましょう。まだ事後報告も続くと思いますから、ここに運ばせます」
フライユ伯爵も笑みを見せながら王太子へと語りかける。彼の言葉にテオドールは頷いて、昼食の準備を許可した。
あいかわらず、王太子や将官が口にするものは、王家の料理人とフライユ伯爵家の料理人の共同作業で準備している。したがって、彼らには食事自体に関する不安はないようである。
「シャルロット。これで君の誕生日までにシノブ殿も凱旋できるね」
テオドールも、従姉妹の誕生日が4日後の12月25日であるのは知っているようだ。ガルック砦から都市グラージュまでは軍馬なら2時間もあれば移動出来る。そのため事後処理が少々あろうが、誕生日くらいはシノブもグラージュまで駆けつけるだろう、と思ったようである。
「殿下、まだ気を緩めるには早いと思います」
シメオンの言葉で伝令の報告を疑っているシャルロットは、王太子にもそれを伝えたかった。だが、彼の側からはフライユ伯爵が離れないため、今の今まで伝えることは出来ていない。そこで彼女は、勝ち戦こそ気を引き締めるべき、というような口調でテオドールへと近づき語りかける。
「流石は『ベルレアンの戦乙女』。お言葉の通りですな。ですが、まずは食事としましょう」
フライユ伯爵が見つめる先には、食事らしきものを載せたワゴンを押してくる侍従達の姿があった。それぞれのワゴンの上には、銀色の大きな覆いが被さった何かが載っている。冬だけに温かいものを用意するのはおかしくはないが、シャルロットはそれを運ぶ男達へと視線を向けていた。
静かにワゴンを押してくる男達。彼らは侍従に多い文官のような線の細さはなく、むしろ武官の鋭さを漂わせていた。それを感じ取ったのかシャルロットは、シメオンやジェルヴェ、副官の二人の女騎士に目配せをした。
彼女の微かな合図に気がついたベルレアン伯爵家の者達は、侍従達の挙動を注視していた。
多くの将官がワゴンを押す侍従など気に留めないで談笑している中。給仕する者らしく控え目な態度の従者達は、何故か全員目を瞑りながらワゴンの上に載せた覆いを開け放った。
「目を瞑れ!」
異常を感じ取ったせいか、シャルロットは以前のような軍人口調で周囲に注意を促した。そして彼女自身やベルレアン伯爵家の者達が目を閉じた直後、室内は強烈な閃光に包まれた。
「閃光の魔道具!?」
司令室の中が光で満たされ周囲の区別もつかない中、誰かが叫び声を上げる。あまりに眩しい光ゆえに多くの者が視界を奪われ、痛みすら感じて動きが取れないようである。
しかしシャルロットは目を閉じたまま、すぐ側にいるテオドールの腕を掴むと自分のほうに引き寄せた。
「殿下ですね!?」
シャルロットは視覚に頼らず移動しつつ、王太子と思われる男性に声をかけた。まだ閃光は続いているから、彼女は気配と記憶を元に室外へと駆けている。
「シャルロット?」
返ってきたのは、落ち着きを保ったテオドールの声であった。
テオドールは、シャルロットの指示に従って目を瞑ったらしい。彼は周囲は見えないものの強烈な光に苦しめられることはなかったようだ。
「このまま、脱出します! おそらくフライユの裏切りです!」
シャルロットは、自身の左右を二人の女騎士が固めているのに気がついていた。そして、どうやらジェルヴェやシメオンも続いているようである。良く知った気配が自身に続いているのにシャルロットが安堵したとき、彼女は強烈な殺気を感じ取った。
「殿下、伏せてください!」
テオドールがシャルロットの言葉に素直に従い伏せたとき、その頭上を貫かんと何かが突き出された。だが、その襲撃は、シャルロットの持つ神槍に阻まれている。仮に、テオドールが伏せなくても彼に被害はなかったであろう。
「やはり、先に『戦乙女』を何とかしておくべきだったな」
ようやく閃光が収まった中、薄目を開けたシャルロットが目にしたのは、大剣を手に持つフライユ伯爵クレメンの姿であった。
◆ ◆ ◆ ◆
疑惑が晴れないままのフライユ伯爵クレメンには、帯剣は許されていなかった。したがって彼が持つ大剣は、閃光に苦しむ周囲の騎士達から奪ったものなのだろう。しかし、彼は借り物だと感じさせない自然な構えをシャルロット達に見せていた。
「クレメン殿! 貴方は……」
シャルロットは王太子テオドールをアリエル達の方に押しやると、フライユ伯爵へと対峙した。彼女の武器は室内では不利な長槍だ。しかし幸い豪壮かつ広大な代官の公館だから民家とは違って室内は広く天井も高いし、仮に通路に進み出ても5m近い幅がある。
それ故シャルロットはアムテリアから授かった長さ3m少々の神槍を、祖父や父から教わったベルレアン流槍術の型通りに悠然と構えていた。
左を前に半身、足は肩幅より広げ腰を落とした磐石の姿勢。右腕は胸元近くに畳み、握る手は右が石突近くで左がその手前三尺ほど。槍を水平に近い中段にした、王道かつ融通無碍の姿である。
静謐であり、勇壮であり。術理を極めた者に相応しい端然とした美しさと、今にも火のような一撃を繰り出さんと言わんばかりの気迫。『ベルレアンの戦乙女』の名に相応しい、武の精華を彼女は示していた。
しかしシャルロットの表情は険しい。予想していたこととはいえ、王国の柱石たる七伯爵の一角を占めるフライユ伯爵の裏切りは、ベルレアン伯爵継嗣たる彼女にとっては許せるものではないのだろう。
「私はこの地を栄えさせたいのだ。王国の下で叶わぬ望みなら仰ぐ旗を変えてでも……まあ、無駄話はこの辺でよかろう。テオドールを渡したまえ」
フライユ伯爵クレメンは、以前もシャルロットやシノブに領内改革について口にしていた。自身の力だけでは上手くいかなかったとも言っていたが、帝国の下ならそれが達成できるとでも言いたいのだろうか。
そんな彼は、剣を防がれたと知ったときに後方へと飛び去ったようである。シャルロットが持つ長槍の間合いに入るのを嫌ったのだろう。だが、大剣での攻撃をするためか、再びじりじりとシャルロットに接近を始めた。
「断る!」
シャルロットは、剣のような鋭い声で彼の言葉を切り捨てると、両手で構える神槍をフライユ伯爵に向けて突き出した。超人的な身体能力が可能とする歩法と右手が放つ神速の突きは、その槍を爆発的に撃ち出し、空気を螺旋状に切り裂きながらフライユ伯爵へと迫っていく。
「流石だ!」
だが、クレメンも剣に優れたフライユ伯爵家の当主である。彼も自身の大剣術を遺憾なく発揮し、シャルロットの長槍を迎え撃つ。
「この膂力……やはり、婿殿の教えか?」
フライユ伯爵は大剣で槍を押さえ込もうとするが、シャルロットはそれを許さない。
女性らしく華奢なシャルロットと、男性軍人として並以上の体格を持つクレメン。しかし性差など関係ないかのように、均衡した状態がしばらく続く。
「はっ!」
シャルロットは、ついに真の力を解き放った。彼女はフライユ伯爵の問いに答えず、静かに己の魔力を練り上げていたのだ
ごく短時間だがシャルロットは普段の数倍、いや十倍以上の身体強化を実現した。それ故彼女が天井目掛けて跳ね上げた槍は、己より10cmほども背の高いクレメンの体を容易く宙に浮かせる。
アムテリアから授かった神槍は、大剣の刃など通らぬようだ。まるで単なる棒を重ねているかのように、シャルロットは無造作にクレメンごと上空へと打ち払う。
「おおっ!?」
フライユ伯爵に従っていた家臣達が驚嘆の声を上げた。
伯爵本人や身に纏った鎧を考えれば、優に100kgはあろうかという質量である。だが重さなど無視したかのように、大の男が人の高さほどに吹き飛んだからだ。
宙に舞う敵手に、シャルロットは追撃の槍を送り込む。しかし虚を突かれたとはいえフライユ伯爵も初代からの剣術を継承する一流の主である。彼は不自由な空中でシャルロットの神槍を打ち払ったばかりか、その反動を利用して遠方に飛び去った。
「今です! 殿下、外に逃げましょう!」
敵の最大戦力であるフライユ伯爵を遠ざけたこのときが脱出の好機だと、シャルロットは本能的に察したようだ。彼女の言葉に、アリエルやミレーユは頷き、王太子テオドールを室外へと誘導した。
「殿下、こちらへ!」
アリエルが、テオドールの手を引き室外へと連れ出す。
司令室の中にいる士官達は、多くがフライユ伯爵家の家臣に奇襲され、絶命しているようであった。軍服のみの士官達は、閃光の中、逆臣達の剣を受けるしかなかったのだろう。僅かに騎士鎧を身に着けた王太子の近習のみが、彼らと交戦しつつシャルロット達と合流しようとしている。
「え~い!」
そんな騎士達を援護すべく、ミレーユが手にした長弓で矢を放つ。彼女が持つ弓は、なんと魔道具であった。弦に手を添えれば矢が生み出されるのか、ミレーユは矢筒もないのに連射している。
実は、この弓はルオールの神殿で授かった神弓であった。神殿での神秘的な出来事の後、魔法のカバンに新たな魔道具があると知ったシノブは、弓の名手ミレーユに神弓を渡したのだ。
「ミレーユ殿、助かった!」
フライユ伯爵のような達人はともかく、彼の家臣達はミレーユの矢を受けて怪我を負ったようである。逆臣達が怯んだ隙に、白百合騎士隊のサディーユ・ド・テリエやシヴリーヌ・ド・モンディアルも、シャルロット達の下へと辿り着いた。
「シャルロット様! 通路は押さえました!」
通路は既にジェルヴェとシメオンが確保していたようである。元々20年前の戦いにも従軍したジェルヴェは、普段は隠しているが近接格闘の達人だ。ベルレアン伯爵の側に控えているのは、その武芸の腕を買われてのことでもあった。
そして、シメオンも武のベルレアン伯爵家では目立たないが、並以上の戦闘力は持っている。
「サディーユ殿、シヴリーヌ殿、殿下を! 外に出れば、私に策が!」
シャルロットは屋外まで逃げて、シノブと連絡を取り魔法の家で呼び寄せるようだ。流石に広いとはいえ司令室の中や通路では、家一軒を出現させるのは困難だと思ったのだろう。
そんなシャルロットの意図はわからないものの、サディーユやシヴリーヌも希望を見出したせいか、表情に明るさを取り戻した。
「さあ、行きましょう!」
シャルロットは、再度王太子テオドールへと声をかけた。おそらく、館にいるフライユ伯爵家の家臣は全て敵に回ったのだろう。だが、シャルロットの眼差しに陰りはない。彼女はシノブと共有している光の魔道具に一瞬視線をやると、司令室の外へと走り出した。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2015年1月6日17時の更新となります。