表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
女神に誘われ異世界へ  作者: 新垣すぎ太(sugi)
第8章 フライユ伯爵の後継者
140/745

08.06 平原の攻防 前編

 ガルック砦の前に築かれたメリエンヌ王国軍の陣地には、各領からの後発隊が到着していた。

 決戦の前日。慌ただしく集う軍勢の中には、当然のことながらベルレアン伯爵領軍の後発隊の姿もあった。巡回守護隊や傭兵達など歩兵を中心に構成された後発隊は、ベルレアン伯爵を指揮官とする左翼へと合流していった。

 流石に、物資輸送を受け持つ民間人や鍛冶師などの職人は、戦地の手前である都市グラージュ近郊で待機している。ドワーフの鍛冶師トイヴァやリウッコ、イヴァールの妹アウネなどは、そちらにいる。

 だが、それ以外の大半、およそ1400名の兵士達が国境の地ガルック平原に集結したのだ。先発隊のベルレアン伯爵領軍および、その配下となった男爵領軍を合わせると1700名を超える軍勢。そして、ベルレアン伯爵の指揮下に入る王領軍およそ2000名もいる。

 後続の到着に合わせて本隊、右翼、左翼の再編成も行われたため、それぞれの陣地では慌ただしく到着の報告や配属先の確認が行われている。


「アロイス。後発隊の指揮、ご苦労」


 ベルレアン伯爵も左翼中央の大天幕の中で、後発隊の司令官アロイス・セルファティを(ねぎら)っていた。

 セルファティは巡回守護隊の一つを預かる将官であったが、部下の大隊長に隊を任せ後発隊の司令官となっていた。そして彼は、各守護隊から選出された三個の大隊を束ね、戦地へと進軍してきたのだ。

 歩兵を含めた後発隊の進軍速度は遅い。それ(ゆえ)夕方戦地に到着した彼らは、ベルレアン伯爵やシノブ達と領都セリュジエールで別れて以来、実に十一日ぶりに再会していた。


「もったいないお言葉」


 伯爵の言葉に、40代後半の落ち着いた武人であるセルファティは、恭しく一礼する。

 そんな彼の背後には、三人の大隊長が控えていた。熊の獣人ガスチアン・ゴロン、狼の獣人ゴベール・カンドリエ、人族のジュスターヴ・ラウルトである。

 全員30代後半であるらしい三人の大隊長は、種族のイメージをそのまま具現化したかのような外見であった。巨漢で隆々とした筋肉の持ち主であるゴロン。俊敏で用心深そうなカンドリエ。そして、獣人のような強靭な肉体は持たない代わりに知恵が回りそうなラウルト。特徴的な容姿の三人だが、今は大人しく司令官であるセルファティの背後で畏まっている。


「傭兵隊の皆も、元気そうだね」


 続いて、ベルレアン伯爵は傭兵隊の指揮官達へと声をかけた。

 傭兵隊は、セルファティの指揮下であるし人数もあまり多くはない。そのため、伯爵自ら言葉をかける必要はないかもしれない。だが、そこは気遣い溢れるベルレアン伯爵である。彼は三人の傭兵隊長へと、にこやかに微笑んだ。


「お言葉、ありがとうございます!」


 傭兵隊長の一人、エランジェ・カスタニエが、感激したような面持ちで伯爵に敬礼をした。

 三人の傭兵隊長は、中隊長格である。総勢100人の傭兵隊の中から能力、人格共に優秀な者を先代伯爵アンリが選抜したらしい。

 30代半ばのカスタニエが一段上らしく、傭兵隊全部を取りまとめているが、残り二人の熊の獣人イヴォン・ゲールと狼の獣人アデージュ・デュフォーも、シノブの見るところかなりの腕の持ち主のようである。

 30代前半らしいゲールは、同族のゴロンと同様に力自慢の大男であった。

 それと対照的に、まだ20代らしいデュフォーは、なんと女戦士であった。アンナと同じ狼の獣人ではあるが、彼女のような人当たりのよさは無いようで、鋭い目つきに訓練で引き締まった体の持ち主である。

 そんな両極端な彼らだが、どちらも歴戦の戦士らしい雰囲気を漂わせていた。


「疲れているところすまないが、明日は平原の確保に乗り出す。配置についてはマレシャル司令とダラス大隊長に確認し、終わり次第休んでほしい」


 ベルレアン伯爵は、挨拶が終わると早速指示を出す。彼の言葉に、先発隊を率いてきた領都守護隊司令のダニエル・マレシャルと、王領軍を(まと)めるエチエンヌ侯爵の嫡男シーラス・ド・ダラスは一歩前に進み出た。


 伯爵が言うとおり、明日はガルック平原を押さえるための重要な戦である。昨日の初戦を制し、陣地構築や解放した奴隷達からの情報収集に一日を費やした。慌ただしいが勢いに乗って平原中央へと兵を進め、帝国軍を撃破するか相手側の砦の攻略に取り掛かりたい。

 元々、何百年にも渡って帝国と国境で争ってきたから、王国側としても帝国を簡単に征服できるとは考えていない。帝都までは600km以上あるというし、その奥も同じくらい西に広がっているらしい。戦を制し停戦に持ち込む。できれば敵の砦を奪取し、平原を恒久的に確保したい。それが王国軍の狙いである。

 消極的とも思えるが、まずはそこまで。そこから帝国の情報を再収集し、以後に備える。王国の中枢や将官は、長い戦いで疲弊するよりは現実的な落とし所を望んでいた。


「はっ! しかし、初戦の大勝を聞き、疲れもどこかに行ってしまいました。進軍中の伝達方法もそうですが、シノブ様のご活躍に我らベルレアン伯爵領軍の士気は高まるばかりでした。

兵達も明日の戦が待ち遠しいでしょう」


 シノブは、後発隊司令アロイス・セルファティの言葉は大袈裟ではないかと思ったが、彼の後ろに控える大隊長達や傭兵隊長達も、深く頷いて同意している。

 その表情も明るく、とても一日の行軍をしてきたようには見えない。


「そうだね。シノブのお陰で、楽に勝てた。油断は禁物だが、我らには『竜の友』がついている。安心して戦えるというものだよ」


 ベルレアン伯爵の言葉に、集まった将官達は、明るい笑みを見せていた。



 ◆ ◆ ◆ ◆



 大天幕を歩み出たベルレアン伯爵とシノブは、そのまま中央の本陣へと向かっていた。ベルレアン伯爵は、本隊、右翼、左翼の三軍の指揮官が集まる最後の打ち合わせに出席する。そして、シノブもそこに同席することになっていた。

 彼らには、アミィとアルノーの他に、警護兼の側仕えとして二名の騎士鎧を身に着けた男が従っていた。

 アリエルの父でルオール男爵のエミール・ド・スーリエと、ミレーユの兄でソンヌ男爵の跡取りであるエルヴェ・ド・ベルニエだ。

 ジェルヴェやアリエル、ミレーユを都市グラージュに置いてきた彼らに、伯爵家で側仕えをしていたこともあるエミールとエルヴェが近習として名乗りを上げてきたのだ。


「しかしエミール。その年で従者の真似事などしなくてもよかろうに」


 ベルレアン伯爵は、僅かに苦笑したようである。彼は、隣を歩くルオール男爵エミールに(あき)れたような視線を向けていた。エミールは40歳を過ぎている。確かに側仕えとしては少し年を重ねすぎかもしれない。


「閣下のお側仕えなら、何歳でも喜んで務めます。爵位が何かの役に立つこともあるでしょうし」


 エミールは、伯爵の言葉に首を振って否定する。


「そうですな! それにフライユの家臣共の目つき。油断は出来ませんぞ!」


 エルヴェは、大声でエミールに同意する。巨漢の彼がいきなり張り上げた声に、周囲の兵は一瞬驚くが、伯爵一行と知り、すぐに作業に戻る。


──アミィ、兵士達もフライユ伯爵軍を警戒しているのかな?──


 シノブは、彼らの驚きが少ないのに戸惑っていた。確かにフライユ伯爵領内の進軍では、厳重な警戒を呼びかけていた。だが、(くつわ)を並べて戦う味方に対して、あまりに冷たい態度のように思ったのだ。


──そうですね。現場で接することが多いだけに、肌身で感じるものがあると思います。

兵達だって、生きて帰りたいのです。本当に信頼できるものが何か、それは本能的に察するのでしょう。

それに、彼らが守りたいのは自分の愛する人達です。そのためには、敵もそうですが味方も冷静に観察する必要があります──


 アミィは厳しさを含んだ思念を返す。彼女の表情も引き締まっており、10歳前後に見える外見にそぐわない大人びたものになっていた。


──そうだね。彼らを無事に連れ帰りたいね──


 シノブは、自身のような圧倒的な能力を持たない兵士達が、どんな心持ちか考えた。生還できるかという不安。戦果を挙げて出世できるのではという期待。家族や知人を守るために集まった兵士達にも、様々な思いがあるだろう。シノブは遠く国境まで来た兵士達の内心を想像しながら、会話を続ける伯爵達を眺めていた。


──シノブ様。彼らに手を振ってあげてください。みんな、シノブ様のことを見ていますよ──


 アミィの思念にシノブが兵士達を見ると、彼女の言うとおり兵士達はシノブに注目しているようだ。

 シノブは、アミィの促すような思念に押されたように、右手を上げて兵士達に微笑んでみせる。


「ブロイーヌ子爵、万歳!」


「『竜の友』シノブ様、明日もお願いします!」


 シノブが手を上げ笑顔を見せるのと同時に、兵士達が沸き立つような歓声を上げた。


「シノブ、なかなか気配りが上手いじゃないか。兵達の不安を取り除くのも指揮官の仕事だからね」


 ベルレアン伯爵は、少し足を止めてシノブへと振り返った。


「はい。名将とは、戦上手だけでは務まりません。士気を鼓舞し、戦場を選び、勝利への道を示す。シノブ様は、良き将への道を歩んでいるようです」


「閣下や先代様の薫陶(ゆえ)でしょうな!」


 エミールが伯爵の言葉を冷静に肯定し、エルヴェが感動した面持ちで叫ぶ。

 それに対し、アミィの助言を受けての行動であったシノブは、恥ずかしさに頬を赤く染めていた。


「兵とは、何かに(すが)って戦うものだよ。英雄、故郷、家族への思い。

……我が領の兵士達には、素晴らしい希望が示された。きっと、彼らは今晩安心して眠れるよ」


 ベルレアン伯爵は、照れたシノブを元気付けようと思ったらしい。彼は、シノブの肩に手をやりながら、笑いかける。

 そんなシノブと伯爵の仲の良い姿に、兵士達は一層歓呼の声を上げていた。



 ◆ ◆ ◆ ◆



「アミィ、そういえば、イヴァール達はどうしているかな?」


 本隊の陣地に入る前に、シノブは唐突にアミィへと尋ねた。

 彼は、一瞬何かを考えるような表情をしていたが、それは僅かなことであった。彼は足を止め、自身に付き従うアミィを見つめていた。


「……そうですね。ちょっと確認してきます。アルノーさん、シノブ様の護衛、お願いします」


「アミィ殿!」


 アルノーの呼び止める声も無視して、アミィは自陣へと駆け戻っていく。


「さあ、義父上、行きましょう」


 シノブは、怪訝な顔をして見守っていたベルレアン伯爵へと歩み寄り、本隊の陣地へと足を踏み入れた。


 本隊は、王領軍1000名にフライユ伯爵領軍4500名の計5500名である。シノブ達の左翼が3700人強、右翼も左翼とほぼ同数である。左翼の特色はベルレアン伯爵領軍と王領軍で構成されていることだ。それに対して、本隊や右翼は王領軍とフライユ伯爵領軍の混成部隊である。

 したがって本隊の陣地は、王領の兵士とフライユ伯爵領の兵士が混じっている。そして王領軍もフライユ伯爵を警戒して進軍してきたのだろう。そのため、両者の仲は険悪とまでは言わないものの、どこか緊張感が漂うものであった。


「奴隷に食わせるメシなんてないんだよ!」


「そんなはずはないだろう! ブロイーヌ子爵が大量に運んできて下さったはずだ!」


 シノブは、自身の名が呼ばれたので、慌てて声のした方向を振り向いた。すると、そこでは王領軍の士官と思われる者と、フライユ伯爵領軍の兵士が言い争っていた。

 どうやら解放した元奴隷達の食料が問題となっているようだ。フライユ伯爵領軍の兵士には獣人族が殆どいないため、獣人族である元奴隷達に対して隔意があるのかもしれない。


 実はシノブは伯爵と相談し、救出した彼らの分の食料を王国軍に供出していた。

 元々アミィの持つ魔法のカバンには、様々な事態を想定して多くの食料を入れていた。それに、ドワーフ達を魔法の家で後続隊から連れて来たときに、アミィは後続隊の荷の多くを魔法のカバンに移していた。そこで、他の輜重隊が来るまでの措置として提供していたのだ。


「シノブ。一つずつの問題に関わっていては、私達の仕事は進まない。おそらく、横流しでもしたのだろうが、ここで言い立てるよりは義兄上に相談すべきだ」


 ベルレアン伯爵は、シノブへと(ささや)いた。


「……はい、わかりました」


 シノブは、ベルレアン伯爵の言葉に頷いた。確かに、権限を無視して本隊のことに口出しするよりは、公爵から指示してもらうべきであろう。そう思ったシノブは、その場を立ち去ろうとした。


「ベルトワ! 言い争いはやめろ! 申し訳ございません。ただいま確認してまいります。

さあベルトワ、行くぞ!」


 シノブが再度争いの場に目を向けると、フライユ伯爵領軍の士官が王領軍の士官に頭を下げ、自領の兵士を連れ去ろうとしていた。


「ガリエ中隊長! こいつらに食料を……」


 ベルトワと呼ばれた兵士は不満げな顔となるが、上官らしい士官に(にら)まれ黙り込む。


「失礼しました、すぐ確認してまいりますので」


「ああ……」


 フライユ伯爵領軍の士官が低姿勢で謝るためか、王領軍の士官は毒気を抜かれてしまったようだ。そして場が収まったせいか、周囲の注目も薄れていく。


「フライユ伯爵領にも、筋の通った士官がいたようですな……」


 彼らに反感を(いだ)いていたエルヴェも、思わず感嘆したかのような声を上げた。


「そうですね。ともかく先を急ぎましょう」


 なにしろ、これからするのは明日の戦の最終確認である。のんびりしている暇はない。シノブの言葉に、エルヴェも我に返ったようで、再び大天幕へと大股で歩みだした。



 ◆ ◆ ◆ ◆



「グラシアン殿はいないのですか?」


 シノブは、大天幕の中にフライユ伯爵継嗣であるグラシアンの姿が見えないのを不審に思い、アシャール公爵に尋ねた。

 打ち合わせの場にいるのは公爵の他に、ベルレアン伯爵とシノブ、そしてマティアス・ド・フォルジェだけである。

 作戦の成否を握る密談であるから、人払いをして従者もいない。それは良い。

 右翼の主将で金獅子騎士隊の隊長でもあるマティアス、左翼の主将を務めるベルレアン伯爵コルネーユ。そして、本隊の主将で総大将であるアシャール公爵。ここまでも良い。だが、本隊の副将であるグラシアンがいないのはどういうことであろうか。


「彼には、前線の索敵を頼んだよ」


 アシャール公爵は、意地の悪そうな笑いと共に、シノブに答えた。どうやら、それを理由に追い払ったらしい。


「追い払ってなんかいないよ。彼も喜んで索敵部隊を指揮しに行ったよ」


 シノブの表情から内心の思いを読み取ったのか、アシャール公爵はますます笑みを深める。

 そんな子供のような公爵の仕草に、シノブは(あき)れを隠せなかった。だが、室内に彼ら四人しかいない状況は、そういう名目の下に作り出されたようである。


「どうせ、彼の前では本当のことを言うわけにはいかないんだ。でも、こんな辛抱も明日までだよ。

明日は、お互いに隠し事なしで語り合えるというものさ……剣でだけどね」


 やはり、アシャール公爵はフライユ伯爵家の裏切りは避けられないと思っているようだ。いや、そもそも避けるつもりなど無いのかもしれない。


「左翼はベルレアンと王家で固めたけど、本隊と右翼は王家とフライユだ。それも、フライユのほうが多いからね。

これで何もしないのなら、彼らの忠誠を信じてもいいけどね!」


 本隊は5500名、右翼が3700名である。それぞれ王領軍は1000名ずつしか配されておらず、残りはフライユ伯爵領軍である。アシャール公爵が言うとおり、裏切るなら絶好の機会であろう。


「義伯父上。もし、その状況で裏切られたら……」


 シノブは、アシャール公爵に問いかけた。もし、帝国軍が攻め寄せる中、側面から攻撃を受けたら。シノブは、本隊を率いるアシャール公爵や右翼を指揮するマティアスの顔を見つめて絶句した。


「当然、私の命はないだろうね。でも、それでフライユを粛清できるなら安いものさ。我が公爵家には跡取り息子もいるし、一族の存続には何の問題もない。まあ、レナエルの子供を抱けないのは残念だがね。

それに、私だってそこそこ強いんだよ!

死なずに帰ってくるかもしれない……そうは思わないかね?」


 アシャール公爵は、相変わらずの飄々(ひょうひょう)とした口調で、シノブに答える。彼の碧の瞳には、一点の曇りも無く、死を語っているとは思えない落ち着きようである。


「しかし、そうなったら、総崩れでフライユ伯爵領に攻め込まれるのでは?」


 シノブは、アシャール公爵が命を懸けてフライユ伯爵家の闇を暴こうとしているのは理解できた。

 本来ならじっくりと領内を調べればよかったのだろう。しかし、戦が始まり、そんなことをしている余裕は無い。戦ではフライユ伯爵家の助けを借りないわけにもいかず、強硬な姿勢で挑めば、それを理由に離反されかねない。

 あくまでフライユ伯爵家から弓を引かせたい。それはわかる。だが、その結果、王国軍の本隊と右翼が崩されては、戦は負けではないか。そう思ったシノブは、公爵の言葉を待つ。


「もちろん、君がいるからこんな大胆な策が取れるんだよ。君なら一人で勝つことだってできるだろう?

それは大袈裟だとしても、残った左翼だけでも充分勝てるさ。そう思って王領軍も半数預けたんだ」


 左翼3700名には2000名の王領軍が含まれている。公爵は、左翼にはフライユ伯爵領軍を配さなかったが、それには可能な限り多くの王領軍をシノブの下に付けたいという意図も含まれていたようである。


「まあ、裏切られたら私も左翼に逃げてくるから、そのときは助けてくれたまえ!」


 アシャール公爵は、そう言ってシノブの肩を叩いた。そんな彼の悪びれない様子には、シノブも苦笑いするしかなかった。


「……むしろ可哀想なのは、マティアスだね。右翼はシノブ君達の反対側だ。自力で山中にでも逃げてもらうしかないからね」


 続けてアシャール公爵は、マティアスを見ながら気の毒そうな顔をする。


「いえ。ベルレアン伯爵閣下の旌旗が掲げられている左翼のほうに、攻撃が集中するかもしれません。右翼は王家の旗とはいえ、あくまで軍旗ですから」


 彼が言うように、通常の軍旗と領主やその一族が用いる旌旗は、一瞥して判断できるようになっていた。旌旗の場合、その周囲は金の房で飾られている。それに、紋章自体にもそれぞれを示す意匠や文字などが加えられているので、同族でも区別できる。

 帝国がそこまで把握しているかはわからないが、より豪華な旗の下に高位の貴族がいると思って攻め寄せてくる可能性はある。


「そうなったほうが、マティアスとしては助かるかもね。

でも、我らが囮で本命が左翼。これは総大将としての決定事項だ。シノブ君は優しいから反対するかもしれないが、従ってもらうよ」


 アシャール公爵は、彼に似合わない冷徹な表情でシノブに告げた。


「反対はしません。ですが、一つだけ。

……アミィ!」


「はい! シノブ様!」


 シノブの言葉と共に、彼の後ろに、アミィが現れた。


「シノブ……それでは、アミィに用事をいいつけたのは?」


 驚きを隠せない様子のベルレアン伯爵は、シノブにその意図を尋ねる。


「ええ。グラシアン殿がいないと知っていたら、そのまま連れて来ても良かったのですが。

義伯父上。私達に押し付けて高みの見物なんて許しませんよ。義伯父上には、これからも一緒に苦労してもらいます」


 シノブは、アミィに姿を隠してアシャール公爵の護衛をしてもらうつもりであった。戦地への道々で、シノブも公爵が裏切りを考慮して動いていることは察していた。それであれば、裏切りを誘いつつも公爵の安全を確保する。シノブは、その方法を模索していたのだ。


「すみませんが、マティアス殿は何とかご自身で身を守ってください。アミィにも出来る限りは目を配らせますが……」


 シノブは、マティアスに申し訳なさそうな顔で頭を下げた。


「いえ、とんでもないことです! 王家を守る騎士として、ご一族である公爵閣下をお守りできればそれが本懐です!」


 マティアスは本心からそう思っているようで、きっぱりとシノブに答える。


「シノブ君……ありがとう。

……マティアス。一人で戻るのも恥ずかしいから、君も頑張って生き残ってくれたまえ!

それに、レナエルの子にマティアスとかいう名前をつけるような事態は避けたいからね!」


 しんみりとした表情でシノブに礼を言ったアシャール公爵だが、突然奇矯なことを言い出した。笑顔で宣言する公爵に、マティアスは苦笑するしかないようだ。

 そんなアシャール公爵とマティアスの様子に、ベルレアン伯爵やシノブは笑いを隠せなかった。アミィも含めた三人が上げる笑い声に、いつしか公爵も、そしてマティアスも加わっている。


 戦の前とは思えない和やかな空気の中で、シノブは自身の備えが無駄に終わってくれないかと願っていた。だが、いくつもの事柄が示すように、明日の戦いには何かが起きるのだろう。

 王国の行方を決めるかもしれない一戦。シノブは、今日出会った兵士達が一人でも多く生き残れるよう願っていた。


 お読みいただき、ありがとうございます。

 次回は、2015年1月2日17時の更新となります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ