07.22 フライユ伯爵領への道 前編
創世暦1000年12月9日午前8時、ベルレアン伯爵領軍の先発隊は領都セリュジエールを出発した。
先発隊は、総指揮官のベルレアン伯爵コルネーユ、継嗣シャルロット、その婚約者シノブを含む司令部と、領都守護隊の約200名の騎士で構成されている。
隊は伯爵家の高性能な馬車数台を騎士が護衛する形であり、歩兵や輜重隊を含む後発隊より足は速い。初日は領内という事もあり、なんと130km東方の都市ルプティまで進む予定である。
シノブが知っている事例だと、あの秀吉の中国大返しでは、およそ6日で約200kmを移動したはずである。もちろん全て均等な速度で移動したわけではない。例えば、高松城から姫路城の間は、80km近い距離を2日弱で移動したらしい。したがって、歩兵が混じった軍でも1日40kmを移動することは可能である。
とはいえ、それは歴史的偉業であり、そう簡単に実現できることではない。しかし、こちらの世界には身体強化がある。そのため、精強な軍隊とそれが保有する軍馬を使えば、充分現実的な行軍計画となるようである。
この世界の人類や動物の能力は、魔力の多寡や身体強化への適性で大きく異なる。常人ではせいぜい1割程度しか強化できないが、伯爵やシャルロットのような恵まれた素質と充分な訓練を積んだ者なら、一般人の数倍の能力を発揮することができる。
もちろん、軍人全員がそのような領域に達しているわけではない。だがシノブの見たところ、軍人も軍馬も、通常の倍かそれを上回る能力を発揮できるようである。
シノブ達は、12月17日にフライユ伯爵領の領都シェロノワでアシャール公爵率いる王領軍と合流する予定である。セリュジエールからシェロノワまで、500km弱であり、初日の行軍速度からすれば、遅いと言わざるを得ない。
だが、王領軍の到着前にシェロノワに入っても何かと問題が起きかねない。フライユ伯爵領に軍を送る事自体は、国王からの勅許状がベルレアン伯爵に与えられており理屈の上では領都に先に入っても構わない。
しかし領主のフライユ伯爵は、王領軍と共に来る予定である。彼が不在の状態で、他領の伯爵が我が物顔に居座るのもフライユ伯爵の家臣を刺激しかねない。そこで、アシャール公爵や王太子テオドールの到着をシェロノワの手前で待つことになっていた。
「……シノブ様の魔道具は非常に便利ですね」
伯爵の馬車に同乗している領都守護隊司令ダニエル・マレシャルが、あらためて感嘆したように呟いた。彼の隣では、本部隊長オーブリー・アジェが同感といった様子で頷いている。
都市ルプティへと向かう伯爵の馬車には司令部の者達が乗っている。マレシャルやアジェに加え、参謀総長ランベール・デロールなどの顔がある。
伯爵は当然として、シノブやシャルロット、シメオンは、彼らと馬車の中で今後の予定について検討を重ねているのだ。なにしろ、領都に12月7日の夜に到着し今日9日の朝出発したのだ。領都での実質一日程度の時間は、軍の編成や残る者達への伝達などで終わっている。
そのため、シノブ達はこれからフライユ伯爵領の領都シェロノワに入るまで、様々な事態を想定した打ち合わせを行うことになっていた。
「確かに。シノブ様のお陰で身軽に進軍できます」
参謀総長のデロールも上機嫌な様子で肯定する。彼は、従者用の席に座るアミィと彼女が持つ魔法のカバンへと視線を向けていた。
アルノーと並んでシノブの後方の席に座っているアミィは、皆の注目を受けて少し恥ずかしげな表情になった。だが、一同が感嘆の視線で見るのも当然である。
先発隊の荷は、なんと半分以上をアミィが持つ魔法のカバンに収納していた。全て入れることも可能だが、万一に備えてある程度は通常通り馬車や騎馬で運んでいる。取り出すときの手間も考え、そのようにしたのだ。
だが、それでも通常より非常に少ない荷で済んでいる。デロール曰く、これなら急げば3日でシェロノワに着くのも余裕だという。
「まあ、あまりシノブの魔道具に頼るのも問題だがね。とはいえ、何が起こるかわからない。身軽で困ることはないよ」
伯爵は、シャルロットの向こうに座るシノブへと笑いかけた。
彼が言うように、今回の行軍は20年前の援軍の時とは状況が異なる。フライユ伯爵に疑惑が掛けられている現在、彼の領地を安心して進めるかどうかも定かではない。
それを考慮して先発隊は、ベルレアン伯爵領はなるべく急いで進み、男爵領群がある中間地帯は通常の速度、フライユ伯爵領に入ってからは半分程度に速度を落とすことになっていた。
伯爵と司令部の面々は、フライユ伯爵領から敵地である可能性も最悪の事態として想定していたのだ。
「シノブ様は、戦闘奴隷の『隷属の首輪』も感知お出来になるし、大変心強いですな」
シャルロットの向かいに座っている、ロベール・エドガールが、厳格そうな表情を僅かに緩めてシノブへと語りかけた。
「ああ、今は問題ないよ。こんな領都の近くだから当然だけどね」
シノブは、皆を安心させるように、少し軽い口調で答えた。
ダニエル・マレシャルやロベール・エドガールは伯爵と同年代であり、シノブからすれば父親ほどの世代である。だが、今のシノブは子爵であり、彼らは伯爵家の家臣だ。シノブは、内心の違和感を押し殺しながら、伯爵の口調を真似ていた。
「ロベール殿の言うとおりですね。シノブの力があれば、敵兵の察知も容易になるでしょう」
シャルロットが言うように、戦闘奴隷が、シノブの魔力感知を誤魔化して接近することは困難であろう。常時威力を発揮している『隷属の首輪』を付けた彼らの存在をシノブは感じ取れるからだ。
シノブも強化の魔道具のように普段は使用しない物は察知できないが、その場合でも大勢の兵が発する魔力自体は感知できる。それ故、シノブやアミィと共に進む先発隊を奇襲するのは困難なはずだ。
「シャルロット様。どうか呼び捨てでお願いします。私は既に家臣となっておりますので」
厳格な軍人を絵に描いたようなロベール・エドガールは、シャルロットにやんわりと願い出る。彼の言葉が発せられた瞬間、車中の空気が一瞬変わったようにシノブには感じられた。
ロベール・エドガール。彼は、つい数ヶ月前まではロベール・ド・ブロイーヌと名乗っていた。そう、彼こそがシャルロット暗殺未遂事件に関与したマクシムの父であった。
子爵位を失った後にロベール・エドガールと改姓した彼は、元々武人としての能力が高かったこともあり、大隊長格として此度の戦に加わっていた。
昨晩、伯爵からそれを聞いたシノブは、ロベールが怒りのあまり暴走しないかと心配したが、どうやらそんな人物ではなかったようだ。伯爵によれば、マクシムとは異なり冷静な武人であるらしい。
「ですが……」
「シャルロット。ここはロベールの言うとおりにしよう」
ベルレアン伯爵は、躊躇いをみせる娘にロベールの意思を尊重しようと告げる。だが、そんな彼も僅かに寂しげな表情をしていた。
「閣下。お聞き届けくださり、ありがとうございます」
伯爵の言葉を聞いたロベールは、端然とした様子で頭を下げた。
シノブは、マクシムが裁かれたときに、ロベールが毅然とした態度を崩さなかったことを思い出した。息子を陥れた帝国やその手先に、彼は復讐したいはずだ。だが、そんな様子を表に出さないロベールに、シノブは尊敬ともいえる感情を抱いていた。
◆ ◆ ◆ ◆
先発隊は、予定通り昼前にセリュジエールと都市ルプティの中間にある草原へと到着していた。初日は、ここで昼の休憩をする予定であった。
途中の町の駐屯所などを利用しても良いのだが、安全な領内で訓練を兼ねて陣を張ってみよう、ということらしい。今回の先発隊は領都守護隊から選抜された精鋭である。普段から演習場などで訓練はしているが、指揮系統の確認なども含めた演習ということのようだ。
ある者は軍馬の様子を見て回り、ある者は昼食の準備をする。そんな中で、アミィは魔法の家を展開していた。
「シノブ様! どうぞお入りください!」
アミィのにこやかな笑顔に引き寄せられるように、シノブ達は魔法の家へと歩んでいく。
そして、シノブや伯爵とは別の馬車に乗っていたアンナやリゼット、ソニアの侍女達、従者見習いのレナンとパトリックの少年組が、昼食の準備のため足早に室内に入っていった。
伯爵や司令部の面々は、昼食の間も軍議を行うこととなっていた。
彼らは、戦闘奴隷から解放されたアルノー・ラヴランの知識を元に、ベーリンゲン帝国の地理や軍の編成などを把握したいと考えていたのだ。
アルノーや彼と共に解放された未帰還兵は、王都メリエでも監察官達から事情聴取を受けていた。国交の無い帝国の情報は、メリエンヌ王国側にはほとんど入ってこない。戦争で得た捕虜達の証言は、どこまで信用できるかわからない。
そのため、嘘偽りの無い情報を得るという意味で、解放された彼らの証言は非常に貴重であった。
「アルノー殿。帝都ベーリングラードまでは、600km以上あるというのは事実だったのですか……」
参謀総長のデロールが、驚きの中に多少残念そうな色を含んだ言葉を漏らす。
「はい。国境から帝都までで、領都セリュジエールと国境までの距離と同じかそれ以上あるようです。
私がベルレアン伯爵領の出身だと知った使役者が、そう呟きました」
昨晩、姉のロザリーやその夫ジュストと20年ぶりの再会をしたアルノー。彼は、たった一晩姉達と旧交を温めただけで、慌ただしくシノブの下へ馳せ参じていた。彼自身がシノブの側にいることを望んだためでもあるが、彼の知識が非常に有益であるからだ。
なにしろ距離や経路は、重要な軍事情報である。従来捕虜となった帝国兵は、様々な虚言で巧みに誤魔化してきた。300kmと言う者もいれば、1000kmという者もいた。もっとも、一番多い答えは『知らない』というものであったが。
アルノーによれば、帝国はメリエンヌ王国より若干広いらしい。東西に長い国土のようで、帝都から向こうもこちら側と同じぐらい東に広がっているようである。
逆に、人口はメリエンヌ王国より少ないらしい。使役者によれば、王国とは違って耕地と出来る土地が少ないらしく、その分多くは養えないようである。
使役者もメリエンヌ王国の人口を正確に把握しているわけではなかったようだが、王国の中では比較的人口密度の低いフライユ伯爵領を見て『こちらのほうが少し人が多いな』と呟いたそうだ。
「……そのときの口調からすると、そんなに大きく違うわけでもないようです。あくまで勘ですが、帝国のほうが一割から二割少ない程度だと思います」
国家体制は、皇帝親政らしい。現在の皇帝は第二十五代であるヴラディズフ二十五世。代々ヴラディズフの名を名乗るそうだ。
文官のトップは宰相、武官は大将軍。貴族はいるが、爵位は皇帝から授かったものという意味が強く、失策をすると子供や弟と挿げ替えられるという。
それは末端でも同じらしく、良くいえば実力主義のようだが、失敗した場合は死で償う、というのも珍しくはなく、アルノーも度々処刑の場に遭遇していた。
「私は、メリエンヌ王国に接するメグレンブルク伯爵領にいましたが、東のゴドヴィング伯爵領や、その向こうには行ったことはありません。ですから、帝都までの情報は詳しくありません。
その代わりに、国境地帯や比較的近い地域は、それなりに把握しています」
アルノーは、そう締めくくった。
「ありがとう、アルノー。食事を摂ってくれ。帝国の地理を確認するのは夜にしよう」
まだ、フライユ伯爵領までの道は長い。今回だけではなく、何度かの聞き取りを行うことになっている。
そのため、伯爵も10分程度の質疑応答を終えると、アルノーに労いの言葉をかけ、昼食を摂るように促した。
◆ ◆ ◆ ◆
食事を終えると、領都守護隊司令マレシャルをはじめ、将官達は慌ただしく外へと出て行った。彼らは、軍議だけではなく部下の様子も確認しなくてはならない。休憩時間は40分。陣を張り、片付ける時間を加えても一時間で出立する予定である。
それに対し、シノブや伯爵家の面々は、魔法の家で寛いでいた。先発隊に加わっているドワーフ達を取りまとめるイヴァールは、将官達と同様に彼らの面倒を見に行ったが、シノブやアミィ、そしてアルノーなどは、そのままダイニングテーブルを囲んでいる。
「レナンとパトリックも、随分慣れたようだね」
シノブは、姉達を手伝う従者見習いの少年、レナンとパトリックに声を掛けた。レナンはリゼットの弟、パトリックはアンナの弟である。商人出身のレナンに従士の家のパトリックと育ちは違うが、弟同士という共通点があるせいか、二人は仲良く働いていた。
「はい! シノブ様、従者見習いにしていただいて、ありがとうございます!」
パトリックは、アンナに良く似た黒い瞳を嬉しげに輝かせている。狼の獣人である彼は、茶色い毛の耳をピンと立て、同じ色の尻尾を元気良く振っていた。
彼は、姉と父ジュストがシノブの家臣となったため、自動的にその一員に加わっていた。シノブは10歳のパトリックが従軍するのに難色を示したが、こちらの常識からすると、主が出陣するのに家臣が付いていかないことのほうが問題であるらしい。
したがって、パトリックは父のジュストと共に、シノブの側仕えとして先発隊に加わっているのだ。
「ジュストさんやアンナさんから、色々教えて頂きましたので」
13歳のレナンは、背丈はアンナよりも若干高い。だが、まだほっそりとした少年らしい体であり、姉達と混じって働いていると、男装した少女のようにも見えなくもない。
彼は、姉と似た栗色の髪を掻き上げながらシノブに答えた。
アンナの父、ジュスト・ラブラシュリが家臣に加わった最大の利点は、この従者教育かもしれない。伯爵の館の衛兵を長年していただけあって、彼は侍従や従者について良く知っていた。武術の腕は並より上、という程度らしいが、アンナの父らしく彼は良く気がつき親身に少年達の面倒を見ている。
「そうか。それは良かった」
シノブも、突然戦地に連れて行くことになった彼らを案じていたので、ジュストの下で上手くやっているようだとわかり、安心した。
「シノブ、戦地では彼らは総司令部付きにする。だから安心していいよ」
シノブの内心を悟ったかのように、ベルレアン伯爵は二人を総司令部に残すと告げた。
総司令部とは、王太子テオドールが座す名目上の司令部だ。実際に全軍を指揮するのはアシャール公爵がいる王領軍本陣となる予定であった。
「ありがとうございます」
シノブは、若干不満げな顔の少年二人を横目に見ながら、伯爵に礼を言った。
◆ ◆ ◆ ◆
「シノブ様……」
シノブとシャルロットが魔法の家を出ると、そこにはロベール・エドガールが佇んでいた。
彼は、今回大隊長格として参加しているが、伯爵付きの武官という形であり、部下などは持っていない。そのため、彼は他の将官と違ってすることも少ないようだ。
ロベールは跡取りであるマクシムの一件で責任を取り、代官をしていた都市ルプティから領都に戻り隠居していた。だが、伯爵は彼の才能を惜しんでいたらしい。それ故彼に武官として再起する場を与えたようだ。
「……何かな?」
シノブはロベールの言葉を待った。
彼が、息子の死の遠因となった自分を責めるのかもしれない、と思ったからだ。もちろん、シノブは自身の行動に間違いはなかったと思っている。だが、人の心は、そんな簡単に割り切れるものではない。それは、まだ若いシノブも充分承知していた。
「息子を止めていただき、ありがとうございます」
ロベールは、波一つない水面のような静けさと共にシノブへと感謝の言葉を発した。そして、彼は片膝をついて騎士の礼をしてみせる。
「止めてって……俺はマクシムを罠に掛けて……」
シノブは、ロベールの意外な言葉に、思わず身分に相応しい口調も忘れてしまった。彼は、マクシムを死に追いやった、そう恨み言を吐かれても仕方ないと思っていたのだ。
彼の隣で、シャルロットも驚愕しているようだ。シノブには、彼女が息を呑む気配が感じられた。
「息子を、暗殺未遂で止めていただきました。シノブ様が街道でシャルロット様を助けなければ、息子は継嗣暗殺犯となっていたことでしょう。
それに、息子を躾けそこなったのはこの私です」
深々と頭を下げたままのロベールは、相変わらず静かな曇りの無い物言いを保っていた。
その穏やかな口調は、彼の本心を告げているとシノブにも感じられた。
「ロベール殿……」
「シャルロット様に申し上げたように、私は家臣。敬称は不要です。
シノブ様。私は貴方の恩に報いたい。このロベール、息子の代わりに貴方の手足となりましょう」
ロベールは、そう言うと腰に佩いた剣を鞘ごとシノブへと差し出した。
「シノブ……」
シャルロットに促され、シノブはロベールの剣を取り鞘から抜いた。そして、アルノーのときと同様に、騎士叙任の儀式を執り行い、彼へと返す。
「ロベール。これで貴方はシノブの騎士だ。過ぎ去ったことは忘れて、未来に生きるんだ」
いつの間にか、三人の側にいたベルレアン伯爵コルネーユが、叙任式を終えたロベールへと柔らかな声をかけた。彼は同年代のロベールを、透明で澄んだ眼差しで見ている。
やはり、伯爵もロベールが復讐したいという気持ちに流されないか心配していたのであろう。彼の優しげな口調から、シノブの脳裏には、そんな考えが浮かんだ。
「はい……閣下。老い先短い身ですが、シノブ様の為、伯爵家の為、そして王国の為に生きましょう」
再び帯剣し、立ち上がったロベールは、伯爵に気負いのない笑顔を見せた。厳格な武人という印象の彼だが、そうやって微笑むと若者のような快活さが感じられ、シノブには意外に感じられた。
「同じ年の貴方には『老い先短い』と言ってほしくないな。私はまだ20年は伯爵として頑張るつもりだからね。だから貴方も、20年間シノブを支えてくれないか」
従兄弟であるベルレアン伯爵の言葉に、ロベールは静かに頷いた。
そうだ、彼にはまだ未来がある。過去を悔いたなら再び前を見るべきだ。そう思ったシノブは、新たな道を踏み出すロベールとそれを祝福する伯爵を、温かな視線で見つめていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2014年12月10日17時の更新となります。