07.16 領都のシャルロット
「また出かけてしまうのですね……」
伯爵の館のシャルロットの居室。既に日も落ちてかなり経つが、彼女の部屋は煌々とした明かりで照らされている。だが、その室内には寂しそうなミュリエルを囲む心配げな女性達の姿があった。
領都セリュジエールに戻ってきたシャルロットが遭遇したのは、異母妹ミュリエルの悲しげな顔であった。彼女は、最初シャルロットや父であるベルレアン伯爵が思いがけなく早期に帰還したことを喜んでいた。
なにしろ本来であれば、新年を祝う王都の行事に出席してから帰還する予定だったのだ。そのため父と姉の一ヶ月以上早い帰還を、ミュリエルは満面の笑みで出迎えていた。
ミュリエルはシノブやアミィが居ない事を不審に思ったようだが、遅れて帰ってくるとでも考えたのであろう。それについて彼女は問い質すこともなく、行儀良く父からの説明を聞いていた。
そんなミュリエルの表情が曇ったのは、彼らが一晩逗留するだけで領都から旅立つかもしれない、と聞いた後であった。
もちろん伯爵達は、岩竜ガンドに乗ってヴォーリ連合国に行ったシノブ達が帰還してから出発するつもりである。しかし、シノブ達が早期に帰ってくるという保証はない。
シノブは大族長エルッキに帝国の侵攻を伝え、セランネ村で一泊して翌日すぐに引き返してくるつもりであった。とはいえ、ヴォーリ連合国で何があるかわからない。そのため伯爵は最長でもう一日だけ待つとシノブに伝えていた。
いずれにしても、最短一泊、最長でも二泊で伯爵達は戦場に旅立ってしまう。ミュリエルからすれば、早期の帰還で喜んだら、今度は確実に帰って来られるかわからない戦場へ父と姉が去っていくことになる。彼女が悄然とするのは当然であった。
「こればかりは仕方ありません。伯爵家に生まれた者の使命ですよ」
シャルロットは、妹に優しく諭すように語りかけた。彼女は暫く軍務を離れていたせいか、軍人めいた口調で話すことが少なくなったようだ。
帰還したシャルロットを出迎えた母のカトリーヌや伯爵の第二夫人でミュリエルの母ブリジットも、その変化には驚いていた。そして、以前と違い妹や使用人達にも柔らかい話し方をするシャルロットを、彼女達は嬉しげに見守っていた。
当然、ミュリエルも姉の口調が変わった事には気が付いている。彼女は尊敬する姉と親しげに話せることが嬉しいようで、以前にも増してシャルロットに懐いていた。
そんなミュリエルは、今日はシャルロットと離れたくない、と言い出していた。彼女は、一晩しか一緒に居られないのであれば今夜は姉と一緒に眠る、とシャルロットに嘆願したのだ。
これには妹思いのシャルロットは彼女の願いを聞き入れるしかなかったし、二人の夫人も苦笑と共に許可していた。それ故この夜、ミュリエルはシャルロットの居室に来ていたのだ。
晩餐にはミュリエルの遊び相手でもあるジェルヴェの孫のミシェルも招かれていたが、さすがに6歳の彼女は、母と共に侍女の部屋へと下がっていた。したがって、この場にはシャルロットとミュリエル、そしてアリエルにミレーユの他、数人の侍女がいるだけだ。
しかも、侍女といってもシノブ付きであった狼の獣人であるアンナに、新たにシノブの使用人となったリゼットとソニアがいるだけだ。要は、シノブと親しい女性だけが集まった形である。
そのため、シャルロットもミュリエルも普段は見せない素顔を見せているようだ。アリエルやミレーユ、そしてアンナのような長く仕える者達は、そんな彼女達の姿にある種の感慨を感じているようでもあった。
「シャルロット様の仰るとおりです。それに、シノブ様が一緒に居てくださるのです。何も心配なさることはありません」
アリエルも、シャルロットに続いてミュリエルへと優しく微笑んで見せた。
彼女が琥珀色の瞳に慈愛の色を込めると、落ち着いた性格のせいか年齢以上の安心感を醸し出すようだ。ミュリエルもそんな柔らかい雰囲気に気を取り直したのか、少しだけ明るさを取り戻した。
「そうですよね……竜を呼び出してヴォーリ連合国まで飛んでいけるシノブお兄さまが一緒なのですから……」
ミュリエルも、涙が滲んでいた緑色の瞳に年齢相応の元気の良さを取り戻した。なにしろ彼女はまだ9歳だ。湿った表情より、笑顔で居てほしい。それはこの場に居る全員の願いであったのだろう。彼女が微笑むにつれ、周囲にいる女性達の顔にも笑顔が戻る。
「大丈夫です! シノブ様は王都でも悪い人達を懲らしめて、アンナさんの叔父さんを救い出したりしたんですよ!
帝国なんか、シノブ様の敵ではありません!」
ミレーユも、シノブが王都で帝国の奴隷となった者達を解放したことに触れ、ミュリエルを元気付けた。
「アルノー叔父様が帰還されるなんて夢のようです! シャルロット様、本当にありがとうございます!」
侍女のアンナは、アルノーの20年ぶりの帰還について、あらためてシャルロット達に感謝の気持ちを伝えた。彼女とその家族には、家令のジェルヴェやラシュレー中隊長からアルノーの生還が伝えられていた。
あいにく、アルノーはシノブと共にピエの森に赴いてはいるが、間違いなくすぐそこまで帰ってきたと知り、アンナの母ロザリーや父ジュストは喜びに沸いていた。
アンナ自身はアルノーが未帰還兵となった後に生まれたのだが、父や母から聞いていた叔父の帰還を喜ぶ気持ちには変わりはない。彼女は、深々とシャルロットに頭を下げていた。
「お礼はシノブやアミィ、イヴァール殿に伝えなさい。私は王都で留守番をしていただけです」
シャルロットは、アンナに優しく微笑んだ。
アンナは、シノブ付きの侍女として配されていたが、そのままシノブの家臣になるつもりだという。彼女は、シャルロットには既にその意思を伝えていたし、父のジュストも同じ考えだと語っていた。
シャルロットは、シノブの考えを聞いてからとアンナに答えていたが、彼が断ることもないだろうと思ったのか、早速リゼットやソニアの世話をするように指示していた。
アンナと違いメリエンヌ王国の貴族家に仕えたことのない彼女達は色々学ぶべきこともある。このまま領都に留まるか、それとも戦地までシャルロットの世話をする為に随伴するかはわからないが、少しでも早く伯爵家に馴染むべきだと考えたようだ。
「シノブお兄さまは、他にも王女様をお助けしたり午餐会で魔術を披露したり……シャルロットお姉さま、もう一度お話を聞きたいです!」
ミュリエルは、晩餐会でも触れられたシノブの逸話を再び語ってほしいとシャルロットにおねだりをした。彼女は白銀に近いアッシュブロンドを大きく揺らし、姉の腕を掴んでせがんだのだ。
「ええ。何度でも話しますよ……」
今日は、ミュリエルを満足させないと寝ることも出来ないようだ。シャルロットがそう思ったか、それは誰にもわからない。アリエル達が目にしたのは、優しく妹を抱き寄せて己の婚約者が王都で成した出来事を語るシャルロットの姿であった。
◆ ◆ ◆ ◆
「シノブお兄さま、本当に凄いです……まるで、初代国王エクトル一世陛下やミステル・ラマール様のお話を聞いているみたいです……」
ミュリエルは、シャルロットの話を聞き終えると、陶然とした様子で呟いた。
建国王や彼を支えた聖人と比する妹に、シャルロットは複雑な笑みを浮かべていた。何しろ彼女はシノブやアミィの秘密を知っている。ミュリエルが言っている事が限りなく真実に近いという事を、彼女だけは知っているのだ。
いや、実はこの時点で彼の真実を知る者はもう一人だけいた。彼女の父ベルレアン伯爵である。魔法の家の拡張の件もあり、シノブはカルリエの町で宿泊した際にベルレアン伯爵にも自身の来歴を打ち明けていた。
シャルロットも同席の上で伝えた真実は伯爵を大いに驚かせたようだが、その反面、得心するところも多かったと見え、彼の説明に静かに聞き入っていた。
「そうですよね~、シノブ様は遠くの国からいらっしゃったと聞いていますけど、あちらではあんな人が沢山いるんでしょうか?」
そんなシノブの秘密を知らないミレーユは、彼の表向きの来歴を思い浮かべたらしい。『ニホン』という国に生まれ、遺跡で発見した魔法装置を調べていたら、いきなり稼動して飛ばされてきた。それがシノブが伝えた経緯である。
「ジェルヴェさんは、シノブ様の家柄は特別なものだ、と仰ってましたが……」
侍女としてシノブの下にいた時間が長いアンナは、同様にシノブと接することが多かったジェルヴェの感想を口にした。
ジェルヴェは、シノブが持つ魔法のカバンや魔法の家の特殊性から、彼の家柄を稀なものだと受け取っていた。そして、シノブもその誤解を正すことはなかったので、そのままアンナへと伝わったのであろう。
「シノブ様のように竜を鎮める方が大勢いたら、その国は世界中を従えることができるでしょう。いくらなんでもそんな国があるとは思えません」
アリエルは、同僚の想像を笑いながら否定する。
「……私は、アミィ様も凄いと思います。何でも完璧にお出来になりますし。
それに、幻影魔術……でしたか? 父からも聞きましたが、姿を消して忍び寄ったり別人に化けたりできるんですよね?」
同じ侍女のアンナが発言したせいか、リゼットもおずおずと自身の意見を口にした。
元々シャルロットからも、同年代の女性しか居ないから楽にしてほしい、と言われていたが、アンナが幾度か会話に参加したこともあり、彼女の言葉が口先だけではないと理解したようだ。
「そうですね。アミィ様は、ある意味シノブ様より凄いお方なのかもしれません」
アミィにより見出され従者に加わった猫の獣人ソニアは、その経緯ゆえ彼女の実力を一番知っている者と言えるだろう。そんなソニアの実感が篭った声に、他の面々も思わず頷いていた。
「シノブもアミィも素晴らしい人です。
そんな二人が仲間だなんて、私達は神々に感謝しないといけませんね」
シャルロットは、これ以上シノブ達の素性を詮索されると困ると思ったのか、神々の存在を持ち出した。
どうやら、神々の恩恵ということにして話を纏めようと思ったようだ。
「アミィさんは『素晴らしい仲間』ですけど。でも、シノブ様は違うんじゃないですか~」
シャルロットの思惑を知ってか知らずか、ミレーユはシャルロットに意味深な笑みを見せた。
「それは、どういうことですか?」
シャルロットは、腹心の言葉が意外だったようで、その青い瞳に疑問の色を浮かべながら問い返した。
「シャルロット様にとって、シノブ様は『素晴らしい伴侶』だということです。私達にとっては『主君』ですね。この場では敢えて『仲間』と呼ばせていただきますが」
今度はアリエルが、シャルロットに対して悪戯っぽく笑いかける。
「ミレーユ! アリエル!」
シャルロットは武張った言葉遣いをしていたときのような鋭い声を上げ、側近の二人を睨みつけた。
「今日は、同じ年頃の女性しか居ないから、楽にして良かったんじゃないですか~。
良いじゃないですか、素敵な男性と婚約できたんですから。シャルロット様の幸運を少しは分けて下さい! お願いします!」
ミレーユはシャルロットが本気ではないと悟っているのか、相変わらずの調子である。だが、後半は何だか真剣な様子が窺え、逆に滑稽であった。
「貴女にはシメオン殿がいるでしょう。最近、随分仲が良さそうですね。イヴァール殿にはティニヤさんが居ますし。私のほうこそシャルロット様の幸運を分けてほしいです……」
アリエルは同僚を攻撃対象にしたようで、ミレーユとシメオンの様子に触れるが、最後は自身のことを思い出したのか、少し悲しげな様子になった。
「あ、アリエル様は凄く人気がおありですし……すぐに良い方が見つかると思いますが……」
アンナが、そんなアリエルに対してフォローをしようと思ったのか、焦ったような口調で彼女を慰めた。
「アリエルは高望みしすぎなんですよ。シノブ様のことだって『シャルロット様がいらないなら私が貰う』とか言ってましたしね~」
なんと、ミレーユは同僚の過去の発言を暴露した。
「あ、あれはまだシャルロット様が決闘する前の話で……それに単なる冗談じゃない!」
シャルロットの前であるせいか、アリエルは慌てて否定をする。
アリエルは珍しく顔を真っ赤にして、ミレーユへと掴みかかろうとする。だが俊敏なミレーユは、高い身体能力を活かしてあっという間に飛び去っていた。
「冗談でも本気でも、シノブ様は無理ですよ。だって王女殿下が……あっ!」
飛び退いたミレーユは、普段は先輩として凛とした態度を崩さないアリエルの動揺が面白かったのか、さらに言葉を続けていた。だが彼女は急に口篭もり、ミュリエルのほうを見た。
「ミレーユさん? セレスティーヌ殿下に何かあったのですか?」
ミュリエルが、急に口を閉ざしたミレーユを、訝しげな表情で見つめた。
実は、国王がシノブに王女セレスティーヌを娶らないかと言ったことや、舞踏会での話はミュリエルには伏せていたのだ。ミュリエルがシノブに恋をしているのは伯爵達も承知している。そのため先ほどまでの晩餐の間も、彼らはその件については注意深く避けていた。
「ミュリエル……セレスティーヌ様は、シノブに好意をお持ちなのです。貴女と同じで……」
俯くミレーユや彼女を睨みつけたままのアリエルに代わり、シャルロットが真実を教える。
シャルロットは妹を案じるように優しく肩に手を添えながら、そっと言い聞かせていく。
「……シノブお兄さまは、セレスティーヌ殿下と結婚されるのですか?」
ミュリエルが蒼白な顔で、姉に問いかける。
この世界の貴族が一夫多妻とはいえ、三人以上娶るものは上級貴族でも珍しい。もちろん、居ないわけではないが、シノブを良く知るミュリエルは、彼がそういうことをするとは思えなかったのだろう。
なにしろシノブはシャルロット以外の女性に目を向けることすらなかったのだ。仮に複数の女性を妻に迎えたとしても二人まで。ミュリエルがそう思っても不思議ではない。
「シノブは、セレスティーヌ様のお気持ちを受け入れませんでした。今は、まだ……ですが」
シャルロットは、妹の問いに正直に答えた。
「そうですか……」
ミュリエルは、姉の言葉に、安堵したような焦りを感じたような複雑な表情を見せた。彼女は9歳である。そして、セレスティーヌは15歳。ミュリエルにとって、6年の差は、絶望的なまでに大きく感じられたのだろう。
「だ、大丈夫です! シノブ様は舞踏会でも公爵令嬢や侯爵令嬢にも全く靡くことがなかったんですよ!
ミュリエル様が大きくなるまで、きっとお待ちくださいます!」
ミレーユが意気消沈したようなミュリエルを、口早に元気付ける。
「貴女は黙っていなさい!
……ミュリエル様。シノブ様は、王女殿下と結婚しろと陛下に言われてもお断りになったそうです。
相手が王女殿下だからというだけではシノブ様の心を動かすことはできません。それはミュリエル様もご存知でしょう?」
そしてアリエルも、同僚に続いてミュリエルを慰めた。
「はい……そうですね」
ミュリエルは、二人の女騎士に笑顔を作ってみせた。
だが、それが彼女の本心からの笑みではないことは、その場にいる全ての者が理解していた。
◆ ◆ ◆ ◆
「シャルロットお姉さま……シノブお兄さまは、私のことを好きになってくださるのでしょうか?」
シャルロットの寝室で、姉と一緒のベッドに入ったミュリエル。彼女は、姉の胸に顔を埋めるようにして、小さな声で呟いた。
「……ミュリエル。私は、最初貴女のほうがシノブに好かれていると思っていましたよ」
シャルロットは、妹を労るように美しく長いアッシュブロンドを撫で擦りながら、静かに答えた。事実、彼女はヴァルゲン砦でアリエルやミレーユに、シノブを婿にするならミュリエルでも良い、と言ったこともある。それに、シノブと仲良く魔法の家に入る妹を見つめていたこともある。
それ故、彼女の言葉は、決して嘘ではなかった。
「でも、それは妹としてです。シノブお兄さまは、私のことをお嫁さんにしてくれるのでしょうか?」
ミュリエルは、続けてシャルロットに問いかけた。
彼女は、明日は戦地に去ってしまうかもしれない姉の答えが聞けるのはこの場だけだ、と思っているのかもしれない。か細い声で、だが退く事はなく、ミュリエルは自身の疑問を口にしていた。
「……シノブは、貴女のことを『嫌いじゃない、もう何年かしてから考える』と言っていました。だから、それまでに立派な淑女になりなさい。
『戦乙女』なんて呼ばれている私の言うことではありませんが……」
シャルロットは、ここでも嘘を吐くつもりはないようだ。
それは、真面目な彼女らしい答えであり、それだけに真実の重みを持っているようでもあった。
「シャルロットお姉さまは立派な淑女です! 私の理想の人です!」
ミュリエルはシャルロットの胸元から顔を上げ、きっぱりと言い放った。
「それは光栄ですね……でも、貴女は貴女の道を行きなさい。
シノブは、誰かの真似を無理やりしても好きになってくれないと思いますよ。あの人は、それぞれが自分らしく生きるべき、そんな風に思っているはずです」
シャルロットは、妹に優しく笑いかける。戦乙女として凛々しく見せる必要がない、妹と二人だけの空間にいるせいか、彼女の笑みは母のカトリーヌとそっくりの慈愛を含んだ優しいものであった。
「はい! 頑張ります!
私は私らしく、シノブお兄さまに好きになってもらいます!」
ミュリエルは、シャルロットの言葉に納得したのか、満面の笑みを見せた。
「さあ、もう寝ましょう。明日はシノブも戻ってくるはずです。寝不足の顔を見せたら嫌われますよ?」
シャルロットは、妹を元気付けるような、そして多少のからかいを込めたような口調で、そっと囁いた。そして、今一度妹の髪を、やさしく撫で付けた。
ミュリエルも、その表情を和らげたまま、再び姉の胸へとその身を沈めた。そして、二人は一つになったように抱き合いながら、眠りに落ちていった。
眠りに就いた彼女達は、きっと同じ夢を見ているのだろう。そう思わせるほど二人の表情は似通っていた。彼女達は、夢の中で愛する男の帰還を祝っているのではないか。そう錯覚するような、喜びに満ちた安らかな表情をしていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、2014年11月28日17時の更新となります。