07.01 新たなる動き 前編
ベーリンゲン帝国は、メリエンヌ王国の東方に位置する国である。
帝国は、人族と獣人族で構成された国家だ。人口のおよそ三割が人族で、残りは獣人族である。そして、獣人族は全て奴隷とされている。帝国では人族による一方的な支配が行われており、獣人族に自由はない。
この地方の国々で唯一奴隷制度を持つベーリンゲン帝国は、他の国家とは険悪な仲であった。もっとも、帝国の周囲は険しい山脈で囲まれており、陸路で直接行き来できるのはメリエンヌ王国だけだ。
そのため、帝国と衝突するのは事実上メリエンヌ王国だけとなっている。他の国家も帝国の行為を非難しているが、自国と接点がないため彼らの争いに関与することはなかった。
「ベルノルト、メリエンヌ王国はどうだ?」
玉座に座る偉丈夫が、臣下に短い問いを発した。
彼はヴラディズフ二十五世。ベーリンゲン帝国の第二十五代皇帝である。
「予想通りの動きを見せています。間者からの情報によれば、王女の成人式典が予定通り12月5日に行われるようです。そろそろ、各伯爵は王都へと移動し始めるでしょう」
ベルノルトと呼ばれた男、帝国の大将軍ベルノルト・フォン・ギレスベルガーが、玉座の前に跪き、恭しげに答える。
「そうか。ならば出陣だ。長年の宿願、今度こそは実現させるのだ」
皇帝ヴラディズフ二十五世は黒々とした顎鬚に手をやりつつ、重々しい声を響かせた。
既に四十も半ばを過ぎている彼だが、その容貌は精気に満ちており老化の気配は欠片も無かった。髪や髭も、黒く艶があり白髪などは見当たらない。
そして今でも鍛錬を重ねているのか、皇帝の肉体は現役の戦士のように引き締まっていた。君主に相応しい大柄な体が鋼のような筋肉で覆われていると、煌びやかな長衣の上からでも見て取れる。
「はっ!」
大将軍ベルノルトは、皇帝の言葉に深々と頭を下げた。
ベルノルトは大柄な皇帝よりも更に頭半分背が高い。しかしヴラディズフの人を寄せ付けないような傲然とした様は、むしろ皇帝のほうが巨人であるかのように周囲の者を錯覚させていた。
「我が国は平地が少なく気候も厳しい。帝国がこれ以上の発展を遂げるには、メリエンヌ王国から土地を奪うしかないのだ。帝都も悪くはないが、魔道具だけで隅々まで暖めるわけにはいかないからな」
ヴラディズフ二十五世は、そういうと周囲を見渡した。
帝都ベーリングラードの中心にある宮殿は、質実剛健な造りであり飾りは少ない。寒さの厳しい土地であるため、石造りの宮殿は窓も小さく、室内は明かりの魔道具で照らされている。
魔道具技術の発達したベーリンゲン帝国、それも宮殿の謁見の間だけあって、暖を取るための魔道具も充分に配されている。そのため11月半ばではあるが、謁見の間は快適な温度が保たれていた。
しかし皇帝自身が言うとおり、帝国中を魔道具で暖める事は不可能だろう。
「ギレスベルガー大将軍。絶好の機会ではあるが、仕込みは本当に上手くいっているのか?」
玉座の下手に控える宰相のメッテルヴィッツ侯爵が、大将軍ベルノルトへと問いかける。
皇帝と同年輩らしい彼は、濃いブロンドに碧の瞳をした痩身の男であった。メッテルヴィッツ侯爵は、綺麗に揃えられた髭を僅かに歪めながら、ベルノルトに気難しそうな表情をみせる。
「はい。先日ご説明したとおりです」
宰相の問いにベルノルトは簡潔に答えると、その灰色の瞳で彼を見つめた。
「ならば良い。では、勝利の報告を待っているぞ」
宰相は、ベルノルトの顔に曇りが無いことを見て取ると、深く頷き言葉を返す。
「必ずや、陛下の前に勝利を!」
ベルノルトは、その栗色の髪をした頭を床に触れんばかりに深く下げると、大音声で皇帝に誓った。
「ベルノルト、そなたに我らが神の加護があらんことを。期待しておる」
皇帝ヴラディズフ二十五世の言葉を受け、大将軍ベルノルトは立ち上がる。そして、謁見の間に列席する高官達も皇帝に唱和し、ベルノルトの勝利を祈念した。
◆ ◆ ◆ ◆
アドリアンとの決闘騒ぎの翌日。朝食を済ませたシノブは意外な人物達の来訪に戸惑っていた。
「リゼットさん達はわかるが、ソニアさんも?」
シノブは、伯爵家の別邸に現れた彼らに思わず首を傾げた。
別邸の応接室にいるシノブやシャルロット、そしてアミィ達の前には、ボドワン親子に加えてブランザ商会の店員ソニアの姿があったのだ。
伯爵家とも取引がある商人ファブリ・ボドワンが、彼の娘リゼットと息子のレナンを、シノブの使用人として雇ってもらえないかと頼みに来た。そこまでは以前シャルロット達が予想していたこともあり、理解できる。
だが、何故ソニアまで来たのだろうか。シノブには、ボドワン親子と共に現れたソニアの意図が理解できず、思わず問い返した。
シノブやシャルロットの側に控えるイヴァール達も、突然現れた猫の獣人に驚いているようだ。
アリエルやミレーユは、ブランザ商会で彼女と会っている。だが、初対面のイヴァールは彼女が何者かもわかっていないのだろう。ボドワンに向かって座るシノブには、彼がアミィに何かを小声で尋ねているのが聞こえていた。
「シノブ様、イナーリオ殿とは偶然館の前で出会っただけでして……」
シノブの対面に座るファブリ・ボドワンは、恰幅の良い体を縮めるようにして、彼に説明をする。
ボドワン商会は、ソニア・イナーリオが勤めるブランザ商会とは取引はあるが、資本関係などはないらしい。彼は子供達を雇ってもらいに来たのにシノブに悪印象を与えたらと心配したのか、その額に汗を滲ませていた。
「リゼットは侍女に、レナンは従者見習いとしてお側で鍛えていただければと思います。
二人とも商売のイロハは仕込んでいますので、きっとお役に立ちます。どうかお願いします」
ボドワンの言葉に、両脇のリゼットとレナンも頭を下げる。
恰幅の良い父親とは違い、小柄な女性であるリゼットと、少年らしくほっそりとして機敏そうなレナンは、一見似ていないように思える。だが、三人揃って栗色の髪の頭を下げている様子は、やはり血の繋がりを感じさせた。
「ボドワン殿、顔を上げてほしい。
リゼットさんは、先日もブランザ商会の案内でとても役に立ってくれた。私はこの国の民について詳しくないから、世事に長けた家臣は必要だと感じていた。だから、申し出はありがたく受けようと思う。
しかし、息子さんは跡取りではないのかな?」
シノブは、シャルロット達の進言もあったので、どちらか一人は従者にしても良いと思っていた。しかし彼は、二人とも希望するとは思っていなかった。そこで、シノブはボドワンがどう思っているか尋ねてみた。
「はい。確かに私の子供はこの二人のみです。ですが、当商会は武具を扱っております。レナンもシノブ様のお側で貴族様や騎士様について学ぶことが出来れば、商会に戻っても大変役立つことでしょう。
もちろん、そのまま従士としてお仕えさせていただければ、これに勝ることはありません。
私もまだまだ商会の主を降りるつもりはありませんし、何でしたら二人の子供に跡を譲っても構いませんので」
ボドワンは、シノブに嫡男のレナンも雇ってもらいたいと、熱心に頼み込んだ。
「シノブ様、お願いします!」
そして、レナンも父親の言葉に合わせて再び深く頭を下げた。
ボドワンの言うとおり、武具を伯爵家などに販売するボドワン商会であれば、貴族や騎士と繋がりがあって困ることはないだろう。
13歳のレナンは、見習い扱いであるため報酬もない。さすがに食事や身の回りの品々は支給されるが、基本的に無給である。だが、それらの不都合を補って余りある、将来に向けた投資となるのだろう。彼らは、必死な様子でシノブに頼み込んでいた。
「シノブ。貴族には従者見習いの一人や二人は必要です。ボドワン殿の子息であれば、きっと一生懸命働くことでしょう」
シャルロットは、シノブに柔らかい声で進言した。
確かに、少々慌て者ではあるが実直なボドワンである。その息子レナンも、きっと真摯に働くことであろうとシノブも思った。
「シノブよ。レナンは真面目な若者だ。雇って損はないと思うぞ」
アミィと共に控えているイヴァールも、そう口添えした。彼は戦斧の新調の際に、レナンと話す機会があったのだろう。そんな経緯もあってか、イヴァールは緊張した様子の少年を穏やかな視線で見つめている。
「わかった。……ボドワン殿、それでは二人とも預かろう。リゼット、レナン、よろしく頼むよ」
シノブはボドワンに頷くと、侍女と従者見習いになった二人に笑いかけた。
「ありがとうございます!」
ボドワンは満面の笑みを見せると、眼前のテーブルに頭を打ちつけそうな勢いでシノブに謝意を示した。彼の子供達も、父親と合わせて恭しさを滲ませながら深くお辞儀をする。
「小さな所帯だから遠慮しないでほしい。……アミィ、二人を頼むよ」
シノブは畏まった様子のボドワン達に笑みを向け、続いてアミィに声を掛けた。
先日アミィはベルレアン伯爵の前で騎士叙任式をし、正式にシノブの筆頭家臣にして騎士階級となった。そこでシノブは、従者となった二人の監督をアミィに任せるべきだろうと思ったのだ。
「はい! それではリゼットさん、レナンさん、一緒に頑張って行きましょう!」
アミィは、リゼットとレナンに元気よく微笑みかける。彼女の親しみがこもった笑みに、二人も笑顔を見せて「はい!」と明るく返事をした。
「あの……私はどうなるのですか?」
喜びに包まれるボドワン親子とは対照的に、リゼットの隣に座っているソニアがおずおずとシノブに声を掛けた。
シノブ達は、そういえば彼女もいたか、と顔を見合わせた。どうやら、ボドワン親子にかまけて彼女のことを忘れていたようだ。シノブは、金髪に猫のような金色の瞳をしたソニアを見やりながら、どうすべきかと思案した。
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