優しい泣き虫
雲上にある、樹上世界には雨が降らない。
その代わりに、定期的に水を降らす<雨樹>が樹上世界を潤す。その雨が降っている間は、表面積が多い木の葉を傘として雨に濡れないようにする。
だが、クヌギは手に何も持たず、帰路についていた。
頭を冷やしたかった。自分の情けなさを洗い流してほしかった。
涙をわからないようにしてほしかった。
フェンネルがくれた時間を無駄にしないようにと、ずっと考えていたのだが、どの選択も取れないままでいる。
そうして、トボトボと歩いているうちに、いつの間にか孤児院に戻っていた。
「あっ……」
ドアノブに手をかけたところで気づいた。このまま家族に合わせる顔があるのか。そんなことを考え、逡巡していると——勝手にドアが開いた。
「クヌギ?」
「……姉さん」
もう真夜中であるはずなのに——カトレアがドアから顔を出し、出迎えてくれた。クヌギが濡れて帰ったのを確認すると、カトレアは心配そうにクヌギの手を取った。
「あなた、ずぶ濡れじゃない……。そのままでは身体を壊すわ。早く上がりなさい」
「でも、僕は……」
「話は後で聞くわ。いいから今は言うこと聞きなさい」
「……はい」
言われるがままに、カトレアに連れられ、温かな服に着替えた。
居間に戻ると、温かな紅茶が用意されていた。それで身体を温めろという意味なのだろう。冷え切った指先がカップに触ると、ほのかな温かさが灯った。
「少しは落ち着いた?」
「……うん。ありがとう姉さん」
部屋全体を照らすには少し足りない灯りの中、クヌギは紅茶を飲み終わった。甘く染み渡る味が、何よりもおいしかった。
「それで、ルナリアには会えた……わけじゃないようね。あなたのそんな辛そうな顔、久しぶりに見たわ」
「そう、かな」
「そうよ。だてにあなたのお姉ちゃんを何年もやってないのよ?」
クスリと笑うカトレア。一緒になって暗くなるよりも、そうやって笑顔で笑いかけくえるほうが、何倍も嬉しい。
だから、姉には全てを打ち明けなければならない。
「本当に、どこから話せばいいのかな……」
ルナリアの覚悟を、自分の弱さを、本当にどこまで晒せばいいのだろう?
甘えてはいけない。縋ってはいけない。その線引きが本当に難しい。
そして、クヌギは考えるようにポツリ、ポツリと話し始めた。
ルナリアの出生にまつわること、彼女の決意と覚悟。ただし、自分が樹士になるかについては、ついに言えないままだった。
その話にカトレアは、話を聞いても横槍を挟まず、頷き、相槌を打ち、クヌギが話しやすいようにしてくれた。しかし、いつも落ち着いたカトレアといえど、話が進むうちに少しずつ、痛々しい表情になっていた。
話すことで、少しだけ胸のつかえが取れた気がした。何も解決も決断もしていないのに、本当に自分は中途半端な存在だと思った。
何もできていないのに、それなのに、家族を守りたいと言い張って、リーフ、フェンネル、ルナリアの覚悟にすら到達していない。なのに、こうして自分は誰かに話を聞かせることで救われた気になっている。
情けなさに涙が出そうだった。
「そう。ルナリアにそんなことがあったのね。お姉ちゃん知らなかったわ」
幾分か驚いたカトレアも、紅茶を一口啜り、落ち着きを取り戻していた。
「クヌギ。あなたも大変だったわね」
労った姉の言葉に、
「違うっ!!」
クヌギは強い反発を覚えた。
「僕は何もできちゃいない! 何もしちゃいない! 何も守れていないんだ! 本当に大変なのはルナリアだ……。なのに僕は何一つ……決められないんだっ!!」
わかっている。カトレアにこんなことを言っても何も解決にならない。でも、高ぶる感情が、抑えていられなかった。
「何で……僕はこんなに弱いんだっ。家族も、大切な妹一人すら守れないんだよっ……」
もう堪えていられなかった。張り詰めていた一線を超えて、クヌギの両目から涙が溢れ出した。
そんな、クヌギを——カトレアは抱きしめた。
優しく包み込むように。大切な家族を守るように。そっと、ずっと、ぎゅっと。背中をトン、トンと叩く。
「あなたの泣き虫は……本当に変わらないわね」
姉にそう言われてクヌギはまた涙を零す。
いつだってそうだった。カトレアの前では、いつも泣いてばかりだった。
昔から——子供の頃からクヌギはよく泣いてきた。転んだら泣いて、誰かが泣いたら泣いて、綺麗な景色を見たら泣いて、ずっと泣いていた子供時代だった。
「あのね、クヌギ。お姉ちゃんが孤児院を出た日のことを覚えている?」
覚えている。あの日が一番泣いていたからだ。
大好きだった姉がいなくなる日。わんわん泣き続け、嫌だと駄々を捏ねた。でも、その時のカトレアの一言が、その後のクヌギの人生を変えた。
――今日から、クヌギがお兄ちゃんになるのよ。
だから、泣くのは今日で終わりにしようと思った。姉のように強く、優しい人になろうと思った。弟や妹に頼られるような強い人に。
そう決意したとき、ルナリアに出会った。
悲しそうに泣いていたから。淋しそうに泣いていたから。
僕は、この子のお兄ちゃんになろう。そう思ったのだ。
「あの頃のクヌギは本当に泣いてばかりいたわね」
「そう……だったかな」
「えぇ、泣き虫さんだったわ」
――だけどね。
「お姉ちゃんも、結構な泣き虫だったのよ。孤児院を出てから一人で生きるようになってからはね。皆のことを思い出してはすごく泣いちゃった」
――これは内緒ね。くすっと笑ってカトレアは続ける。
「そこで初めて気づいたことがあったの。人の役割っていうのは代わりがきくんだってね。ううん、ちょっと違うわね。補える――という方がしっくりくるわね」
人の役割は補える。ちょうど、リーフがクヌギの代わりにルナリアを守るように。
「仕事をするようになって、そういうことに直面してね。お姉ちゃんも随分悩むようになったわ。私の代わりがきく。私がいなくても大丈夫なんだって。それが、とても悲しくて、淋しい気持ちになったものよ」
今の自分も同じだ。ルナリアを守れないと気づいて、悲しくて淋しい気持ちで押しつぶされそうだ。なのに、大切な家族を守る。それを選べないでいる。
「そんなときにね、いつも思い出すのはあなたたちのことだったのよ。クヌギがしっかりし始めて、ルナリアが来て、今よりもっと小さかった子供たちのこと」
昔を懐かしむように、カトレアは遠くを見る。
「そこまでいって、ようやくわかったことがあったのよ」
「それは、何なの?」
姉は何を言いたいのだろう。
人の役割は補える。ならば……ルナリアを守るのに兄であるクヌギの役割も補える。だから、これ以上がんばらなくてもいいのだ。そう言うつもりなのだろうか。
でも、それは全然違った。
「あなたたち家族のことを愛してるわ」
満面の笑みで、そこにだけ花が咲き誇るように、姉の笑顔は美しかった。
「お姉ちゃん。本当の意味で、それがわかったのよ」
胸に、心に、手に、熱がこもる。
家族を愛している。その言葉の重みが、姉の手から伝わってくる。
「でも、僕は……どうしたいのか、何をすべきなのかわからないんだ」
誰かに教えてほしい。誰かに決めてほしい。
だけど、それは甘えでしかなく、自分の意志はどこにもない卑怯な行為だと知っていても、尋ねずにはいられなかった。
「ううん。違うわクヌギ。どうしたいのかも、どうすべきなのかも考えてはダメ」
姉の指先が、クヌギの唇に触れる。
「本当に大切なことは言葉にすべきよ。だけどね、大切なことがわからないのに言葉にしたらダメ。そうね。それは、種が土の中で芽吹くように、花になるまで大切にしないと枯れてしまうものなの」
カトレアの両手がクヌギの頬に添えられ、真っ直ぐとクヌギの瞳を捉える。
「あなたが大切だと思う種はどれ? クヌギが大切に思う、花を咲かせたいと思う種を、クヌギはまず見つけないといけないの。目を閉じて、そっと思い浮かべなさい。それがきっと、あなたが育てるべき種よ」
そっと、クヌギは瞳を閉じた。
僕が大切にしたい種。僕が見つけなければならない種。
それを見つける。
それがわかって初めて言葉に出来る。
どうしたいのかも、どうすべきかも、まだ何もわかっていなかった。
何もわかっていないのに決断しようとしていた。
大切なもの。それはずっと家族を守ることだと思っていた。
……いや、そんなことを考えるのもだめなのだろう。
そっと、思い浮かべる。
言葉にする前の、大切な種。
それは――……。
「あ――」
心に一つの光景が思い浮かんだ。
吹けば消えるような、儚いものだけれども、確かにそれを視た。
「それがあなたの種よ」
そっとクヌギの顔から手を離したカトレア。
「さぁ、後は何をするのか。わかるわよね? あなたは……お兄ちゃんなんだから」
クヌギは自らの胸に手を当て、ギュッと握り締める。
「……うん。ようやく、僕にも少しだけわかったようだよ」
まだ花も咲いていないけれど、確かにそれは胸にある。
それが――覚悟の種子。
「それじゃあ、お姉ちゃんからの最後のプレゼントね」
カトレアが、居間にある扉を開けると――弟や妹たちが張り付いていたようで、ドタドタと入ってきた。
「お前たち……!」
もう月さえ眠ってしまうような夜も遅い時間なのに、いつもなら寝ているはずの子供たちが起きていた。子供たちは、クヌギの服を掴んで言った。
「クヌギにぃ、ルナちゃんを助けに行くんだよね?」
「クーにぃがいない間に、わたしたち決めたんだよ!」
「うん! クーにぃやルナちゃんいなくても良い子で待ってるって!」
「なんだよ! それ言ったのオレじゃんか!」
「みんなで決めたことじゃないか~!」
「そうだよ、そうだよ!」
ワイワイと子供たちは元気よくはしゃいでいた。
「あのねあのね。カトレアおねえちゃんが言ったの。クーにぃのやりたいことをやらせてあげようって」
「だからね。ぼくたち一杯考えたんだ!」
「みんなでここを守るって!」
「クヌギにぃやルナちゃんが心配しなくても大丈夫だよって!」
昔を思い出す。カトレアが出て行ったときの自分の姿だ。
「もう泣かないって決めたんだけどなぁ……」
それでも、子供たちの心が優しくて、温かくて、涙で視界が滲んだ。
「あ、でも、たまには帰ってきてほしいな」
「そういうこというなよ!」
「何よ! クーにぃいなくなるのやだってわがまま言ったくせに~」
「ばっ、そ、それをいうならルナちゃんいなくなるの嫌だって泣いたじゃないか!」
「いいじゃない! 家族なんだから!」
何を思い上がっていたのだろう。子供たちがまだ小さい? だから守らないと、大きくなるまで待っていたいのだと?
そんなことは全然ない。知らない間に、こんなにも大きく頼もしくなっていた。
小さな小さな宝物が、いつの間にか守られる存在でなく、誰かを守る存在になっていたのだ。カトレアもこんな気持ちだったのだろうかと、クヌギはようやくわかった。
そして、クヌギは子供たちを両手一杯広げ抱きしめた。
「ありがとう、お前たち。兄ちゃん、とっても嬉しいや」
守られていたのはクヌギの方だった。
姉に、妹に、子供たちに。
まだまだ独り立ちをできていない子供だったのだ。
だから――クヌギは告げる。旅立ちの言葉を。
「今日から、お前たちがお兄ちゃんとお姉ちゃんになるんだよ」
ボロボロとあふれ出る涙が止められなかった。笑っているのに涙が次々と出てきて、涙が出てくるのに笑顔が浮かぶ。
『うんっ!!』
迷う必要はあった。
苦しむ必要もあった。
それは、最初から全部杞憂だったのかもしれない。
それでも、それがあったからこそ、前を向くことができる。
「クヌギ。これを」
カトレアは荷物と剣を用意していてくれた。
姉は最初からわかっていたのだ。クヌギが旅立つことを。
それを取るこの手にもう迷いはない。
「ありがとう。姉さん」
外套を羽織り、剣を腰に付け、荷物を持った。
「あなたも旅立つときが来たのね」
「必ず帰ってくるよ」
「当たり前じゃない。家族なんだから」
互いに笑い合う。繋がりの笑いだ。
これ以上の言葉は要らない。次に会うときは、家族が全員揃ったときだ。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
そうして——家族に見守られた兄は、大きく優しい巣から飛び立って行った。




