卒業は突然に
極寒の池に置き去りにされ、その後も暫くお風呂に浸かれなかったカヲルは身体を冷やし、翌朝風邪をひいていた。今日退治する妖怪の出現場所は徒歩の近場だからよしとして、氷のうが三秒で水になる熱で行けるのだろうか。
「せっかく私が作ってやったのに、お粥一口も手をつけてないじゃない。食べなくちゃ治らないよ?」
「やはり、食べなくてはならんか? ごほっ、げほっ、……食べさせてくれたら、頑張って食べる」
「仕方ないなぁ」
カヲルの風邪は完全なる私の罪である。罰を以て贖罪を成そうと熱々の粥に息を吹き掛け、色のない唇へレンゲを運んだ。
「……ふはぁあ?」
「ふはぁあ?」
カヲルが頓狂な声をあげ粥をみつめ倒す。ふやけ膨らんだ白い米粒に恋でもしたか。
「なにこれ、美味いんだけど!」
「なにこれとは何だ、なにこれとは」
「千のことだから、塩と砂糖間違えた結果焦がしキャラメリゼなプリン粥を想像していた」
「砂糖なしの平安京で間違えようがないでしょうが」
「有り得るのか……天が二物を能えることなど……有り得るのか……眉目秀麗な眼鏡女子といえば、九割の確率で料理下手だろうが!」
ここは不味い粥をリバースして風邪こじらせるパティーンじゃないのかよ、と変態ヲタ満開で詰ってくる。私の拳が殴りたい欲求を抑え込みふるふると震えている。殴られ風邪こじらせるパティーンにしてやろうか。
「いや……ほんとに美味いよ、鼻詰まってるのにちゃんと味がする」
「お出汁が決め手なのだ」
ふふん、と胸を張る。
不知火神社が祀る氏神様は美食家で知られる。盲目であるが故に舌が敏感。下手な料理は神前に御出しできない。そのため不知火家の女は三歳で包丁を握らされ、十五には一人で神御膳を出せるまでに修業を積む。精進料理などお手の物。
カヲルは風邪のひき始めなので、粥には風味の強い昆布だしと喉に通りやすいよう生姜汁を加えている。
食欲がわいてきたのか粥だけでなく、付け合わせのネギ味噌やリンゴの甘煮まで平らげた。
「あぁくそっ、文化祭で白玉任されてる時点で気付くべきだった。胃袋まで掴まされるとは、人生最大の不覚」
「どうだっ、惚れ直したか」
「後生だから、これ以上夢中にさせないでぇ」
後生だというがカヲル本体は既に布団から這い出しゾンビの扮装で悶死している。私の足首をつかもうとする手を布団にねじ込み立ち上がった。
「死にたくなければ大人しく寝てな」
「阿呆、一人で行かせられるかっ、俺もいく」
私はそんなに頼りがないだろうか、金髪ゾンビが赤いチャンチャンコを羽織りゼー、ハー、後をついてきた。
依頼状に書かれている特徴を見る限り、手間がかかる妖怪とは思えない。古木の枝にぶら下がる馬の首、《さがり》。目があったものは三日三晩熱病に侵されるというが、奇声をあげる程度で悪さはしないし、一躰きりだという。だが知らぬ旅人が通りかかっては事だ、人通りの多い街道から人里離れた森へ移して欲しいという、宿場からの頼み事だ。
地図が指し示すその近隣には「馬面に注意」という全く警戒心が高まらない看板が幾つも立てられている。
不注意になりましょうと、ウキウキ懐をまさぐる。
「さてさてニンジン、ニンジーンと」
「阿呆、腕ごと啖われるぞ」
「ちゃんと苦慮したも──」
「全くお前は……、俺がやる」
「人の話をきけぇ!」
ふーら、ふらとゾンビ陰陽師がカタカタカタと抜刀し、道のど真ん中で太刀を天へ翳す。道行く人々はいい若者が赤いチャンチャンコで鼻水垂らして何事かとチラ見していく。ごめんなさい、見ないでやってください。
「卍 解!」
……………………………………………………………………………………………………本当にごめんなさい、見ないでやってください。
カヲルの霊圧は馬面も絶句のファールで明後日の方向へ飛んでいった。
「野次馬集めて死神ごっことかやめてくださる!?」
「いや、卍解すればスピード上がるかと思って。スピード上がりすぎて飛んでいってしもうた」
「運動会で一等とりたい小学生か」
「すまない、俺はもう……手遅れだ……」
──お前がやるんだ、千。
戦国武将さながら豪快に倒れたが、もう物凄い邪魔。目立ちたがり屋の志か。母子が「見ちゃいけませんっ」といく足を急ぐ。馬面と一緒に人里離れた森で還れ。
草むらまでカヲルを転がし、ふぅと一息、心を落ち着かせる。
「よし、大丈夫。落ち着いて、慎重に」
近場に生えた楠の適度な高さの枝にニンジンの折り紙をくくりつける。目を瞑り呪を結べば、直ぐにさがりの妖気は頭上へと移動した。次の段階へ入りたいが気付かれてはアウト、失敗したらカヲル同様次はない。焦らず、ゆっくり。
「……今だ!」
さがりが楠の木に根を生やした瞬間を見計らい、もう一度呪を結んだ。
私の体躯を上回る白カラスがさがりの憑く枝をクチバシで折り、羽根をひろげる。枯れ葉を吹雪かせ枯れ枝を脱い、上空へと羽ばたいていく。森奥深くを指差せば、そちらを目指しカラスの白い羽根は消えた。
「やっ、た?」
脱力し道端で腰を落とす。ふるふる髪を振り乱し辺りを見回すがさがりの妖気はない。平穏を象徴するように、見物人達がこちらに近付き手を叩いた。
温かい喝采に囲まれながら沸き上がる達成感。初めて一人で依頼を成し遂げられた。今の私、嬉しくて泣きそうになってるかも──。
「上出来だ、千」
歓声に紛れ、弱々しい師匠の声が背後の草むらから聞こえた。
「カヲル! 私、できたよ!」
「あぁ、凄いよ。折り紙の特質を利用した、見事な妖術だった」
さがりは一度宿り木に根を生やせば、直ぐにその場から離れられない。予めカラスと印で結んだ枝へ、さがりを惹き寄せることさえできれば、後は指示通り枝を摘んでいってもらうだけ。カラスを選んだのは人目のつかない山奥に巣をつくる、特有の習性を利用したかったから。柿を食い荒らすカラスは疎ましいが嫌いじゃない。地味で嫌われもの、私に似ているから他の鳥に比べ愛着はある。
カヲルにべた褒めされ、心踊る。今日は吉日だ、カヲルに二度も褒められた。
「さぁ、帰ろう! 帰ったらまたお粥作ってあげる!」
「それがさっきの卍解で足腰も立たんのだ」
「ちょと待て、私が失敗したらどうする気だったの」
「成功すると信じてたさ。それでもついてきたのは親心というやつで──」
立たせようと掴んだ手は氷のように冷たく、思わず離してしまった。カヲルはそんな私を弱々しく笑った。
とんだ足手まといだな、と吐く息は心臓が跳ね上がるほど熱い。
「悪い……、邸まで運んでくれ……」
「その無駄にデカイ図体をどうやって」
「そうだな……お願いだから……怒ってカラスに喰わせるなよ……」
その言葉のまつりは呪となり、呪のまつりは私を奈落へ突き堕とす。
「卒業、おめでとう」
そして草むらに残されたのは赤いチャンチャンコ。その下には小さな三毛猫がとぐろを巻き、消え入りそうな鳴き声で「にゃぁ」と一鳴き、目を閉じた。
*
舌をだし、白く熱い息を断続的に吐くミケを胸に抱き高台を目指す。疲れた身体を引きずり坂を登りきる頃には陽が沈みきっていた。闇に沈む邸は夜の帳を下ろし識神の気配さえ感じられない。母屋へ渡る際に母上のいる北の対へ視線を移したが、そちらはもうしっかりと戸締りがされていた。
「まだ知らないこと、たくさんあるのに……」
人へ戻す方法など教わっていない私は、ミケをチャンチャンコにくるませたまま御帳台へ寝かせ、ただ憮然と立ち尽くした。
師匠を介抱できない弟子がどうして卒業だ。
怒るな、だと?
猫に卒業宣告された私の身にもなって欲しい。
カヲルが猫に化けれるなんて聞いてない。教示されてない。
陰陽師の醍醐味は騙し騙し合いさ、隠し事のひとつやふたつ許してもいい。
でもこんなの酷すぎるよ。
鏡都へきたらいつもミケと寝ていた。今までずっとカヲルと二人で寝ていたってこと?
相槌をうつ健気なミケも、胸に埋まる可愛いミケも、キスを求めてくるミケも、全部、全部──。
「ばかっ、馬鹿、ばか、馬鹿!」
といいつつも可愛いミケたんにバイオレンス機能は働かず、ハッと気がつけばふかふか毛布をぐるぐる巻きにして、ミルクと白湯を容れた皿を並べていた。
とにかくもう、さっさと自身の御寝所へ引きこもり戸締りしてしまおうと回廊をずかずか渡る。
「私の気持ち、全部知ってたんだ」
変態だ、ヲタだと蔑みツッコミ倒し、気丈に振る舞っていた自分が恥ずかしい、この上なく憐れでならない。
カヲルは女子高生の乳に埋もれて眠りたいがために帳台へ潜り込んだのだろうが、待っていたのは猫好きの私が語る、カヲルへの想い。
私が喜ぶだろうと思って、やけに抱きついたり、褒めたりしていたんだ。髪を下ろしたりグロス塗ったりしているのをみて、きっと心の中で笑ってた。背負い投げされながら、陰で私を嘲笑してたんだ。
本当は俺のことが好きなくせに──っ、て。
残された揚力を使い蔀を総て下ろし、渡殿の妻戸には掛け金をつけた。これで一晩は誰も入れない。今直ぐに日本へ帰ろうと不知火家の識神を探す。銀髪の少年で名はシオン。喚んでも現れないあまのじゃくな桜の精だ。
「シオン……どこなの?」
戻る頃には火鉢を焚いておくように言付けていたのに、部屋の中は外と変わりない凍てつく寒さだ。あいつ、私に似て本当に怠惰な奴だ。
月明かりも防いだ深い闇のなかを一人、仄桜の光を求め彷徨う。
やがて内に小さな灯りをみつけ白い安堵の溜め息を吐き、辿るように几帳を潜る。
だが屏風に映っていたのはシオンの褐衣ではなく、艶やかな胡蝶蘭で彩られた、豪奢な唐衣裳だった。
「あら、御自身で巣穴に戻られたの。泥棒猫さん」
鈴の音のように弾んだ美声を奏でたのはカヲルと同じブロンドの髪を真っ直ぐ地に伸ばす美少女。まるで映画にでてきそうな愛らしい顔立ちで、火鉢の前でこすりあわせる手は驚くほど白く細い。
「なぁに、そのガラス。顔を隠してるつもりかしら」
声は綺麗なのに、うわずる音階が私に嫌な予感をさせる。女が声のオクターブを上げる台詞は決まって皮肉や虐げ口だ。女が見据える眼鏡のガラスには、奥に潜む従者らしき影を捉えていた。五人は、いる──盗賊には見えない。盗みが目的でないのならば、残された理由はひとつ。
敵に武器があるなら蔀戸を上げる時間に斬り殺されてしまうだろう。自分で逃げ道を塞いでしまうとは、滑稽すぎて笑える。
愚考するためのわかりやすい時間稼ぎに、女へ話しかけていた。
「どちら様でしょうか」
「あら頭が弱い方なのかしら、この顔を見てわからない? わたくしこの冬にカヲルの正室となります、ムツミと申しますの」
「カヲルの……、正室……」
この冬──。
静かに紙を切り裂いていくように胸が痛みを増していく。
いつかカヲルの口からいい放たれた「コンイン」という単語が脳裏を駆け巡る。漫画やゲームで散らかし放題だった母屋が、冬が近付くにつれ片付いていく様も。のんびり屋の母上が師走らしく回廊を往き来する姿も。その手には華やかな調度品がいくつも抱かれていた。修行を年内に定め急かしたのは、婚姻を控えていたから──。
「何を黙っているの、想像通り失礼な方ね。こちらが明かしたのだから貴女の名前も教えなさい」
「え、と……ち」
「はやく!」
「セン、……千と申します」
「セン!?」
その名を聴くなりムツミと名乗る女は口許を袂で隠すが抑えきれず、さも愉快そうに高笑いをあげた。
「カヲルが若い女に熱を上げていると聞いた時は耳を疑ったけど、やはりウワサは噂ね。下婢を妾にする筈がないもの」
「かひ……?」
「あら、知らないの? 三文字の名は貴族にだけ与えられるの。二文字はそれ以下。下婢は読み書きもできぬというから、知らなくて当然かしら?」
この国で使う仮名を名付けてくれたのはカヲルだ。「千」は響きが美しい、お前に似合う名だ──そう言ってくれたのに。
「それにその花簪、戯れにしても人が悪すぎるわ。白い蕾の薔薇の花言葉はね──、心にもない恋。それを耳に飾らせるなんて、カヲルはなんて酷い男」
「心にもない……、恋」
「憐れなセン。でもね、尚更許せないのよ……下婢がこーんな綺麗な衣裳で着飾って、花簪を挿しているなんて、目の当たりにしただけで吐き気がする!」
「──!?」
耳に飾られた花簪が抜き取られた途端、彼女の手のひらから波動のような風が顔面に降り注ぎ、眼鏡に嵌め込まれた分厚いレンズにピシリとヒビが入った。
だが目を瞑り、耳を塞ぐが身体に異常はなく何も起こらない。
ただ次に瞼を開けた時、ムツミは怒りを露に眉間にシワを寄せ、歯噛みしていた。
「……名を偽ったわね、どこまで不躾な女なの!」
女の身だというのにカヲルが持つような長い太刀を構え、迷うことなく不乱に振り下ろしてくる。髪を逆立て美少女が鬼婆だ、女の悋気とはこれほどまでに怨みの強いものなのか。
言霊から逃れられても、凶器からは逃れられない。私もまた一心不乱に部屋を飛び出した。
「お嬢!」
「シオン……っ!」
回廊で待ち構えていた識神に飛び付く。私を抱えたままシオンが飛び込んだのは蒼白い光の渦。
空間移動の加重に耐え、シオンの着物に顔を埋める。その衣は一瞬で涙を吸い、シオンの肌を冷した。
「もう、大丈夫ですから」
優しく頭を撫でるシオンの顔を見上げ、流れる涙は納屋の土へ染み込む。鏡都より少しだけ温かい、古ぼけた馴染みの空気。カヲルの香を忘れるように深く呼吸を繰り返した。
その場に袿を脱ぎ捨てながら、もう二度と鏡都には戻らない──、そう自身に説き伏せながら。