幸せは、涙と。
小さい頃からお姉様や兄様たちは私を『うつけもの』と呼びました。『うつけもの』とは何だか分かりませんでした。ただお父様は「恥ずかしい」くて「情けない」といつも私の顔を見るたび言いました。
その時のお父様の顔は悲しそうに眉をひそめるので、私は少しでも元気になってくださるように笑いかけますが、お父様はますます眉をひそめるだけで。ただ必ずその後に「うつけものはお前だけだ」と言うので『うつけもの』は私だけの特別なものだと知ったのです。
姉様や兄様たちはお父様を真似たのでしょう。ときどきお会いするとき、私のことをそう呼んでくれるのです。
私はお城ではなく離れの塔にずっといましたから、お父様に会えるのも、まして私だけの特別なものを貰えるなんて。それはとても嬉しいことでした。
ただ、彼が私を搭から連れ出し、今まで見たことのない世界に触れたとき。たくさんの初めてのもの達を見て知るたびに、私が知っている「嬉しいこと」や「楽しいこと」はそれだけではないことを知ったのです。
そんな素敵な森に連れて行ってくれたのが、『大きな人』でした。
『大きな人』は、大きな人です。横に並ぶと、私の頭が彼のお腹に位置するものですから、何かあるたびに私はぎゅーと彼の太い腰に抱きつくのです。
『大きな人』は、不思議な人です。なぜ私をこの森に連れてきたのかと聞くと、困ったように少し間をおいて、分からない、とざらざらする声で言うのです。彼は自分でも不思議そうでした。
『大きな人』は、すごい人です。彼が住んでいる小屋も、お魚を採る道具も、今着ている服もみんなみーんな彼が作ったそうなのです。私は見ました。彼の大きな手が小さな籠を作っているのを。まるで魔法のようでした。
『大きな人』は、優しい人です。私がお腹が空いているとき、彼は木の実を探してきてくれました。 私が怪我をしたとき、彼は丁寧に手当てをしてくれました。
私が寒さに震えているとき、彼はそっと抱きしめてくれました。
私がたくさん質問しても、彼はひとつひとつ丁寧に答えてくれました。
私がお話しているとき、彼はいつもちゃんと最後まで聞いてくれました。
『大きな人』は、寂しがりな人です。夜、彼が時々うなされているのを知っています。私の姿が見えなくなると、不安そうになるのも知っています。そういう時は、私は彼にぎゅーと抱きつくのです。
そうすれば、ほっと彼の身体から力が抜けるのを知っているから。
『大きな人』は、きれいな人です。白い部分がない真っ黒な目はきらきらして、そこに私が映るだけでとってもどきどきしますが、それだけではありません。私はもっときれいなモノがあると知ったのです。
初めて見たのは、私が彼にお花を贈った時でした。
彼は、ぽかんとしながら私を見下ろしました。きらきらな目を大きく見開いて。私は不安になりました。嫌いなお花だったのでしょうか?
しかし、彼はちゃんと受け取ってくれました。私の手ごとお花を両手で包んで。彼は大きな手を震わせながら。強い風にもびくともしない身体を震わせながら。ざらざらした声を濡らしながら。
―――ありがとう。
そのとき、見たのです。彼のきれいな目から、とってもきれいな雫がこぼれたのを。ぽろぽろ。ぽろぽろと。
膝をつき、私の手とお花を包んだ手を額にあてて。こぼれた雫は私の手にも落ちて。
嬉しい、嬉しいと言って雫を流す彼から、私は目を離すことが出来ませんでした。そのときは理由も分からなくただただ、きれいとしか思いませんでした。
そしてこのことを私はそっと大切に心の中に仕舞いました。私の宝物にしたのです。
だから、私はその時、彼が言っていることが分かりませんでした。
自分は醜いと顔を覆って叫んだ彼が。
彼の手から見えたソレはとてもきれいなのに。
そうです。彼はきれいなのです。
なのに、いったいどこが醜いのでしょう。
不思議に思って問いかければ、彼は目を見開き固まりました。
―――おれの目は人と違う……!
―――あなたはすべての人をみてきたの?
ごめんなさい、わたしはすべての人を見たことはないけど、わたしはあなたを知っているわ。
あなたの目は吸い込まれそうなくらい真っ黒で澄んでいてきれい。ぜんぶ真っ黒なその目は光の下では特にきらきらするのよ!
お日様の光でも、月の光でも。そこに私が映るたびに私はどきどきするの。そして、あなたはとってもきれいな雫を流すわ。
あなたが見えないあなたの姿。私だけが見て知っているあなた。私の一等の宝物。
―――お、おれは……! 化け物だ……。
―――まあ! そうだったの!? じゃあ私勝手に化け物さんというものを勘違いしていたわ。
怖くて恐ろしくて酷い人だと思っていました。
やっぱり実際に見るのが一番ね。だって、あなたの長い腕は私のために高い木に生る果実を採ってくれ、大きな手は私が持てない重いものも持てるのに小さな籠も作れるほど器用!
私は何度も教わっているのにできないのはなぜかしら?
木のように太い足は、自分よりずっとずーっと小さなお花も踏まないことを知っているの。
お部屋の壁かと思うほど頑丈で大きな身体も、そっと私のことを包んでくれる。そこは温かくて、ほっと安心して……。ふふふ。私、あなたの腕の中お気に入りなの!
彼の顔は熟した木の実のように真っ赤になっていました。私は先ほどの力説した興奮もあって、おもわず彼に抱きつくと。固まっていた彼は今度はおろおろ。
その慌てぶりが可愛らしく。
ぎゅーと抱きしめながらくすくす笑う私を剥がそうした手は、けれども私に近づけるだけで。しばらく宙を居場所なく彷徨っていた手は、ようやくわたしの背にとまって。
そっとまるで宝物を扱うような優しさに。私は思うのです。やっぱりここは温かくて安心すると。
―――幸せだ。
その声は小さく、ほんとうに聞き逃してしまいそうなほど小さく。彼の胸にうずくめていた顔を上げてみると。すれ違うように今度は彼が私の首元に顔をうずくめました。
ぽたり。ぽたり。彼の顎から伝って私の首元を濡らすのでしょう。
―――幸せだ。
濡れた彼の声は私の心をぎゅーと締めつけて。それがまるでそっと私の背中にまわすだけの彼の腕のかわりに抱きしめているようで。
私もソレが自分の頬を伝うのが分かりました。
幸せだといって、彼が泣くから。
コレが流れる私も幸せだと知ったのです。
だから。
わたしは幸せでした。
彼と手を繋ぎながら散歩して。いつもと違う新しい道を歩くのにわくわくして。
急に止まった彼を見上げながらも。泣きそうになっている彼を見上げながらも。
―――おれは幸せだ。
ええ、知っています。だって泣きそうになっていますもの。
―――ああ。だからお前も幸せになれ。
ドンっと身体をつきとばされた瞬間。斜めになる視界。彼から遠くなる。冷たい鉛色の鎧たち。囲まれる彼。煌く刃。振りかぶる甲冑。逃げない彼。赤い、あかい―――アカイ……!
首に強い衝撃が走って。暗転。
いつの間にか小屋とはちがう―――かといって塔とも違う広く高級そうな部屋のベットで目を覚ました私は、ドレスへ着替えさせられました。
そしてお父様が広間に私をお呼びしていると言われ、ようやくここは城の中なのだと気づきました。
広間に行くと、そこには玉座に座るお父様と、甲冑を着たたくさんの人がいました。その一番前にいる一人だけ兜を脱いだ金髪の男性。
その方は、ちらりとこちらをみると、よく通る声で言いました。
「この娘をもらいたいのだが」
お父様は驚きに満ちた顔をしましたが、それは一瞬のことで。とっても嬉しそうに笑いました。
「ぜひとも! 少々頭が弱いが、それ以外はなんの欠陥はありませんからな!」
お父様はすぐさま、いますぐ嫁入り支度をさせろと怒鳴り声に近い声色で傍の人に命じました。
私は、未だお話されているお二人の姿をただぼんやりと見つめていました。
―――この国の王女が隣国へ嫁ぐんだって? しかも王女を攫われたのを助けたのをきっかけにって!
―――そうらしいな。だけど王女が攫われたのはずいぶん前からだったそうだぞ。取り返した日にその事を伝えるなんて。本当は攫われた王女は元からいなかったことにしたかったんじゃないか?
―――捨てるつもりだったってことか! まあ、この国は王子も王女もわんさかいるしな。むしろ後継者争いにはその方が好都合か。
―――だが、隣国がどういうわけか、その事を知って利用したんだよ。
―――利用?
―――ああ。隣国はどんどん拡大していまやこの国より大きくなりつつあるとはいえ、歴史が浅くまだまだ不安定な国。対して、この国は大陸一歴史と鉱山だけはあるからな。
――― ……つまり隣国は貸しをつくったのか。
―――隣国が動いたなら、もう国でこの事件はなかったことにできなかったんだろう。王はその借りを返すために王女を送ったつもりだろうが……。隣国はむしろ王女を人質として使うだろうな。
―――あわれな。……そういえば、王女を攫った犯人は?
―――さらし首だよ。『国の王女』をさらったんだから。隣国がこの『国の王女』として助けた限り、国が捨てるつもりだった王女でもな。
―――うえぇ。見せしめってヤツか。
―――なんでも化け物だったらしいぞ。
―――化け物!? それはそれは。隣国もよく王女を娶る気になったもんだ。俺だったら耐え切れないね。化け物と一緒だった女なんかと。
―――お前、嫁いだ先の王子は正妻はいるどころか、後宮に300人もいるって噂だぞ。
―――そりゃあ楽園だ! ……連れて来てもいちいち相手しないってわけな。今回はこの国は醜聞のある王女を厄介払いできるし、隣国は貸しと人質がつくれる絶好の機会。
―――『化け物に攫われた姫が王子様に助けられ、見初められて結婚しましたとさ』 女たちが「なんて素敵、御伽噺のよう!」なんかいってきゃあきゃあ騒いでいるが、こりゃ立派な政略結婚だよ。
――― ……あわれな。
真白いドレス。光輝く宝石。上品な化粧。ガラスの靴。
見ているだけで目がちかちかしそうなもの達はどんどん無くなっていって、その代わりに私の身体はどんどん重くなりました。
満足げに女性たちが離れた頃には、私は身体だけではなくまぶたもすっかり重く。女性のひかえめに呼んでいる声が聞こえて、はっと目を開くと。
目の前には見知らぬ人がいました。
いったいこの方は誰なのでしょうか?
しげしげと見つめ首をかしげたら、目の前の方はまったく同じ動きをされました。
思わずびっくりすると。周りのくすくすと笑う声に顔を赤くしながらも、ようやくこれは―――顔を赤くされている見知らぬ方は、鏡にうつった自分だと気づきました。
あまりにも馴染みのないものたちを身に纏っているからでしょうか、鏡にうつった私は別の誰かでした。
『真白いドレスを着た少女は、王子さまと結婚して幸せにくらしました』
それは何度も何度もぼろぼろになるまで読んだ、絵本のお姫様とそっくりでした。
まるで夢見たいなことが。御伽噺のようなことが。今現実で起ろうとしていました。
―――では、王子さまは。王子さまは、いったいだれ?
ぼんやりしていると、ふと誰かに手をとられました。その方は、あの場にいた金髪の男性でした。
ひらひら揺れる真白いドレス。しゃらしゃら音が鳴る飾りたち。ドレスから覗くガラスの靴。
重い身体。震える足。ベール越しのあいまいな世界。
思わず足を止めようとするたびに、せかすように握られた手をひっぱられ。
知らない手。知らない人。知らない匂い。
シラナイ。シラナイ、ワカラナイ。
―――手をとるこの人は、いったいダレ?
きれいだ、うつくしいと、囁かれる声。
―――キレイ? キレイって? ウツクシイって?
何をいっているのか、何のことをいっているのか。
霞がかった頭の中には、外から入ってくるものがすべて曖昧で。
そのかわり私の身体は。
ぽっかりと胸のどこかが空いている感覚を埋めるように、次々と彼と過ごしたたくさんのことがよみがりました。
―――嗚呼、嗚呼。
それらは、私の心を。ぎゅーと。締めつけて。
「泣いているのか?」
「ええ、幸せすぎて」
嬉しいと湿った声で言ったあの人と過ごした日々が。
幸せだと静かに流れ落ちるコレを拭いもせず、抱き合った夜が。
あの時と同じように、つめたいモノが手に落ちました。
あの時とはたくさん違うのに。
『幸せになれ』
―――ええ、ええ。
幸せです。
幸せです。
だって、こんなにもとまらないほど溢れてくるんですもの。
コレが流れるのも私が幸せだからでしょう?