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竹残〜竹千代が残せし者〜前編

作者: 駿 慶三郎

 このページに掲載されている文章の無断転用は禁止いたします。

鞍馬山の秋は深まり、冬の訪れが近づいていた。山の木々は真っ赤に染まり、寂しい冬を前に、束の間の賑わいを楽しんでいるようだった。そんな木々たちをせせら笑うかのように、冬の気配を告げる北風が、その勢いを増そうとしていた。

そんな中、風の音とはまた違った、それでいて風を切るような音が、休む事無く続いていた。

雑事がすんだ後、こうして槍を振るうことが、竹残の日課となっていた。雨の日も、風の日も、雪の降る日も、それは欠かした事が無かった。

槍捌きは、竹残を自分の子のように育ててくれた男から教わったものだ。男は他にも、半弓や剣術、体術などの兵法全般を教えてくれたが、竹残は槍が一番気に入っており、当然一番上達も早かった。

竹残は、今年で二十一歳になる。両親はすでにこの世に無く、男が引き取ったのだと、竹残は聞いている。

男は自らを『大天狗』と名乗り、流れ者の山伏であったらしいが、竹残を引き取ってからは、時折家を空ける事はあっても、基本的にはこの地に定住していた。

同居人はもう一人いて、名を『小天狗』と言い、『小』の字の示すとおりの小男だが、大天狗同様武芸の達者であり、特に弓の名手である。なんでも器用にこなす小天狗は、竹残の身の回りの世話をしてくれていた。


竹残は無心に槍を振るいながらも、風でも、槍が風を切る音でも無い何かが、草木をゆする音をかすかに感じながら、それでも尚、槍を振るい続けた。

風では無い何かは、次第に竹残の方へと近づいてきていた。それが人の気配であると気づくまでに、そう時はかからなかった。

竹残らが住んでいる場所は、かなりの山奥であり、普通の人間はまず足を踏み入れるようなところではない。来るとすれば、知人か同業者であり、そうでなければ罪人の類である。だが、今は大天狗は留守である。彼が留守の間は、それを知っているかのように、不思議と知人の類はここを訪れない。

(流れ者かな…)

 そう考えると、竹残はピタリと槍を止めて、立ち尽くしたまま、別段気負うでもなく、そのままその人物が現れるのを待った。

「わっ!」

 現れた人物は竹残を一目見るなりそう叫ぶと、その場にへなへなと座りこんだ。

 竹残は、別段害の無い人間であると判断すると、何かを静止するように左手をさっと後ろにかざし、

「心配ないよ」

と、言った。

 へたりこんだ男は、何がなんだか分からず、目を泳がせていると、後ろの小屋から半弓を手にした小男が出て来るのが見えた。小天狗である。


 話を聞いてみると、男は楽兵衛という越前の商人で、大阪での商いを終え、帰る途中を山賊に襲われ、山に逃げ込んできたのだという。無我夢中で逃げたため方角もわからず、気が付けば、かなり山深い所まで来てしまった。すぐに山を降りようかとも思ったが、また山賊に出くわしてはと思い、山を越える事に決めたのだという。

 この話を聞いた竹残は、楽兵衛を不憫に思い、同情した。

だが、小天狗は違う。はなからこの不可解な来訪者を、疑ってかかっていた。

であるから、

「大阪から越前へ帰るのに、なぜこんな道を選ぶ」

と、疑いの眼差しで訊ねた。

 鞍馬山は京都のちょうど北方に位置している。通常越前へ帰るならば、京を東へ抜け、大津へ出て、船で琵琶湖を北上するのが普通である。何か特別な事情でも無ければこんな方向へは来るはずが無いのである。

「そんな。小天狗らしくも無い。楽兵衛さんが嘘を言っているとでも言うのか?失礼じゃないか」

 そう小天狗を諫める竹残に、楽兵衛は首を振って答えた。

「いえ、かまいません。そうですね。お二人はご存じないのですね」

「何を?」

小天狗が眉間にしわを寄せて問い返す。

「先日、ついに江戸の徳川家康殿と、大阪の石田三成殿が、関ヶ原で大掛かりな戦をしたのですよ。それでこの辺りも、落武者狩りだらけでしてね。その中にはただの山賊まがいの輩もいるようで。あえて、迂回してみたのですが…」

「そんな事があったんですか。で、どっちが勝ったんです?」

 好奇心旺盛な竹残の興味は、すでに戦の勝敗に変わっている。

「徳川殿が勝ったようです」

「そうか…。そうすると次は徳川の天下になるのかな…」

 竹残はそんな事を言いながら、目を輝かせている。

「ちょっと待ってくださいよ。話をそらさないでください」

 小天狗は、どんどん横道にそれていきそうな話を元に戻そうと、躍起になった。

「しつこいなぁ。もういいじゃないか。楽兵衛さん。小天狗はほっといて向こうへ行きましょう。もっと世の中の話を、聞かせてください。ここにいると、どうも世間の事に疎くていけません」

 そう言って、竹残は楽兵衛を連れて行ってしまった。

残された小天狗は、

「変な輩じゃなきゃ良いんだけど…」

と、呟きながら小屋に入って行った。


 ひとしきり竹残の質問が終わった後、楽兵衛は、

「竹残殿はお侍ですか?」

と、脇においてある槍に目をやりながら訊ねた。

「いえ、違いますよ。小天狗と、今は留守にしている大天狗は山伏だけど、私は彼らに育てられたというだけで、特に何をやっているわけでもありません」

 楽兵衛は当然ともいえる質問をした。

「失礼ですが親御さんは…」

「私が物心付く前に亡くなったと聞いています」

 楽兵衛は目を伏せ、

「それは、お気の毒に。いらない事を聞いてしまって申し訳ない」

と謝った。

「いえ。二人が良くしてくれたおかげで、寂しいと思った事はありません。気にしないでください」

 竹残はひらひらと手をふって答えた。

「親御さんはどういった方だったか、聞いておられるのですか?」

「武士は武士だったそうなのですが、だれに仕えていたのかとか、そういったことは二人も良く知らないようです」

「そうですか。では、槍の稽古をしているのは、竹残殿もお侍になるためですか?」

 竹残は大笑いして答えた。

「いえ。大天狗に、自分の身を守れる程度の力をつけておけと言われて始めたもので、今では日課のようなものです。それに、こんなのんびりとした所で育った私に、武士など務まるわけがありません」

「では、ずっとここにいらっしゃるおつもりですか?」

「いえ。でも大天狗の許可が下りるまでは、山を降りられないんです。私はもっといろいろな世界を見てみたいんですが…」

そう言って、竹残ははにかみながら空を眺めた。

 いつの間にか、日はずいぶんと西に傾いていた。

「今日はここに泊まっていってください。大した事はできませんが、これから山を降りては、日が暮れてしまいますから。明日麓までお送りしましょう」

 楽兵衛は、

「重ね重ね申し訳ございません。ではお言葉に甘えさせていただきます」

と言って、頭を下げるのだった。

 だが、これにも小天狗が猛反対した。

「竹残。なんだって、そんな勝手に決めてしまうんだ。あんな得体の知れない奴を、大天狗様が留守のうちに、勝手に泊められないよ」

と、楽兵衛には聞こえないように、小声で言った。

 竹残も、

「得体の知れないって…。困っている人を助けて何が悪いんだ」

と、小声で反論した。

 様子のおかしい二人を見た楽兵衛が、

「どうかしましたか?」

と尋ねた。

 小天狗は作り笑いを浮かべて、

「越前まで戻らなきゃいけないのに、こんなところに足止めしてはなんだから、私が今から麓に案内しますよ」

と言うと、竹残が、

「いえいえ、今夜は泊まっていって下さい。まだまだお話も伺いたいし」

と返す。

 たまりかねた楽兵衛が、

「不都合があれば、小天狗さんの言うとおり、山を降りますが…」

と、言ったので、小天狗が、

「それが良い。では直ぐに支度します」

と、にこやかに言った。

「いえいえ。山賊に襲われたところなのに、そんな無茶をする事はありませんよ。大丈夫ですから、少し待っていて下さい」

 そう言って竹残は小天狗の袖を引っ張って、小屋の裏へ消えて行った。

 結局、竹残が小天狗を説得するのに、四半刻(約三十分)もかかってしまった。

 その間、楽兵衛はずっと小屋の前で待たされていたのであった。


 夕食を済ませ、小天狗と竹残が食器やなべを片付けているとき、竹残は、楽兵衛がある一点を凝視したまま固まっている事に気づいた。

 その視線の先には、壁にかけてある鎧通し(武士が敵の首を取るときなどに使う短刀)があった。

「ああ、それですか。私の父親の、唯一の遺品だそうです」

 竹残に急に話しかけられて、楽兵衛はびくりとした。

「すみません。つい見とれてしまって。見事な品ですね」

 そう言われると悪い気はしない。竹残は、

「商人の楽兵衛さんの目に適うほど、価値のある物かどうか分かりませんが、良かったら見ていただいていいですよ」

と言って、満面の笑みを見せた。

 すると、急に小天狗が慌てだした。

「いけませんよ。いや…。人様に見せられるような代物じゃありませんから」

 小天狗の言葉にむっとした竹残は、

「失礼だなあ。私の物だから良いじゃないか。楽兵衛さん気にせず見てください。でも、気を付けてくださいよ。大天狗がきちんと手入れしていますから、使っていなくても切れ味は抜群ですから」

と、促した。

 楽兵衛は、すうっと引き寄せられるように近づくと、ごくりとつばを飲み込んだ後、鎧通しを手にした。

 そしてしばらく見つめた後、ゆっくりと鞘を抜いた。

(これは…。間違い無い)

その時ぴくりと楽兵衛の肩が揺れたのを、小天狗はじっと見ていた。

 そして食い入るように眺めた後、満足そうに、

「ほんとに良い品です。父上の遺品で無ければ、大枚をはたいてでも、譲っていただきたいほどです」

と言いながら、鎧通しを戻した。

 その様を、小天狗は探るように、じっと見ていたのだった。



 夜の事。

 暗闇の中に楽兵衛の眼光だけが怪しく光っていた。音も無く夜具から這い出すと、竹残と小天狗の顔に頭を近付けた。寝息が確かなものか探っているのである。二人ともぐっすりと眠っていた。

(小天狗と言う男も、なんだか俺の事を疑っていたようだが、ぐっすり眠ってやがる…。ちょろいもんだ。仲間に知らせるまでもねぇ)

 楽兵衛は顔に笑みをうかべると、まっすぐと土間に向かった。部屋の中は真っ暗であるにもかかわらず、その足取りに何の迷いも無かった。夜目が利く証拠である。楽兵衛は忍だった。

 楽兵衛は土間にある瓶のふたを開けると、服の襟に縫い付けてあった紙包を、そっと取り出した。

(これで出世間違い無しだ…)

 楽兵衛は含み笑いを浮かべながら、その包みを解いた。紙包の中身は粉末の毒だった。後は入れるだけである。翌朝には、毒を飲んだ二人は間違い無く死ぬ事になるだろう。だが、楽兵衛は紙包を持ったまま固まっていた。楽兵衛の首筋に冷ややかな物が触れたためである。

「楽兵衛さん。何をしている」

 小天狗の声だった。その声には怒気を越え殺意さえこもっていた。

「いやぁ、用をたしに外に出ようかと…」

 楽兵衛は上ずりそうな声を必死に抑えながらそう答えた。

「ほぅ。瓶のふたを開けてねぇ」

 この言葉で、小天狗も夜目が利く事がわかる。手に持った紙包みにも気付いているかもしれなかった。楽兵衛に言葉は無かった。

「それにあんた、壁にかけてあった小刀の鞘を抜いたとき、肩がピクリと動いていただろう。あの小刀を見て、何を掴んだ?何のために竹残の事を探っている!」

 刀の根元の部分には、竹残の母親の名を示す文字が刻まれている。それを見た楽兵衛が、何かを感じた事は明白だった。それを指摘しているのである。当然、この質問にも楽兵衛は無言だった。

「とにかく外に出てもらおうか」

 そういって小天狗は楽兵衛の背中を押した。楽兵衛は手に持った紙包を瓶の中に落とすと、戸を開けて外に出た。

「どこの忍だ。誰に頼まれた」

 小天狗の言葉に楽兵衛は薄ら笑いを浮かべた。

「勘弁してくださいよ。あなたが始めから私の事が気に入らないのはわかりますが、忍呼ばわりなんて、あんまりですよ。私が何したっていうんですか」

「とぼけるのもいい加減にしろ。夜目が利く商人なんてものは聴いた事がないんだよ」

 小天狗の言葉に楽兵衛はくっくと笑みを漏らした。

 その時である。

 戸口が開く音がして、

「どうしたんだよ。こんな時間に」

といって竹残が出てきた。小天狗はその物音に一瞬気を取られた。

 楽兵衛は常人とは思えない跳躍力で、小天狗めがけて跳びかかってきた。右手にはどこから出したのか、棒手裏剣を握っていた。

 小天狗の無防備な背中に、楽兵衛の棒手裏剣が突き刺さるかと思われた瞬間、小天狗が体をひねり、振り返りざまに楽兵衛の右手を掴み、後ろ手に取り押さえた。

 そして、さらに右手を捻り上げ、楽兵衛はついに棒手裏剣から手を離した。

「ついに正体を現したな」

「くっ」

 楽兵衛の顔が苦痛に歪んだ。

「死にたくなければ、全て吐くんだ」

「そんな事が出来るわけがないだろう」

 そう言うと、楽兵衛が腕の関節を外して、小天狗から逃れた。そして、状況が飲み込めないでいる竹残めがけて、再び跳躍した。

 楽兵衛の手にすでに得物は無かったが、状況を理解で来ていない今なら、竹残を倒せないまでも、逃げ出す事は出来ると踏んだのである。

 だが、楽兵衛は竹残に届く前に、小天狗が放った棒手裏剣によって絶命し、力無く倒れこんだ。

 混乱した竹残は、小天狗をキッと睨みつけ、

「何があったんだ。なぜ殺した!」

と叫ぶように言った。

 それに対して小天狗は、何も言わずに梟に歩み寄ると、

「その男は忍です。何が目的かはまだ分かりませんが、私を殺そうとし、今また竹残を殺そうとしたので、殺しました」

と、背中を向けたまま言った。

「なぜ、忍だとわかるんだ。それにこんな山奥に忍が何の用だというんだ……。そういえばさっき『狙いは竹残か』と言ってなかったか?どういう事なんだ?」

 小天狗は何も答えようとせず、

「私からは何も言えません。大天狗様を呼び戻しますので、話はその時に…」

と言うと、竹残の横をすり抜け、小屋の方に歩いて行ったのだった。

 竹残は息絶えた楽兵衛の躯を背負うと、その後を追った。



 どう連絡を取ったのか、大天狗は、翌日の昼を待たないうちに、竹残たちの元に帰ってきた。

 大天狗は、その名が示すとおり、身の丈六尺を超える大男で、体つきもがっしりとして、肌は浅黒く、常人がこのような山奥で出くわせば、鬼と見間違うほどの男である。

 竹残も小天狗も、あれからは一睡もしていない。小天狗は、その間に楽兵衛の躯を埋葬している。その後は何事も無かったかのように、いつもと変わらず、朝食を用意し、それがすめば、部屋の掃除をするなどしていた。

 竹残は食事もとらずに、じっと虚空を見つめたまま座りこんでいた。昨日の事を考えているのは明白である。

「どうした竹残。浮かない顔をして。せっかくわしが帰ってきたというのに」

 大天狗は、体に似合った大きな声で、竹残に話しかけた。

「実は昨日…」

と、竹残が話し始めたとき、

「大体の事は聞いておる」

と、大天狗が座りながら言った。

 竹残が不思議そうな顔で見ていると、

「小天狗!白湯ぐらい出さんか」

と、さらに大声で言った。

 小天狗は慌てふためきながら、白湯を持ってきた。

 大天狗は白湯をすすると、竹残の方に向き直り、ニカリと笑った。

「槍の稽古は、欠かさずやっているのか」

「そんな事より、楽兵衛と言う男が昨日ここへ来て、小天狗が殺してしまったんです。その時小天狗が、『狙いは竹残か?』と言っていたのです。どういう事なんですか?私はいったい何者なのです」

そう尋ねる竹残の顔は必死の形相だった。

 大天狗は、しばらく黙った後、

「その事は後だ。槍の稽古はやっているのかと聞いている」

と、今度は真顔で聞いてきた。

 竹残は、大天狗の気迫に押され、やむなく、

「はい。やっています。毎日…。欠かさず…」

と、答えた。

 竹残の答えに満足したのか、大天狗は再びニカリと笑って、

「では、ひとつ手合わせ願おう」

と言うなり、立ち上がると、さっさと出て行ってしまった。

 竹残も、仕方なく後を追った。

 

二人は小屋を出ると、槍を持って対峙した。

二人が手にしているのは、十文字槍の稽古用の槍である。十文字槍とは、槍の穂の柄に近い方の両側に、横手状の刃が突出し、ただ突くだけではなく、横手上の刃を使って、相手の武器を絡め取ったり、受け止めたりする事が出来る、当時最先端の槍である。有名なところでは、徳川家の猛将、本多忠勝が愛用している。稽古用のため、樫の木の棒の先端には綿を詰めた布が巻かれ、そこから七寸五分(約二十二.五センチ)の位置に、十文字の鎌に模した横木がはめられている。柄の長さは八尺三寸六分(約二百五十センチ)ある。

互いに向き合い、左肩を前に出し、穂先は大天狗が目線の先、中段に構え、竹残は地面すれすれの位置、下段に構えている。

 最初に仕掛けたのは、大天狗のほうであった。侍顔負けの大音声を発し、その巨躯からは想像も付かないような速さで、竹残との間合いを詰め、竹残の喉元めがけて鋭い突きを放った。

 竹残は、大天狗の突きを、穂先の十字の部分で受け止めると、流れるような動きで円を描き、大天狗の槍を叩き落したかと思うと、そのまま逆に突き返す。

 大天狗は後ろに引きながら、穂先は地面に残し、槍の後方、すなわち石突と言われる部分を持ち上げる事で、こともなげに受け止める。そして竹残同様、円を描くように頭上まで持ち上げると、十字の部分を相手の柄に沿わせるように、突きを繰り出す。

 竹残の槍は、大天狗の槍の十字の部分に引っ掛けられたような状態なので、そのままでは引く事はできない。そこで竹残は、すばやく右斜め前方へ踏み出し、ゆるめた上で槍を外して逃れた。

 二人が手にしているのは、稽古用の槍とはいえ、硬い樫の木でできている。二人はそれを渾身の力を込めて振り回しているのである。まともに当たれば、当然ただでは済まない。だが、お互いに手を抜けないほど、実力は拮抗していた。

二十合、いや、三十合は続いたであろうか。

 突然大天狗が、竹残を静止するように、手を前にかざした。

「そこまでだ」

 そして、槍を杖代わりにするように前のめりになって、膝に手を付き、

「腕を上げたな。槍捌きだけならわしを超えたかも知れぬ」

と言うと、大声で笑った。

 そして、

「これならば安心だ。小屋に戻ろう」

と言って、小屋に歩き出したのだった。


 小屋に戻った二人が、手拭いで汗を拭いているところに、小天狗が水を注いで持ってきてくれた。

 二人は一気にそれをあおる様に飲むと、一息ついた。

 そして、大天狗はおもむろに、

「小天狗よ。お前の見立てでは、楽兵衛の正体をどう見る?」

と、訊ねた。

 小天狗は、竹残の横に腰を下ろして、手にした盆を置くと、

「証拠になるような物は、やはり持っていませんでした。棒手裏剣も、特に変わった所の無いどこにでも有るような物です。竹残を狙うとすれば、伊賀忍でしょうか」

と、答えながら、懐から楽兵衛の棒手裏剣を出して、大天狗に手渡した。

「なるほどな。相手も馬鹿ではないという事か」

 二人のやり取りを、ただ黙って聞いていた竹残は、

「伊賀忍が、こんな辺鄙なところに、いえ私に何の用があると言うんです」

と、尋ねた。

 大天狗と小天狗は、しばらく顔を見合わせた後、こくりと小さく頷き、大天狗が口を開いた。

「事情があって、詳しい事はわしの口からは言えぬ。ただ、小天狗の言葉通り、伊賀忍、もっと詳しく言えば、服部半三の狙いが、お前の命である事は間違いない」

 大天狗の口から、とんでもない名前が飛び出してきたことに、竹残は困惑している様子だった。

服部半三とは、言わずと知れた徳川家直属の忍集団の長たる人物である。徳川十六将に名を連ねる勇将であった父半蔵が、慶長元年(一五九六年)に死去した後、その地位を継いでいる。そんな人物に命を狙われるなど、竹残の想像をはるかに超えていた。

 だが、大天狗はかまわず続けた。

「おそらく楽兵衛は、半三が放った捜索隊の中の一人であろう。めぼしい場所に何人かを派遣し、確かめた上で殺すか、状況的に一人では無理だと思えば、仲間に知らせた数で攻める。楽兵衛は小天狗の力を見誤り、前者を選択した事になるが、楽兵衛が戻らぬとわかれば、捜索隊は一丸となってここにやってくるだろう。もしかするとすでに取り囲まれているかもしれない」

「じゃあ一刻も早くここを離れましょう」

竹残の言葉に、小天狗が首を横に振った。

「逃げる事ができても、また追われる事になる。何しろ相手は、徳川家直属の忍ですから。逃げたところで、それこそ魯櫂の及ぶ限り追いかけてきますよ。だから、ここで相打ちになったように見せかけ、その後逃げなければなりません」

 小天狗の言う『魯櫂の及ぶ限り』とは、船でいけるところならどこまでも追いかけるという意味である。つまり、竹残がどこに逃げようとも、無駄だという事を意味する。

 竹残は、その言葉に黙り込んだ。

「下での情報は何かつかめましたか?」

 今度は小天狗が、大天狗に尋ねた。

「何しろ時間が無かったものでな。それ以上の事はつかめて居らぬ。それよりも、戦の相談をしようじゃないか」

 戦と言う言葉に、竹残が反応した。

「戦って…、いったい何人ぐらいやって来るんですか」

「一人とはいえ、忍を倒したんだ。相手も本腰を上げてやってくるだろう。相手にこちらの人数が知れていれば、少なくて四人、多くても九人と言ったところだろうか。知れていなければ、何人来るかはわからぬ。あと、ここまでは来ないだろうが、連絡用にあと一人か二人。どれも忍の達者ばかりであろうから、決して楽ではあるまい」

 大天狗が、殊更大事では無いかのように、にこやかに言った。

「で、戦略は練っているんですか?」

 小天狗がおもむろに聞いた。

「うむ。小天狗はこれから麓に下りて、相手が山に入り込むのを待て。入り込んだら、後をつけて、連絡役と実行役が別れたのを見計らい、まず連絡役を始末しろ。わしと竹残は、ここに残り、実行役を迎え撃つ。万が一相手が逃げ出したときは、山の北側へ追い込むよう、追いかけるのだ。そこにはわしが仕掛けた罠が、山ほど有るからな」

 と、大天狗は得意げに答えた。自信満々と言う感じである。

 小天狗はあきれ返ったように、

「それ…だけですか」

と、尋ねた。

 それでも大天狗は、

「それだけって、他に何があるというのだ」

と、逆に問い返す始末である。

「で、上手く撃退できなかったらどうするんです?」

 小天狗は、大天狗のあまりに大まかな戦略が不服なのか、眉をひそめてそう尋ねた。

 大天狗は、胸を張り、

「その時は、無様に死ぬだけじゃ」

と言って、大声で笑った。そして、

「まだまだ飼い犬の忍なんぞに、後れを取るわしでは無いわ。見ておれ!」

と言うと、また笑いながら、竹残を見た。

 明るい大天狗とは対照的に、竹残は、思いつめたような顔で、じっと目を落としていた。

「どうした竹残。お前もわしの策では不安か?」

 大天狗は竹残の目の奥を覗き込むように、腰をおると、そう尋ねた。

「いえ。ただ…」

「ただ…、何だ?」

「襲われる理由も分からずに、戦う事に納得がいかないんです。もしかしたら非が有るのは、こちらかも知れない。知っているのなら、事の前に教えてください!」

 竹残は、請うように大天狗を見た。

 大天狗は、一度竹残から目を逸らし、しばし考えた後、再び竹残を見据えた。

「お前は今までの人生の中で、命を取られなければならない程の、悪事を働いた事があるのか?」

 大天狗の問いかけに、竹残は目を伏せて、首を横に振った。

「ならば、お前に非は無いという事だ。だれも生まれながらにして非を持っている者など居らぬ。それに、戦を仕掛けて来る相手は、何時でも手前勝手な言いがかりで、戦を仕掛けるものだ。そんな事をいちいち気にする事はない」

「でも、大天狗はなぜ私が襲われるのか、その理由を知っているんだろう?なぜ今、教えてくれないんだ!」

 大天狗は、再び何か思案するように目を伏せた。言いにくい事であるのか、沈黙が長い間続いた。

「それを知ってお前はどうなる。何か変わるのか?お前は竹残。わしが自分の子のように育てた孤児だ。それ以上でもそれ以下でもない。それともお前は今の境遇に不満でもあるのか」

 大天狗の語気は、次第に険しいものとなっていた。

 それに対して、竹残はただ黙って首を横に振っただけだった。

「お前に生きる意志がないと言うのなら、ここで死ぬがいい。生きる意志が無い者を守るすべを、わしは持っておらぬ。だが、一人では死なせぬ。そんなふうに育てた覚えは無かったが、それは育てたわしの責任でもある。わしも一緒に死んでくれる!」

 そこまで言うと、大天狗はすっと立ち上がった。

 驚いて竹残が大天狗を見上げた。大天狗の顔は険しかったが、どこか寂しげであった。

「しばらく時間をやる。どうするか考えろ!」

 そう言って、大天狗は表へ出て行った。

「ちょっと、大天狗様!」

 小天狗が、慌てて後を追った。

 竹残はただ黙ってうなだれていた。


「大天狗様。何もそこまで言わなくても…」

 追いついた小天狗が、大天狗に言った。

 大天狗はなおも憮然としている。

「大天狗様は、何故本当の事を教えてやらないのですか?竹残にも知る権利はあるはずです」

 そういった小天狗を、大天狗がキッと睨みつけた。

「知る権利だと?分かった事を言うな。事実を知ったところで、竹残はどうなる。生まれた家に戻れるのか?そうではあるまい。状況は何も変わりはせぬ。それならば、何も知らずに、このままでよいではないか。なにもわざわざ辛い思いをさせる必要もあるまい」

「ならばなぜ、徳川の名など出したのです!本当は、大天狗様もどうするべきか、迷ってらっしゃるのでしょう」

 小天狗の問いかけに、大天狗は口をつぐんだ。小天狗の言った事が図星だったのである。  

大天狗は、竹残と初めて会った時の事を思い出していた。


大天狗が竹残と初めて会ったのは、竹残が一歳の時、つまり二十年前である。大天狗は、諸国を行脚してまわる一介の山伏であった。名前もまだ大天狗とは言わず、別の名だった。

大天狗は、いわゆる『無縁』の者だった。『無縁』とは、罪を犯した者などが、現世との縁を切る代わりに、その罪から逃れられるというものである。親兄弟との縁をも切るわけであるから、その後は頼る事も許されず、全くの一人で生きて行かねばならない者達である。大天狗は元々農家の息子だったが、ゆえあって無縁となったのである。その理由は、よほど辛い記憶なのか、小天狗でさえ知らない。

この頃の、こうした一所に定着せずに暮らす人々は、テレビや電話の無い時代の、貴重な情報源であった。特に僧侶や山伏、芸能者らは、関の通行が自由で有り、どこへでも入っていけるため、情報伝達者としてはうってつけだった。その中には、自分の本来の職業以上に、情報伝達者としての職業を生業とする者達、すなわち忍に近い者達もいた。 

大天狗はその『忍に近い者達』の一人であった。諸国を行脚し、領主や土豪らに必要な情報を提供し、そくばくの銭を貰う。大抵は、あてもなく国々を渡り歩き、そこで見聞きしてきた事を伝えて行くのであるが、時には、領主等から直接依頼され、その情報を掴むために、動く事も有った。


その日、大天狗は仕事を終え、旧知の友人が住職を務める、尾張国の寺を訪れていた。これもまた情報収集の一環である。

寺の住職は今も昔もその地域の知識人であり、特に昔は様々な人物と接するため、情報の宝庫なのである。大天狗は各国に同じような知人を持ち、情報収集に役立てていた。

一通り話しをした後、その住職が唐突に、

「そろそろ一所に落ち着く気は無いかね」

と、問いかけてきた。

 大天狗は笑って、

「住職はわしに飢え死にしろとでも言うのか」

と、答えた。

 だが、住職は大真面目に、

「いや。一所にいながら生活に困らぬ仕事をやらぬか、と言う事だ。わしはその依頼を受けてからずっと、そなたが来るのを待っておった」

と言った。

 一所にいながらにして、できるような仕事など、大天狗には想像も付かない。大天狗からしてみれば、何もせずに金が入ってくるようなものだった。そんなに上手い話には、十中八九裏がある。かなり危険な仕事であることは間違いあるまい。

 大天狗は、苦笑して、

「わしに何をさせるつもりです」

と尋ねた。

 だが、住職はにべも無く、

「受けると聞くまでは話せぬ。それほどの大事じゃ」

と、答えた。

 あんまりと言えばあんまりである。話も聞かずに引き受けるなどと、だれが言えようか。それに、それほどの大事とは、もしそれが洩れれば、住職も大天狗も命を失うほどの、とんでもない事になるという事である。ますます怪しさが増してきた。

だが、一度受けたものを断る事はできない。大天狗のような職業は、信用が無ければ成り立たない。いかなる状況であろうとも、一度受けた仕事を放り出した等と広まれば、もうだれも大天狗に仕事を依頼しなくなる。いい加減に答えるわけにはいかなかった。

「話も聞かずに決めろとは、住職も酷な事を言う。どう判断しろと言うのだ」

「それでも決めてもらわねばならぬ。だが、これを頼めるのは、そなたしかおらぬと思っている。そこのところを良く踏まえて返事をしていただきたい」

 そう言うと住職はにっこりと笑った。

 大天狗はこの手の言葉に弱かった。頼られれば、いやとはいえない性質なのである。それに大天狗は、ここの住職が好きだった。男が男に惚れると言う事が有るが、まさにそれだった。だから、本当は住職が話を持ち出したときから、ほぼ気持ちは固まっていた。

「わかりました。受けましょう」

 住職は大天狗の顔をまじまじと見た後、

「その言葉に相違は有りませぬな?」

と、尋ねた。

 大天狗は大真面目な顔で、

「坊さまに嘘をつけるほど、わしは強く有りませぬ。罰が当たっては大変ですから」

と、笑って答えた。

 住職は、坊さまらしからぬ大声で笑うと、

「疑ってすまぬ。実は、赤子を一人引き取ってもらいたいのじゃ」

と、言った。

 あまりにも大天狗の想像の外に有った言葉に、頭の中が真っ白になっていくのを感じた。

大天狗は、ぴしゃりと自分の頬を張った。

「すみませぬ。もう一度言っていただけませぬか。どうも耳が、急におかしくなったようで…」

住職はにこやかに再び、

「赤子を引き取ってもらいたいのじゃ」

と言った。

「赤子を…引き取る」

 大天狗は馬鹿のように繰り返した。それしかすべが無かった。大天狗は今の今まで嫁を娶った事も無ければ、赤子を抱いた事も無い。そんな自分に赤子を引き取れなどと、無茶もいいところである。そんな自分に赤子を育てろなどと、平然と、しかもにこやかに言ってのける住職の神経を疑った。

「ちょっとお待ちくだされ。わしは赤子の事など、何も分かりませぬぞ」

 うろたえる大天狗の言葉にも、住職はにこやかに頷くだけである。

「なぜわしなのです」

 大天狗は泣きたくなった。だが、先述したとおり断るわけにはいかない。もう観念するしかなかった。

 それを見極めたかのように住職は、

「では、話を進めてよろしいかな?」

と、言った。大天狗は頷くしか、仕方が無かった。

 住職は小坊主を呼び寄せ、赤子を連れてくるように命じた。

 大天狗はゴクリと唾を飲み込んだ。大天狗は極度の緊張下にあった。こんな気分は、今まで味わった事が無い。生死を賭ける戦いの場にあっても、ここまで追い詰められた事はない。時間が無限のように感じられた。

 赤子は、二十歳過ぎの女性に抱かれて現れた。恐らくは母親であろうと、大天狗は思った。赤子は何も知らず、すやすやと眠っている。

 女性は、大天狗にコクリと頭を下げると、住職の隣に座った。

「どうですかな。赤子を見た感想は」

 住職がそう尋ねたが、どうもこうもなかった。わしに何を言わせたいのだ、と心の中で毒づいた。住職はわしをからかっているのだろうか。そんな気さえしてきた。だが、赤子を抱く女性が、真剣なまなざしを送っている事に気づいた。自分の子を引き取る男が、どんな人物なのか見極めようとしているのであろう。その目を見たとたん、大天狗の考えは消し飛んだ。

「利発そうなお子で…」

 そんな言葉しか出てこなかった。だが、他にどう言えばいいのだ。大天狗はようやく腹が座って、幾分か落ち着きを取り戻していた。

「この赤子は、ゆえあって親元で過ごす事ができぬのじゃ。痛ましい事じゃ」

 住職は哀れむような目で赤子を見ながら、そう語った。

「差し支えなければ、その訳を教えては下さらぬか」

 大天狗の問いかけに、住職が母親の顔を見た。

「私からお話します」

 母親は凛とした表情でそう言った。その表情を見て、大天狗は初めて、その女性が武家の娘ではないかと感じた。体からにじみ出ている気品も、身に着けているものも、よくよく見れば、それを物語っている。武家の中でもそれなりの身分の娘で有り、嫁であると思われた。

「私の名は徳と申します。父親は織田信長、夫は、今は亡き徳川信康殿でございます」

 大天狗は、目を見張った。よりにもよってとんでもない人物が出てきたものである。だが一般に知られているのは、信康と徳姫の間には女子二人の子しかいないはずである。その子達は、断じてこのような赤子ではない。そして夫信康は、徳姫の言うとおり、昨年九月に武田家と内通したと言う罪により、信康の母築山殿と共に、信康の父家康によって、殺されている。

ということは、この子は隠し子と言う事になる。何故そうなったのか。また、大天狗が知る限りでは、信康の内通を密告したのは、他ならぬ徳姫自身である。大天狗の疑問を察したのか、徳姫が続けた。

「この子は、夫が岡崎城から退去させられる前に身篭ったようです。私はそれを隠したまま三河を去り、ここで産ませていただきました。徳川家に知られても、織田家に知られても、取り上げられると思ったからです。それに、もう武家は沢山なのです。私は逃げたかった」

 悲鳴のような独白だった。大天狗は全てを一瞬にして理解できた気がした。徳姫が信康を密告したと言うのは偽りであろう。織田方、徳川方どちらがどう言う意図でそうしたのかは分からなかったが、その事実が捏造されたことは間違い無い。密告した相手の子供を生む女性がどこにいるだろうか。夫を奪われた悲しみが、今も徳の心を苦しめているのが、痛いほど伝わってきた。武家に対する憎しみと、夫を救ってやれなかった悲しみが、徳の心に棲み付いているのを感じた。そのぶんわが子を何としても守りたい。その思いが良く伝わってきた。

「わしが引き取るのはかまいませぬ。しかし、子は親の元で育つのが一番良いと存じます。尼となってここに親子共々過ごすわけにはいかぬのでございましょうか。あなた様にとってもそれが一番望ましいはず」

 大天狗の言葉に、徳は目を伏せた。

「できる事ならそうしたいのです。でも…」

 徳の声が涙で詰まった。

大天狗は自分の失言を恥じた。

親子共に過ごすのが一番幸せな事ぐらい、徳が一番思っている事である。それができないから、こうして頼んでいるのではないか。大天狗は心の中で自分をなじった。

徳に変わって住職が続けた。

「ここにいれば、いずれ信長様もここを訪れるじゃろう。信長様は徳姫を良く可愛がっておられたのでのう。その時この子が目にはいれば、徳姫と信康君との子であると気付かれる恐れが有る。悪い事にこの子は男の子だと言う。頭の良いおぬしならばそれがどう言う事か察しがつくであろう。だから、二人は一緒におる事はできぬのじゃ」

 確かに住職の言うとおりだった。

徳川家は織田家の従属下に有ると言っても過言ではないが、表向きはあくまでも対等の同盟者である。甲斐の武田家は長篠の合戦以来、没落の道をたどっている。いずれ信長の手によって滅ぼされるのは時間の問題であった。残る東国の勇は武田家を除けば、北条家と上杉家のみである。織田家にとって徳川家の利用価値は東方の守りであるが、武田、北条が滅べば、逆に信長にとっては『同盟者』としての家康が邪魔になるに違いない。

信長が徳川家を滅ぼすのは簡単と言えば簡単と言えるかもしれない。武田、北条の領国を手中に収めた信長と、家康ではいくさにならない。だが、この赤子を徳川家に信康の子と認めさせた上で、自分の元で養育し、家康の世継ぎとすれば、事はもっと簡単である。その時、この赤子は、織田家の傀儡でしかない。

信長がこの赤子の存在を知れば、狂喜し、徳から取り上げてでも連れて行くだろう。

徳と一緒にいる限り、この子の進む道は、自分の意志とは関係なく決められる事となる。もっとも幸せでいられるはずの状態が、もっとも不幸せな結果を生むというのが、なんともたまらなく皮肉だった。

諸国を放浪する自由人、大天狗の胸の中で、ふつふつと怒りが沸いてきていた。手前勝手な考えで、無力な赤子を自分の道具のように扱う、封建領主への怒りである。

その怒りは、この子を守ってやらなければならないという思いへと変わっていった。

「わかりました。私などにこの役目が勤まるのかどうか分かりませぬが、立派に育つよう全力を尽くします」

 大天狗の言葉に、徳は深々と頭を下げ、

「無理な事をお頼みして、申し訳ございません。どうか、よろしくお願いいたします」

と言った。

「赤子の名は何と申されます」

 大天狗の問いかけに、徳は、

「名前はまだ有りませぬ。名をつけると余計に情が深まり、手放せなくなりそうでしたので…。あなたさまでつけてやってくださいませ」

と答えた。

 それからはもう大変だった。大天狗にとって、子育ては何から何まで初めての事だった。だが、子を持った事で得られる悦びもあった。

 今、大天狗の頭の中で、今までの思い出が走馬灯のように駆け巡っていた。



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