婚約破棄されたので、あなたの隣は友人に譲ります
「エレノア! お前との婚約を破棄する!」
王都の劇場で開かれた春の祝賀会。
伯爵令息のフェリクスは、大勢の貴族たちが見守る中、私に向かってそう言い放った。
彼の隣には、私の友人であるクラリッサが立っている。
彼女は潤んだ瞳で私を見つめ、フェリクスの腕にそっと身を寄せた。
「エレノア、ごめんなさい……。私、フェリクス様を愛してしまったの」
その言葉に、周囲から小さなざわめきが起こった。
私は二人を交互に見た。
そして、心の底から安堵した。
「まあ。それはよかったわ」
「……は?」
フェリクスが間の抜けた声を出した。
「婚約を破棄してくださるのですよね? でしたら、どうぞご自由に」
「な、何だ、その態度は!」
「どのような態度を期待されていたのですか?」
フェリクスは顔を赤くした。
泣いてすがると思っていたのだろうか。それとも、クラリッサを罵って醜態をさらすとでも?
残念ながら、そんな気力はもう残っていなかった。
私はこの二年間、彼の身勝手さにずっと振り回されてきたのだから。
約束の時間に現れないのは日常茶飯事。
贈り物をすれば好みではないと文句を言い、私が選んだ店で食事をすれば退屈だと不機嫌になる。
そのくせ、自分が困ったときだけは婚約者なのだからと私を頼った。
何度も話し合おうとした。
けれど、彼はそのたびに言ったのだ。
『お前は婚約者なのだから、私に合わせて当然だろう』
そんな人と結婚する未来に、希望など持てるはずがなかった。
そしてクラリッサも。
彼女は悪気なく人を刺すタイプの人間だ。
それでいて男好きで、何事も自分が1番出ないと気が済まないタイプ。
はっきり言って、友人の中でも苦手な方だった。
というか、私は彼女のことを友人だとはあまり思っていない。
ただ、元婚約者として、これは言っておかないと。
「フェリクス様。クラリッサをよろしくお願いいたします」
「……っ、言われなくても分かっている!」
彼は少し語気を強めてそう言う。
クラリッサもまた、私の反応が気に入らないらしく、眉をひそめている。
「エレノア、本当にいいの? フェリクス様は、私を選んでくださったのよ?」
「ええ。よかったわね」
「……あなたって、意外と冷たいのね」
「そうかしら。あなたの望みが叶ったのだから、喜んでいるのよ」
私は微笑んだ。
これ以上、二人にかける言葉はなかった。
私は一礼すると、祝賀会の会場を後にした。
背後からフェリクスの怒鳴り声が聞こえた気がしたけれど、振り返らなかった。
ようやく自由になれたのだから。
◇
それから一か月後。
私は王都の書店を訪れていた。
以前から読みたいと思っていた新作の恋愛小説が、ようやく入荷したのだ。
婚約者だったフェリクスは、私が小説を読むことをあまり快く思っていなかった。
だから、私は彼に隠れて、暇な時間を頑張って見つけて本を読んでいた。
だが、最近。
ついに見つかってしまった。
『そんなものを読んで何になる?』
彼はそう言って、退屈そうな顔をしていた。
だから私は、本を読むのをやめた。
自分の気持ちに蓋をした。
彼と話題を合わせるために、彼の好きな劇や音楽について調べ、彼が喜びそうな会話を心がけた。
けれど、もうそんな必要はない。
「こちらを一冊、お願いします」
私は目当ての本を店員に差し出した。
「ありがとうございます。お好きな作家なのですか?」
「ええ。以前の作品がとても面白かったので、楽しみにしていたんです」
答えてから、私は笑った。
誰かに気兼ねすることなく、自分の好きなものを好きだと言える。
たったそれだけのことが、こんなにも心地よいなんて知らなかった。
本を抱えて店を出た、その帰り道。
「エレノア!」
聞き覚えのある声に振り返ると、フェリクスが立っていた。
以前よりも少しやつれたように見える。
「……何かご用でしょうか?」
「お前、最近ずいぶん楽しそうだな」
「ええ。おかげさまで」
「嫌味か?」
「まさか」
私が微笑むと、彼は苛立たしげに頭をかいた。
「クラリッサのことなんだが……」
私は黙って続きを促した。
「彼女は、私が思っていたような女性ではなかった」
「そうなのですか?」
「ああ。わがままだし、私の話を聞かないし、何かあればすぐに泣く。お前とは大違いだ」
私は思わず首をかしげた。
「フェリクス様。クラリッサは、あなたが選んだ女性ですよね?」
「それは、そうだが……」
「でしたら、私にお話しになる必要はないと思います」
彼は言葉に詰まった。
すぐに声を荒げてくる。
「お前なら、私の気持ちを理解してくれると思ったんだ!」
「……以前はそうだったかもしれませんね」
「だったら!」
「でも、もう婚約者ではありませんから。
わざわざ貴方の気持ちを汲む必要もありませんよね」
きっぱりと告げると、彼の顔が歪んだ。
「お前は変わったな……」
「いいえ。私は何も変わっていません。ただ、あなたの機嫌を取る必要がなくなっただけです」
フェリクスは口を開きかけ、結局、何も言わなかった。
私は軽く会釈して、その場を離れた。
腕の中の本を抱え直す。
せっかく手に入れた楽しみを、これ以上邪魔されたくはなかった。
もう彼の言葉に心を乱されることはなかった。
◇
さらに数週間後。
クラリッサは、フェリクスとの婚約を解消したらしい。
噂好きの友人の一人から話を聞いた。
彼女は、フェリクスが思っていたほど自分を甘やかしてくれないことに不満を抱き、別の令息に乗り換えようとしたらしい。
ところが、その令息にはすでに婚約者がいた。
しかも、かなり気が強く、クラリッサの小言が何も効かないタイプの人間だったそうだ。
結果、クラリッサは社交界で少々居心地の悪い立場になった。
色々ちょっかいをかけては無碍にされを、繰り返して、最後には夜会で声を荒げたらしい。
しかも意味不明な内容ばかりを。
そんなことをしたら、そりゃ誰も近付かなくなるだろう。
御愁傷様だ。
一方のフェリクスも、次の婚約者を探そうとしたものの、以前からの傲慢な振る舞いが知れ渡っていたため、なかなか相手が見つからないという。
自業自得ね。
もちろん、私は二人を助けなかった。
もう私の人生とは関係のない人たちなのだから。
そんなある日の午後。
私は別の友人に誘われ、王都の小さな喫茶店を訪れていた。
「ねえ、エレノア。最近、よく笑うようになったわね」
「そうかしら?」
「ええ。以前は、フェリクス様の機嫌ばかり気にしていたもの」
私は少しだけ考えた。
確かに、以前の私は彼に嫌われないようにと、いつも顔色をうかがっていた。
けれど今は違う。
好きな本を読み、気の合う友人とお茶をする。
面白い物語に出会えば、夢中になってページをめくる。
それだけで十分、毎日が楽しかった。
「きっと、肩の荷が下りたのね」
そう言うと、友人は嬉しそうに笑った。
窓の外では、春の花が風に揺れている。
私は温かい紅茶を一口飲んだ。
婚約破棄を告げられたあの日、私は何かを失ったのだと思っていた。
けれど、今なら分かる。
私は何かを失ったのではない。
ようやく、自分の人生を取り戻したのだ。
そして、これから誰と出会い、誰を好きになるのか。
それを決めるのは、もう私自身だった。
――婚約破棄、万歳。
心の中でそう呟いて、私はもう一度、笑った。




