私がAI作家にならない理由
理由はいくつかあります。
けれど、そのほとんどは、あちらこちらで語られているので省略します。
一つだけ余所で目にしたことがない「私がAI作家にならない」理由は、私にとって書くことが生理的な喜びだからです。
使う単語を選び、語順を考え、助詞や助動詞で繋ぎ、一つの文に仕立てる。なんだかしっくりこない。単語を変えてみる、増やしてみる、倒置してみる、削ってみる、意味をもう一度確認してみる。微妙にずれているかもしれない。やり直す。
出来上がった文を通して読んでみる。リズムが悪い? この単語邪魔? 古過ぎる? 砕け過ぎかも。考え直す。
そうやってPCの画面の上に色んな文字列が現われては消え、ようやく納得のいった文になった時、満を持して脳内に何らかの物質、ドーパミン? エンドルフィン?が溢れ出てきて、渦巻いて、私はしばし快楽に浸るのです。
もちろんすべての文にこれほどの情熱を燃やしているわけではありませんが、一度引っ掛かると、上記のような脳内大会議が開かれるわけです。そしてその果てで待ち構えているであろう素晴らしき快楽を、AIに代筆させる代償として奪われるわけにはいかないのです。私は快感を得たい。
さて、私がこんな風に細かいところにこだわるのも、最初に親しんでいた文芸が詩作だったからかなと思ったりもします。
高校時代にとある雑誌に投稿した詩が入賞し、その選評で『朝』という題名がとても良いと褒めていただいたことがあります。他のどんな題名もあり得ない、『朝』という潔い語を選んだことが素晴らしいと。
感動しました。詩そのものよりも時間をかけて、私が題名を考えに考えて語を選び、連ね、ひねり、削りに削って『朝』に行きついた経緯を見られていたのかと思うくらいに刺さった評でした。第一線のプロって凄い、そこまで読み取れるのかと戦慄しました。
当時の選者には田村隆一氏をはじめ錚々たる方がいらして、高校生相手に贅沢なコーナーだったなあと今さらながらに思います。
そんなわけで、ほんの短い一文、一語から快楽を得ている私は、AI作家になるつもりはないのです。




