黒澤美琴は、実は強い子でした。
放課後の校舎を、西日が照らしていた。
傾いた光は窓ガラスを通り抜け、廊下の床に長い影を落とす。
時間そのものが、ゆっくりと溶けていくような色だった。
廊下全体が、オレンジ色に沈んでいく。
俺は黒澤美琴と、あかりを連れて委員室へ向かっていた。
二人の足音は、微妙に揃わない。
あかりは普段より少し歩幅が小さく、黒澤は一歩遅れてついてくる。
黒澤美琴は、言っていた。
いじめは、もう収束している、と。
その言葉は、決して嘘ではないのだろう。
パシられることも、物を隠されることも、露骨な無視も、もうない。
少なくとも「事件」と呼べるようなものは、表面上は消えている。
だが。
いじめが収束したという事実は、
そのまま健全な学園生活を意味しない。
クラスには、それぞれの居場所がある。
誰と誰が話すのか、どこに座るのか、昼休みをどう過ごすのか。
言葉にしなくても共有されている、暗黙の了解と関係性。
既に出来上がった輪。
その中で、黒澤美琴だけが、ゼロから始めなければならない。
学園生活も。
友達作りも。
誰かに声をかけるにも、理由が要る。
笑うにも、タイミングを計らなければならない。
間違えれば、「浮く」。
しかも彼女は、「助けてもらえなかった過去」を背負っている。
見て見ぬふりをされた記憶を、クラス全員と共有したまま。
それは彼女一人の問題じゃない。
周囲の人間全員が、無意識に抱えている負い目だ。
そんな彼女の目に、いまのあかりは、どう映っただろうか。
派手で。
声が大きくて。
いつも誰かの中心にいるように見える、ギャル。
そのギャルが、今は根も葉もない噂の標的にされている。
きっと。
「なぁ……黒澤美琴って、知ってるか?」
ふと、以前の会話を思い出す。
俺の問いに、ジミヘンは少し考える素振りをしてから言った。
「よくは知らねぇな。話したこともねぇし。……けど、アイツも持ってるのは確かだ。ロックの魂」
相変わらず、何を基準に言っているのか分からない。
だが、不思議と否定する気にもならなかった。
意味不明なようで、妙に納得できる言い方だった。
人を見る目は、あるらしい。
なら、きっとそういうことなのだ。
俺は委員室の扉を開ける。
軋んだ音と共に、視線が集まる。
困惑した表情の結衣を尻目に、二人を中へ通し、椅子に座らせた。
あかりは、状況を把握しきれないまま周囲を見回し、
黒澤は、背中を少し丸めたまま視線を落とす。
「ちょっと、相馬くん?これ……どういう状況?」
結衣の声には、警戒と困惑が混じっていた。
「ちゃんと説明する。だから落ち着け」
そう言って、俺は結衣を連れて委員室を出る。
扉を閉めた瞬間、廊下の静けさが戻ってきた。
「あかりさんと、黒澤さんよね?あの二人が、どうしたの?」
結衣は歩きながら、すぐに問いかけてくる。
「あかりは……噂を知ってるらしい」
「え?」
「前に、俺たちが恋愛相談に乗っただろ。
それで結果的に別れた、あの元彼」
一瞬、結衣が思い当たったように眉を寄せる。
「そいつと別れた頃から、ずっと続いてたらしい」
結衣は、言葉を失った。
「……でも、それが最近になって悪化した」
「どうして?」
「黒澤美琴が、あかりを庇った」
「黒澤さんが?でも……庇ったなら、どうして悪化なんて……」
「元いじめられっ子だ」
俺は淡々と続ける。
「クラスメイトは、あいつがいじめられてたことを当然知ってる」
見て見ぬふりをしていたという、負い目付きで。
「そんな子がさ。
挙動不審で、言葉に詰まりながら、ギャルを庇いに出たら……どう思う?」
結衣は、はっとしたように息を呑む。
「俺たちは、あかりがいい奴だって知ってる。
でも周りは違う」
「……言わされてる、って?」
「そうだ。いじめられっ子が、ギャルを庇った。
きっとこの子は、脅されてる。利用されてる―ってな」
却って、噂の信憑性が上がった。
結衣は唇を噛み。
「しかも周りは、彼女を助けなかった罪悪感を持ってる」
その言葉に、俺は頷いた。
「だから塗り替えるんだ。その罪悪感を正当化するために」
あかりは悪い奴で。
ビッチで。
いじめっ子で。
そういう存在だった、という物語に。
「そんな……」
「だったら、どうすればいいと思う?」
「どうって……そんなの……」
「要はさ」
俺は言葉を選びながら続ける。
「あかりが黒澤美琴をいじめてないって、客観的に分からせればいい」
「それは……そうだけど」
「毎週月曜日。放課後。もし二人が仲良く、依頼を解決してたら」
結衣を見る。
「それって、いじめてないってことになるだろ」
結衣はしばらく黙り込んでいた。
廊下に差し込む西日が、彼女の横顔を濃いオレンジ色に染める。
「……それってさ」
ぽつりと、結衣が言う。
「噂を消すっていうより、上書きするってことだよね」
「そうだ」
俺は即答した。
「正義で殴るより、日常で潰す」
「でも、それは」
結衣は俺を見る。
「二人とも、相当しんどいと思うわ」
「分かってる」
だから俺は、目を逸らさなかった。
黒澤美琴は、もう一回前に出ることになる。
恐怖も、不安も、全部抱えたまま。
結衣は唇を噛む。
「……あかりさんも」
「そうだ」
あかりは、噂の中心に立たされる。
何もしなくても、勝手に悪役にされた。
だったらもう、逃げ場なんてない。
「でもな」
俺は、委員室の扉の方を見る。
「それでも、二人とも選べるんだ」
黙って耐えるか。
誰かと並んで立つか。
その違いは、致命的だ。
「……相馬くん」
結衣は小さく息を吐いて、
「あなた、最低ね」
「よく言われる」
「でも」
一拍置いて、彼女は口元を緩めて言った。
「それ、風紀委員の仕事じゃないと思うのだけれど」
「知ってる」
俺は苦笑した。
扉の向こうで、椅子が軋む音がした。
中で、誰かが身じろぎしたのだろう。
「でも……困ってる、だろ?」
それだけは、間違いなかった。
人は、他人の人生の責任を背負えるほど人と関わることはできない、だが、もしもお互いに支え合い背負い合う関係が成立したなら、もしもそれが「人生」なんて大それたものではなく、「青春」あるいは「日常」くらいならば、もしかすると。
問い。他人の人生の責任は背負えません、ならば。
責任を軽くして分散すればいい、簡単な答えだった。




