ようこそ地獄へ
いつも通りの放課後、西日が低い位置から差す。
窓から風は入らず、開いていた事すら忘れてしまっていた、校庭から聞こえたバットが球を打つカキンという金属音がその事を思い出させた。
俺はゆっくり窓を閉めながら言う。
「今日はもう依頼は来ないだろ…俺ちょっと早めに帰るわ、おつかいあるから」
結衣はそれを聞くと一度作業の手を止め薄く微笑んで「そう、私も今の作業が一段落ついたら帰るわ」
と返す。
俺が鞄を取り委員室を出ようとするともう一度結衣が話しかける。
「相馬くん…黒澤さんの件、落ち着いたみたいでよかったわね…」
顔は見ていないが、きっと笑っていた。
俺は一拍遅れて頷いた。
下駄箱で靴を履き替えていると、背後から声をかけられた。
「恒一さん」
振り返ると、黒澤が立っていた。
誰かを待っていた、というより、通り道にいただけのような距離感。
「最近は、なくなりましたけど」
黒澤は視線を合わせないまま、続ける。
「……あの時の人が、誰だったとしても、救われたわけじゃないと思います」
それだけ言うと、黒澤は一歩下がった。
「じゃあ」
踵を返して、校舎の外へ向かって歩き出す。
「なんの話――」
誤魔化そうとした。
反射的に、軽い調子の言葉を選んでいた。
でも黒澤は、返事を待たずに行ってしまった。
いや……声は、届く距離だった。
追いかけることもできたし、
名前を呼ぶこともできた。
言えなかった。
それから数日が経った。
文化祭が近い、というだけで学校はここまで浮つけるものらしい。
学校は露骨に落ち着きを失う。
廊下は無駄に騒がしくなり、掲示板には意味の分からない装飾案が貼られ、誰もが「何かをやっている感」だけで浮足立っていた。
授業もどこか形骸化し、クラスの大人しいグループもイベント事批判に花を咲かせる。
クラスの出し物決めも、例に漏れずだった。
「じゃあ多数決取ろうぜー」
「演劇でよくね?」
「えー面倒じゃん」
俺は机に肘をつき、半分聞き流しながら黒板を眺めていた。
結局、演劇に決まったらしい。
誰が何役をやるのか、誰が脚本を書くのか、そんな話が進んでいるが、俺にはあまり関係がない。
どうせ裏方か、最悪当日欠席枠だ。
会議が終わり、教室を出て廊下を歩く、すれ違う教室から聞こえてくる教師の注意も、心なしかいつもより緩い。
すると、背後から勢いよく足音が近づいてきた。
「恒一!」
聞き覚えのある声と一緒に、腕を掴まれる。
「あかりか…どうしたんだよ……」
「ねえ、楽器できる?」
いきなり本題だった。
「……急だな」
「できる?できない?どっち!」
逃げ道を塞ぐタイプの質問だ。
「まぁ……昔ちょっとだけ」
「ほんと!?じゃあ来て!」
有無を言わせず、あかりは俺の腕を引っ張って歩き出す。
「おい、どこ行くんだよ」
「空き教室!すぐそこ!」
引きずられながら、内心でため息をつく。
楽器。
中学の頃、モテるために親父のお下がりのギターとベースを少しだけ触っていた。
結局、誰にも見せることなく終わった黒歴史だ。
楽器をやればモテる、というのは誤解だ。実際はモテる奴がもっとモテるだけだ。
「結衣に頼めばいいだろ」
「結衣ちゃんはね、こういうのよく分かんないって」
「だろうな……」
あかりは廊下を曲がり、空き教室の前で立ち止まった。
教室の中が暗いことが扉越しに分かる。
「じゃ、入るよ」
あかりはニヤッと笑うとノックもなく扉を開ける。
「ようこそ地獄へ!!!」
教室に響き渡る、無駄に腹から出た声。
中には、ワイシャツ姿の男子が一人。
ただし、そのワイシャツは両袖が綺麗に引きちぎられ、ノースリーブになっていた。
ワイシャツの中に着ている黒地に赤い悪魔がプリントされたTシャツが透けている。
反射的に一歩引いた俺の視界に、腕を露出させた男子が飛び込んでくる。
風紀委員案件だろこれ……
「…何やってんだ、お前」
「俺は地獄の住人、ジミー・ヘンドリックスだ」
勝手にジミヘン地獄に送るな。
「本名で名乗れ」
「石井晴人だ!」
名乗れるじゃねえか。
あかりが楽しそうに手を叩く。
「でしょ?ジミヘン、文化祭でバンドやりたいんだって!」
「メンバーがいなくてな……」
晴人――自称ジミヘンは肩をすくめる。
「世界は俺の才能に追いついていない」
「その前に服装をどうにかしろ」
「ロックに袖はいらない」
いるだろ。
会話にならない。
ジミヘンは教室の隅に置いてあった小型アンプの前に立ち、特徴的な鋭い変形ボディのギターを手に取った。
ジミヘン右利きかよ…
慣れた手つきでシールドを挿し、ポケットからイヤホンを取り出す。
「耳、貸せ」
あかりと俺に渡される。
「……何する気だ」
「証明だよ」
ジミヘンはアンプの前にしゃがみ、数秒チューニングを始めた。
教室に、妙な沈黙が落ちる。
あかりが小声で言う。
「ロックの魂が……震える……」
「何言ってんだよ…」
次の瞬間。
「うおおおおおお!!」
叫び声と同時に、音が来た。
メタリカ。
メタル・マスターの、あのリフ。
中学時代死ぬほど聞いてたあのリフだ。
イヤホン越しでも分かる。
音が、逃げてない。
ふざけた格好。
中二病みたいな言動。
でも、指は正確で、リフは崩れない。
……こいつ
俺は無意識に、息を止めていた。
音が止まる。
ジミヘンは満足そうに立ち上がる。
「どうだ」
あかりは目を輝かせていた。
「やば!かっこよ!」
俺は視線を逸らしながら言った。
「……明日、ベース持ってくればいいのか?」
一瞬、あかりがニヤッと笑う。
「決まりだな」
ジミヘンが親指を立てる。
……最悪だ。
なのに、胸の奥が少しだけ熱かった。
その夜。
家に帰ってから、ベースをケースから出した。
音は出さない。
出せない。
アンプに繋がず、指だけを動かす。
テンポを、頭の中で刻む。
さっきより、今より、少しだけ速く。
指は鈍っていた。
思っていた以上に。
「……こんなもんか」
呟いて、もう一度。
メトロノーム代わりに、時計の秒針を聞く。
カチ、カチ、という音に合わせて、低音を想像する。
それを、思い出す。
気づけば、1時間以上経っていた。
ケースに戻す直前、もう一度だけネックを握る。
「……別に、嫌じゃないな」
誰に聞かせるでもない言葉だった。
ベースをしまい、電気を消す。
布団に入っても、耳の奥で音が鳴っていた。
「…ロックの魂が…ふるえる」
なんとなく呟いた言葉は俺を再び布団から出した。
昨日より少しだけ、
放課後が、近くなった気がした。
翌朝、俺は玄関で一度だけ立ち止まった。
ケースに入ったベースは、見慣れているはずなのに、やけに主張が強い。
「……重」
物理的な話でもあるが、それだけじゃない。
久しぶりに「音を出す側」に戻る感覚が、肩に乗っている。
通学中、やたら視線を感じた。
気のせいだ。たぶん。
いや、ケースがでかいだけだ。
教室に着いて席に着くと、隣の山本が即座に食いついてきた。
「それギター? え、バンド?」
「……ベースだよ。助っ人で」
「助っ人で学校に持ってくるもんなんだ…結構気合は入ってるね」
「うるせぇーー」
そう返しながらも、否定しきれない自分がいるのが癪だった。
授業中も、休み時間も、頭の片隅にずっと音が鳴っている。
昨日聞いた、あのリフ。
放課後の音楽室は、思ったよりも静かだった。
先に来ていたのは、あかりとジミヘンだった。
「お、来たな」
「ほんとに持ってきたんだ」
あかりは楽しそうに笑う。
ジミヘンは、なぜか誇らしげに顎を引いた。
セッティングは手探りだった。
ドラムをセットし。
アンプに繋ぐ。
電源を入れ、つまみの調整。
低いハム音が、床を這うみたいに広がった。
「じゃ、やってみるか!」
合図らしい合図はなかった。
始まった、はずだった。
音は、噛み合わない。
俺は指が追いつかず、入りを何度も間違える。
あかりは走る。明らかに速い。
ジミヘンも、人と合わせる癖がなくて、微妙にズレる。
「待って、今の違う!」
「俺、今どこ!?」
「止めるな止めるな!ロックは止まらない!!」
止まってる、普通に止まってる。
音楽室には、バラバラの余韻と、呼吸の音、笑い声だけが残る。
「……ひどいな」
俺が言うと、
「最高じゃん!」
あかりは即答した。
「だってさ、ちゃんとやってる音だった!」
汗を拭きながら、ジミヘンが言う。
「あぁ。今の、最高にロックだった」
俺は返事をしなかった。
ただ、ベースを持つ手を見下ろす。
ミスだらけだった。
音も合ってなかった。
でも、逃げてはいなかった。
「……次は、もう少しマシにやろう」
二人は同時に頷いた。




