風紀委員でも、相馬恒一でもない、僕として。
翌朝。
恒一は、クローゼットの奥から一着取り出した。
季節外れの黒いジャンパー。
少し毛羽立ったスウェットのズボン。
どちらも、今の時期に着るものじゃない。
それと、机の引き出しからおもちゃを取り出す。
畳んで、鞄の底に入れる。
上に教科書を重ねると、存在は分からなくなった。
鏡を見る。
変わったところはない。
いつも通りの顔だ。
だから余計に、気持ち悪かった。
学校までは、いつもと同じ道。
通学路のコンビニ。
交差点の信号。
校門前のざわめき。
全部、昨日までと変わらない。
教室に入って、席に着く。
チャイムが鳴る。
先生が来る。
黒板に書かれる文字を、ただ目で追う。
ノートは取らない。
内容は、頭に入らなかった。
廊下で結衣の横顔を一度だけ見て、すぐに視線を戻す。
声はかけない。
かけられない。
昼休みも、放課後も、
特に何かが起きるわけじゃない。
淡々と、時間だけが進む。
下校。
校門を出たところで、進路を変えた。
駅から少し歩いた。
商店街の端。
一昨日、見た場所。
店と住宅の隙間にできた、細い路地。
昼でも薄暗くて、夜になると人の気配が消える場所。
鞄を肩から下ろし、
人目につかない角で立ち止まる。
黒いジャンパーを羽織る。
スウェットを制服に重ねて履く。
カバンのファスナーを閉める。
深く息を吸って、吐く。
指先が、微かに震えていた。
緊張。
理由は分かってる。
でも、今はかえって都合がよかった。
路地の奥から、声がした。
笑い声。
軽い調子の、冗談みたいな口調。
ただ、遊んでいるだけのような声。
頭にキンキンと響く声が、二つ。
その中心に、もう一つ。
小さくて、押し殺したみたいな。
心臓の音が、うるさい。
それでも、足は前に出た。
路地裏は、思っていたより静かだった。
夕方の商店街から一本入っただけなのに、音が急に薄くなる。人の声も、車の音も、まるで壁一枚で遮断されたみたいに遠い。
黒澤は、壁際に立たされていた。
逃げ道のない位置。背中が完全に塞がれている。
二人。
どちらも顔は知っている。目立つわけじゃないが、群れの中では声が大きいタイプだ。
片方が言う。
「なに?今日も黙り?ほんと便利だよね、あんた」
もう一人が笑いながら続ける。
「ねー。告げ口しないって約束、ちゃんと守ってるじゃん。えらいえらい」
軽い。
本当に、遊んでいるみたいな口調だ。
黒澤は俯いていた。
手に持った大きめの袋が、微かに震えている。
胸の奥が、嫌な音を立てた。
場所と時間を変えただけだ。
やり方も、言葉も。
昨日まで「収まった」ように見えたものは、ただ形を変えただけだった。
足が、勝手に動いた。
気づけば、俺はフードを深く被り、路地の奥に踏み込んでいた。
黒いジャンパー。黒いスウェット。
制服じゃない。それだけで、もう十分に異物だ。
親指の爪を、無意識に噛んでいた。
歯が当たる。
指先が震える。
……いい。
この震えは、今は都合がいい。
喉に力を入れて、声を出す。
「おい」
声が、上ずった。
予想以上に、情けない音だった。
二人が振り返る。
「……あ?」
その瞬間、俺はまた一歩、前に出た。
「お、おい……っ」
名前を呼ぶ。
はっきりと、二人の名前を。
「ぼ、ぼぼぼくの……」
息を吸う。
肺がうるさい。
「ぼくの美琴ちゃんに、て、手を出すなぁ!!」
言い切った瞬間、空気が凍った。
黒澤が、はっと顔を上げる。
視線が、俺に向いた……気がした。
気がした、だけだ。
フードの影で、表情は見えない。
俺はポケットから、それを取り出す。
安っぽい、プラスチック製のおもちゃのナイフ。
でも、そんなことはどうでもいい。
おもちゃのナイフで脅す変質者、その方が彼女らにとってはリアルだろうから。
震える手で突き出す。
距離はある。
触れもしない。
それでも。
言葉はいらなかった。
二人の表情が、一瞬で変わる。
冗談が、消える。
「な、なにこいつ……」
「やば……」
俺は何も言わない。
言わないまま、ただ立っている。
理解しろ。
これ以上関わるな。
数秒。
永遠みたいに長い沈黙のあと、二人は後ずさる。
「……きっも」
捨て台詞を残して、走り去っていく。
足音が、遠ざかる。
路地裏に、俺と黒澤だけが残った。
息が、うまくできない。
膝が笑いそうになる。
……終わった。
俺はナイフをポケットに戻し、フードの影のまま、黒澤に向き直る。
路地裏。
二人きり。
黒澤が、かすれた声で言う。
「……あの……」
恒一は、先に口を開く。
「今のは……演技だ」
黒澤が、びくっと肩を震わせる。
「さっきの言い方も、格好も……全部」
「本当じゃない」
少し間を置く。
「だから……」
「君の後をつけてたとか、そういうのじゃない」
黒澤が、恐る恐る聞く。
「……じゃあ、誰なんですか」
俺は答えない。
代わりに、視線を逸らす。
「……それは、言えない」
「言えないし、これ以上関わるつもりもない」
俺は一歩、下がる。
「今日のことは……もう忘れてくれ」
俺はそれ以上、耐えられなかった。
背を向けて、路地裏を出る。
背中に、視線を感じる。
でも、振り返らない。
これでいい。これ以上、関わるな。
そう自分に言い聞かせながら、俺は歩き続けた。
それが、本当に正しかったのかどうか。
答えは、まだ出ない。
その夜、部屋の電気を消しても、眠れなかった。
エアコンの音がやけに大きく聞こえる。
スマホを見ても、時間だけが進んでいく。
やりすぎたか?
布団の中で、天井を睨む。
黒澤の顔が、何度も浮かぶ。
驚いた顔。怯えた顔。
そして、最後にこちらを見ていた、あの視線。
「……最悪だろ」
小さく呟く。
助け方として、いちばん汚い部類だ。
気持ち悪い、自分が。
言葉じゃなく、恐怖で黙らせた。
いじめと、ほとんど同じ構造だ。
親指を見る。
さっきまで噛んでいた爪のところが、少し赤くなっている。
俺は、何をしたかったんだ。
正義感?
それとも、自己満足?
結衣の顔が浮かぶ。
もし知ったら、きっと止めただろう。
あかりなら、笑って「やば、犯罪者じゃん」と言うかもしれない。
でも。
「……これで終わるなら、それでいい」
誰に向けた言葉かもわからないまま、そう呟く。
黒澤が、もう狙われないなら。
少なくとも、今日の場所では。
それで全部、なかったことにできるなら。
そう思った瞬間、胸の奥がひくりと痛んだ。
忘れろ、って言ったよな。
忘れるわけがない。
忘れられるなら、最初から依頼なんて来ない。
スマホが震えた。
一瞬、心臓が跳ねる。
メッセージ通知。
……妹だった。
『お兄ちゃんの買ってきた洗剤違うやつだったんだけど!』
それだけ。
画面を伏せて、目を閉じる。
黒澤が、今どうしているか。
ちゃんと家に帰れているか。
あの二人が、どこかで笑っていないか。
考えるな。
考えるな。
俺は、関わらないって決めた。
「……人の人生の責任は、取れない」
誰かの言葉みたいに、頭の中で反復する。
だけど。
今日やったことは、
責任を取らないための行動だったのか。
それとも
逃げるためだったのか。
答えは出ないまま、目を閉じる。
眠気は、なかなかやってこなかった。
そんな調子で週が明けた。
放課後の風紀委員室は、相変わらず静かだった。
窓から差し込む西日が、机の角を橙色に染めている。
結衣は椅子に座ったまま、依頼箱を開いては閉じ、また開いてを繰り返していた。
黒澤の依頼からは、ずっとそんな調子だった。
「……相馬くん」
名前を呼ばれても、声にいつもの張りがない。
「なに」
「最近、何もないわね」
依頼のことを言っているのか、
それとも別の何かを指しているのか、分からなかった。
「平和でいいじゃん」
そう返すと、結衣は小さく笑った。
笑ったけれど、どこか無理をしているようにも見えた。
コン、コン。
控えめなノックの音。
二人同時にそちらを見ると、ドアがゆっくり開いた。
「……失礼します」
入ってきたのは、黒澤美琴だった。
肩まで揃えた黒いボブが、少しだけ揺れる。
表情は硬いが、以前よりも俯きがちではない。
結衣がすぐに立ち上がった。
「黒澤さん。どうしたの?」
黒澤は一瞬、言葉を探すように視線を落とし、それから小さく息を吸った。
「……あの、いじめのことなんですけど」
結衣の背筋が、わずかに伸びる。
「最近は、もう……なくなりました」
その言葉に、結衣の顔がぱっと明るくなる。
「本当? よかった……」
心から安堵した声だった。
結衣は胸の前で手を組み、ほっと息を吐く。
「ちゃんと、落ち着いたのね」
黒澤は小さく頷いた。
「はい……」
そのやり取りを、俺は黙って聞いていた。
何も言わず、何も足さず、何も引かず。
結衣がこちらを振り返る。
「相馬くんも……」
俺は頷いた。
黒澤は少しだけ間を置いて、もう一度口を開く。
「それで……もう一つだけ」
結衣は優しく促す。
「なにかしら?」
黒澤は一瞬、結衣を見る。
それから、ふと思い出したように、独り言みたいな調子で言った。
「……あの時の人、誰だったのかなって」
結衣がきょとんとする。
「あの時?」
黒澤は首を横に振った。
「いえ……すみません。気にしないでください」
結衣は困ったように笑う。
「ごめんなさい、私にはちょっと分からなくて……」
その間、俺は黙っていた。
「……さあな」
はぐらかすように、低く答える。
「誰かの見間違いじゃないか」
自分でも驚くくらい、平静な声だった。
黒澤は、その声を、言葉を聞いた瞬間
ほんの一瞬だけ、動きを止めた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
視線が、結衣を通り越して、
まっすぐに俺に向けられた。
疑っているわけでも、責めているわけでもない。
ただ、何かが腑に落ちたような、繋がったような、静かな目だった。
黒澤は何も言わない。
そのまま小さく頭を下げる。
「……失礼しました」
ドアを開け、振り返らずに出ていく。
ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
しばらくして、結衣がぽつりと呟く。
「……今の、何だったのかしら」
俺は答えなかった。
西日が、さっきよりも低い角度で差し込んでいる。
机の上の影が、少しだけ長く伸びていた。




