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猫の人形とオルゴール

作者: 星渡リン

 引っ越しの段ボールは、最後の一箱がいちばん厄介だ。

 台所の調味料でも、クローゼットの服でもない。捨てるには忍びなく、しまい込むには理由が必要なもの――そういうものが、最後の一箱に集まる。


 私は床に座り、箱のガムテープをはがした。乾いた音が部屋に響く。新しい部屋はまだ生活の匂いが薄く、音が少しだけ大きい。窓の外では、夕方の風が電線を揺らしていた。


 箱の中には、古い布の巾着が入っていた。巾着の口を開くと、指先にさらりとした感触が触れる。白くて小さなものが、布の奥で丸くなっていた。


 猫の人形だ。


 掌にのるほどのサイズ。耳は少し欠けていて、右目のガラスは曇っている。胴体は柔らかい布で、何度も抱きしめられた場所だけ、わずかに毛羽立っていた。


 私は、その猫を机の上に置いた。

 どこかにすぐしまうつもりだったのに、置いた瞬間、部屋の温度が変わったように感じた。懐かしさというより、戻ってきた、という感覚。


 猫の首には、小さなリボンが結ばれている。淡い青色。結び目は不器用で、ほどけそうでほどけない。私はそのリボンに触れたところで、手を止めた。ほどけたら、何かが壊れてしまう気がした。


 人形のそばに、もう一つ、固いものがあった。

 小さな木箱。角が擦れて、表面のニスがところどころ白くなっている。ふたの中央に、金色の飾りが埋め込まれていた。


 オルゴールだ。


 私は息を吸って、ふたを開けた。蝶番が小さく鳴り、箱の中の金属の歯車が、暗い光を返す。曲名はわからない。わからないのに、指は覚えているみたいに、ねじを回した。


 カチ、カチ、と軽い抵抗。

 回しすぎると壊れる、という恐れがいつも先に来る。私は三回だけ回して、手を止めた。


 ふたを開けたままにすると、音が鳴るはずだ。

 そう思ったのに、しばらく何も起こらない。


 私は、少し首をかしげる。

 そして、箱の内部を覗き込み、そっと指で金属の軸に触れた。


 瞬間、遅れて音が流れ出した。


 小さく、薄く、それでも確かな旋律。

 空気に刺さらない音。過去の部屋の壁紙の色や、夕方の匂いまで連れてくる音。


 私は思わず、目を閉じた。


 ――昔、同じ音を聞いた。


 その記憶は、映像ではなく、温度で戻ってくる。

 こたつの熱。ほこりを含んだ畳の匂い。台所から聞こえる鍋のふたの音。そして、私の膝の上にいた柔らかい猫の人形。


「まだ起きてるの?」


 声がする。

 叱る声ではない。眠る前に必ず確認してくれる声だ。


 私は、返事をしないまま、布団の中でオルゴールを聞いていた。音が鳴っている間だけ、怖い夢を見ない。そういう理屈のない確信が、当時の私にはあった。


 現実の私は、目を開けた。

 新しい部屋の壁は白く、カーテンもまだ折り目がついている。箱の中の旋律は、少しだけ頼りない。音程が、ほんのわずかに揺れている。


 それでも、ちゃんと鳴っている。


 私は猫の人形を持ち上げ、胸の前に抱いた。

 布の毛羽立ちが、指の腹に馴染む。記憶の中の柔らかさより少しだけ乾いている。けれど、抱けば抱くほど、温度が移ってくる。


 引っ越しを決めたのは、逃げるためだった。

 仕事を辞め、誰にも何も言えないまま、部屋を畳んだ。理由はたくさんある。疲れた、という言葉だけでは足りない。期待に応えられなかった、という言葉だけでも足りない。何より、自分が自分を嫌いになる速度が、怖かった。


 だから、場所を変えれば何かが変わる気がした。

 けれど、段ボールを開けるたびに思い知らされる。持ってきたのは荷物だけではない。私自身も、しっかり運ばれてきている。


 猫の人形も、オルゴールも。

 そして、うまく言えない後悔も、ちゃんと。


 オルゴールの音は、やがて弱くなる。

 最後の一音が、糸のように伸びて、切れる。


 静けさが戻ってきたとき、私はふと怖くなった。

 この音は、いつまで鳴るのだろう。

 壊れたら、私はもうこの温度に触れられないのだろうか。


 私はふたを閉め、ねじを回すのをやめた。

 壊したくない。

 壊したくないから、使えない。


 その気持ちの癖は、知っている。

 大事なものほど、手を伸ばせなくなる。

 失いたくないから、遠ざける。

 遠ざけたまま、時間が過ぎて、結局失う。


 私は猫の人形を机の端に置き、立ち上がった。

 キッチンの棚を開け、マグカップを出す。引っ越し祝いにもらった、真っ白なカップ。湯を沸かし、ティーバッグを落とす。紅茶の色が広がるのを見ながら、私は窓を少しだけ開けた。


 外は、夕方から夜へ移る途中だった。

 遠くのスーパーの看板が点り、車のライトが川のように流れる。誰かの生活が、ちゃんと続いている音がする。


 私は、その音に嫉妬しなくなっていた。

 嫉妬するほどの元気もない、と言った方が正しい。

 でも、ゼロではない。


 机に戻ると、猫の人形が、少し傾いていた。

 私がさっき置いた場所から、ほんのわずかにずれている。


 もちろん、風のせいだ。

 窓を開けたから。

 それなのに、私は一瞬だけ、猫が自分で動いたみたいに感じた。


 胸の奥が、少しだけ柔らかくなる。

 理屈より先に、そうなる。


 私は猫の人形の背中を、指で軽く撫でた。


「……ごめんね」


 誰に向けた言葉なのか、わからない。

 過去の自分かもしれない。

 無理をさせた身体かもしれない。

 期待を受け取れなかった誰かかもしれない。


 猫は答えない。

 答えないのに、撫でると指先が落ち着く。


 私はオルゴールの木箱を手に取った。

 ふたを開ける。

 ねじを回す。


 今度は、壊れないように慎重に――ではなく、必要な分だけ回した。

 三回ではなく、五回。


 音が鳴り始める。

 さっきより少しはっきりしている。たぶん、軸が眠っていただけだ。ずっと使われずにいたものは、最初の一歩が固い。


 私は、その音に合わせて、息をする。

 吸って、吐く。

 旋律は短く、同じところを繰り返す。繰り返すことが、悪いことだとは思わなかった。リズムがあるから、心が戻ってこられる。


 音が鳴っている間、私は紙袋から新しいノートを取り出した。

 引っ越しのついでに買った、安いノート。

 表紙には何も書いていない。


 私は机に置き、開く。

 白いページが現れる。

 その白さに、少しだけ身構える自分がいる。


 けれど、今日はオルゴールが鳴っている。

 鳴っている間なら、失敗しても大丈夫な気がする。

 不思議な確信が、また戻ってくる。


 私はペンを持ち、ページの右下に、小さな丸を描いた。


〇。


 それから、日付を書く。

 そして、短い一言。


「ここにいる」


 書いた瞬間、胸が少し痛む。

 痛むのに、手は止まらない。


 次のページに、さらに一行書く。


「今日は、箱を開けた」


 たったそれだけ。

 立派な決意でも、未来の計画でもない。

 でも、嘘ではない。


 私は猫の人形を見た。

 いつものように、黙ってそこにいる。

 それが、ありがたい。


 オルゴールの音が終わるころ、私はもう一行だけ書いた。


「怖いから、少しずつでいい」


 最後の音が細く伸びて、消える。

 部屋は静かになる。

 静かなまま、私はノートを閉じた。


 閉じても、逃げた気がしなかった。

 今日は、開いた。

 今日は、書いた。

 今日は、鳴らした。


 それだけで、十分だと思えた。


 夜、シャワーを浴びて、布団に入る。新しい部屋の天井は、まだよそよそしい。

 私は枕元に猫の人形を置き、オルゴールの木箱をそっと並べた。


 鳴らすかどうか、迷う。

 迷って、鳴らさない。

 でも、鳴らさないことが、今日は怖くない。


 いつでも鳴らせる。

 いつでも戻れる。

 そう思えるだけで、眠れる気がした。


 私は目を閉じる。

 暗闇の中で、猫の布の感触だけが確かに残る。

 オルゴールは沈黙している。

 沈黙しているのに、音の余韻が、まだ部屋の隅にいる。


 窓の外で、風が一度だけ鳴った。

 それは、昔の家の夜に似ている音だった。


 明日が来る。

 来ても、すぐに何かが変わるわけじゃない。

 それでも、私は今日、箱を開けた。


 そして、それはたぶん、私にとって小さな希望だった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

この物語は、「大事だからこそ触れられないもの」をテーマにしています。思い出の品や、過去の自分、あるいは本当の気持ち。壊したくなくて遠ざけてしまうけれど、遠ざけたままでは、温度も音も、いつか失われてしまう。


もしあなたのそばにも、長いあいだ箱にしまったままの何かがあるなら、今日でなくても構いません。思い出したその瞬間が、きっと最初の一歩です。この物語が、その背中をそっと温める存在になれたら嬉しいです。

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