表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/8

桶狭間の戦い(3/3)

義元は盃を掲げ、ふと外を見た。

その琥珀色の酒に、炎がゆらりと映る。

——揺れているのは火か、それとも己の心か。


盃を見つめながら、脳裏に浮かんだのは、遠い日の駿府だった。


幼き日の義元は、寺に預けられた。

母の手を離れ、寒い板の間に膝を折り、経を読む日々。

雪の日も、鐘の音だけが静かに響いていた。

「泣くな。仏の道を歩め。」

そう言った師の声は、今でも耳に残っている。


だが、少年の義元は知っていた。

——自分は、仏にはなれぬ。

いつか、駿河を越えて天下を取る者になるのだと。


還俗し、太刀を取ったあの日。

初めて握った柄の感触は、冷たくも甘美だった。

政略も、婚姻も、血の流れすら己の掌の上にあった。

駿河、遠江、三河——版図は広がり、家臣たちは「東海一の弓取り」と称えた。

義元は笑った。

だが、心の奥でいつも響いていた。

「仏の道を離れ、修羅の道を往くのか」


——修羅の道の果てに、何があるのか。

誰も教えてはくれなかった。


盃の酒が、指先を伝い落ちた。

義元はそれに気づき、苦笑する。


幕舎の外では、風が強まっていた。

松の枝が擦れ合う音が、妙に耳に残る。


「勝ちは目前……そうだろう?」

誰に問うでもなく呟く。


だが、返事はない。

焚き火の火が一つ、ぱち、と音を立てて弾けた。


風の向きが変わる。

冷たい夜気が幕を揺らし、炎が細く伸びた。


義元は顔を上げた。

そこには、数多の戦を越えてきた男の、

生涯で初めて見る「静寂の気配」があった。


——ああ、これは。


森が、息を潜めている。

まるで、何かが飛びかかる直前のように。


風が唸り、幕が大きく揺れた。

義元の髪を夜風が撫でる。

火の粉が舞い、盃の中に散った。


——音が変わった。


さっきまでの雨音とは違う。

遠く、土を蹴る音。地鳴りのような、低い震え。


「……何だ?」


兵の一人が顔を上げた。

幕の外の闇が、不自然に揺れている。

風でも、炎でもない。


それは、人の波だった。


「て、敵襲っ——!!」


次の瞬間、夜が裂けた。

火矢が飛び交い、馬の嘶きが轟く。

森の中から、無数の影が雪崩れ込んだ。


「織田か!? なぜだ、ここに織田が——!」


叫びも命令も、雨に呑まれる。

泥が跳ね、血が混ざる。

義元の兵たちは、酔いと油断のままに混乱した。


「馬を! 馬を連れてこい!!」


従者が駆け出すが、すぐに倒れた。

槍が突き刺さり、雨が血を洗う。

義元は立ち上がる。

戦装束ではない、薄衣のまま。

だが、目は冴えていた。


炎に照らされた敵兵の顔が見えた。

狂気と信念の入り混じった瞳。

あの若き織田信長の軍勢だ。


(………)


義元はゆっくりと太刀を抜いた。

白刃が雨を弾く。

それは、彼の人生最後の祈りのようにも見えた。


「修羅の道、ここに極まれり——」


駿府の僧としての記憶が、遠のく。

母の顔が浮かぶ。

そして、血の匂い。


振り向いた瞬間、風が走った。

一閃。


視界が白く弾けた。

全ての音が遠のく。


義元は、倒れゆく中で見た。

炎の向こうに、若き男が立っていた。

髪を濡らし、口元には笑み。


——信長。


その姿に、義元は思わず笑った。


「……見事だ、若き修羅よ」


そのまま、泥に沈む。

盃が転がり、酒が雨に溶けて消えた。


そして、森が再び静けさを取り戻した。


雨の音だけが残る。



一方その頃、清州城。


良之助は、胸の奥で何かが燃えるのを感じていた。

雨音に混じって、遠くの地鳴りのようなものを感じた。

まるで、歴史の歯車が動いた音のように。


「……信長、勝ったんだな」


自分の手が震えているのに気づいた。

あの評定で語った言葉が、戦場に届いたのだと思うと、

涙が頬を伝った。


雨の匂いが、心に沁みる。

そして良之助は、天を仰いだ。


(——俺は、生きて、この時代で何をすべきなんだ)


夜明け前、遠くの空が、かすかに朱に染まりはじめた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ