桶狭間の戦い(3/3)
義元は盃を掲げ、ふと外を見た。
その琥珀色の酒に、炎がゆらりと映る。
——揺れているのは火か、それとも己の心か。
盃を見つめながら、脳裏に浮かんだのは、遠い日の駿府だった。
幼き日の義元は、寺に預けられた。
母の手を離れ、寒い板の間に膝を折り、経を読む日々。
雪の日も、鐘の音だけが静かに響いていた。
「泣くな。仏の道を歩め。」
そう言った師の声は、今でも耳に残っている。
だが、少年の義元は知っていた。
——自分は、仏にはなれぬ。
いつか、駿河を越えて天下を取る者になるのだと。
還俗し、太刀を取ったあの日。
初めて握った柄の感触は、冷たくも甘美だった。
政略も、婚姻も、血の流れすら己の掌の上にあった。
駿河、遠江、三河——版図は広がり、家臣たちは「東海一の弓取り」と称えた。
義元は笑った。
だが、心の奥でいつも響いていた。
「仏の道を離れ、修羅の道を往くのか」
——修羅の道の果てに、何があるのか。
誰も教えてはくれなかった。
盃の酒が、指先を伝い落ちた。
義元はそれに気づき、苦笑する。
幕舎の外では、風が強まっていた。
松の枝が擦れ合う音が、妙に耳に残る。
「勝ちは目前……そうだろう?」
誰に問うでもなく呟く。
だが、返事はない。
焚き火の火が一つ、ぱち、と音を立てて弾けた。
風の向きが変わる。
冷たい夜気が幕を揺らし、炎が細く伸びた。
義元は顔を上げた。
そこには、数多の戦を越えてきた男の、
生涯で初めて見る「静寂の気配」があった。
——ああ、これは。
森が、息を潜めている。
まるで、何かが飛びかかる直前のように。
風が唸り、幕が大きく揺れた。
義元の髪を夜風が撫でる。
火の粉が舞い、盃の中に散った。
——音が変わった。
さっきまでの雨音とは違う。
遠く、土を蹴る音。地鳴りのような、低い震え。
「……何だ?」
兵の一人が顔を上げた。
幕の外の闇が、不自然に揺れている。
風でも、炎でもない。
それは、人の波だった。
「て、敵襲っ——!!」
次の瞬間、夜が裂けた。
火矢が飛び交い、馬の嘶きが轟く。
森の中から、無数の影が雪崩れ込んだ。
「織田か!? なぜだ、ここに織田が——!」
叫びも命令も、雨に呑まれる。
泥が跳ね、血が混ざる。
義元の兵たちは、酔いと油断のままに混乱した。
「馬を! 馬を連れてこい!!」
従者が駆け出すが、すぐに倒れた。
槍が突き刺さり、雨が血を洗う。
義元は立ち上がる。
戦装束ではない、薄衣のまま。
だが、目は冴えていた。
炎に照らされた敵兵の顔が見えた。
狂気と信念の入り混じった瞳。
あの若き織田信長の軍勢だ。
(………)
義元はゆっくりと太刀を抜いた。
白刃が雨を弾く。
それは、彼の人生最後の祈りのようにも見えた。
「修羅の道、ここに極まれり——」
駿府の僧としての記憶が、遠のく。
母の顔が浮かぶ。
そして、血の匂い。
振り向いた瞬間、風が走った。
一閃。
視界が白く弾けた。
全ての音が遠のく。
義元は、倒れゆく中で見た。
炎の向こうに、若き男が立っていた。
髪を濡らし、口元には笑み。
——信長。
その姿に、義元は思わず笑った。
「……見事だ、若き修羅よ」
そのまま、泥に沈む。
盃が転がり、酒が雨に溶けて消えた。
そして、森が再び静けさを取り戻した。
雨の音だけが残る。
⸻
一方その頃、清州城。
良之助は、胸の奥で何かが燃えるのを感じていた。
雨音に混じって、遠くの地鳴りのようなものを感じた。
まるで、歴史の歯車が動いた音のように。
「……信長、勝ったんだな」
自分の手が震えているのに気づいた。
あの評定で語った言葉が、戦場に届いたのだと思うと、
涙が頬を伝った。
雨の匂いが、心に沁みる。
そして良之助は、天を仰いだ。
(——俺は、生きて、この時代で何をすべきなんだ)
夜明け前、遠くの空が、かすかに朱に染まりはじめた。




