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桶狭間の戦い(1/3)

気づけば、土の匂いがした。

鼻の奥に、湿った大地と焚き火の煙のような匂いがしみる。

さっきまで、確かに会社の帰り道だった。

終電を逃して、人気のない道を歩いていたはずだ。


「……ここは、どこだ?」


耳に届くのは、虫の声。

遠くで、犬のような鳴き声が響く。

いや、犬ではない。狼だ。


佐々木良之助は、よろめきながら立ち上がった。

足元には、石段が続いている。

古びた鳥居が、夜の闇に沈んでいた。


そのとき、風が吹いた。

松明のような光が、一瞬ちらりと揺れる。

胸の奥に、ざわつくものが走った。

——呼ばれた。

そんな感覚があった。


良之助は無意識のうちに石段を登り始めた。

夜の森は静まり返り、月明かりだけが道を照らす。

やがて、神社の境内が見えた。

そこに、ひとりの男がいた。


燃えるような目をした若武者。


若武者が松明の灯の下に立っていた。

髪は総髪に結われ、漆黒の甲冑が夜気を吸いこむように沈んでいる。

腰には刀。背筋はまっすぐで、空気が張りつめた。


良之助は思わず口を開いた。

「……え、撮影? 映画か何か?」


青年は微動だにしなかった。

だが、次の瞬間、その眼光が鋭くなる。


「何者だ」


低い声が響く。

風が止まり、森が息をひそめた。


その瞬間、良之助の背筋に冷たいものが走った。

ただのコスプレでも、役者でもない。

この男は——本気で人を斬れる人間だ。


「ま、待ってくれ! 通りすがりで……!」


間者かんじゃか。」


青年の手が、刀の柄にかかった。

その動きに、良之助の心臓が跳ねる。

先日の“反社”の事務所で感じた圧より、何倍も重い。

理屈じゃない。

——この男は、本物だ。


だが、怯んだら終わる。

良之助の体が、勝手に動いた。

ゆっくりと両手を上げ、呼吸を整える。

目をそらさず、まっすぐに相手を見る。


(のまれるな。ここで怯えたら、殺される。)


心の奥底に、いつかの修羅場で培った感覚が蘇る。

今こそ動くとき——本能がそう告げていた。


「おいおい……俺は怪しいもんじゃない。

 ただ……気づいたら、ここにいたんだ。」


沈黙。

青年の視線が、良之助の服装をなぞる。

見たこともない素材。奇妙な靴。


「……貴様、どこより来た。」


「どこって……それ、俺が聞きたいくらいだよ。」


ふと、風が吹いた。松明の火がゆらめき、青年の顔がはっきり見える。

どこか人間離れした光を宿した瞳——それが、良之助の胸を撃った。


「……今は、いつなんだ?」


青年の眉がわずかに動く。

やがて口を開いた。


「永禄三年」


言葉が、脳の奥で弾けた。

永禄三年。

それは、歴史の教科書でしか見たことのない世界。



青年は、薄く笑った。

「貴様……時を越えたか。」


その目に宿るのは、確信だった。

そして名乗る。


「我は——織田上総介信長。」


良之助の喉が、乾いた音を立てた。

現実が、音を立てて崩れていく。


「織田……信長……?」

良之助の声は、かすれていた。

耳がその名を拒んでいるのに、心の奥で“知っている”と叫んでいた。


「……まさか、本物?」


信長は一歩、良之助に近づいた。

その動作だけで、空気が裂けるような圧が走る。


「貴様、名を名乗れ。」


「さ、佐々木……良之助。」


信長はその名を一度、口の中で転がすように繰り返した。

「ささき……よしのすけ。妙な名だ。聞いたこともない。」


目を細め、鋭く問う。

「何ゆえ、こんな夜更けにやしろへ現れた?」


「わからない。気づいたらここにいたんだ。

 仕事帰りに神社に立ち寄って……次に目を開けたら、森の中だった。」


「仕事、とは?」


「え、えっと……会社の……営業とかマネジメントとか……」


「まねじめんと?」

信長は首をかしげる。

だがその瞳は、言葉ではなく“態度”を観察していた。


沈黙が落ちる。

やがて、信長の唇がわずかに歪む。

「嘘は申しておらぬようだ。

 だが、貴様の物言い……武家の者ではないな。」


「いや、戦なんて……」


「ならば問う。」

信長はゆっくりと刀を抜いた。

月明かりを受けて、刃が光る。


「もし、我がこの刃を抜いたら——貴様はどうする?」


良之助の全身が凍る。

背筋を冷たい汗が伝う。

(やばい、殺される……!)


だが、その刹那、別のことが脳裏に浮かぶ。

——怯むな。流されるな。相手のペースを崩せ。

過去の交渉現場で、何度も身につけた“場の読み”が蘇る。


良之助は、呼吸を整え、目をそらさず言った。

「抜くなら抜け。……けど、俺は逃げない。」


一瞬、風が止んだ。

松明がゆらめき、信長の瞳が細くなる。


次の瞬間——

信長の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。


「……面白い。」


刀が音を立てて鞘に戻る。

「常人なら、膝をつき震える。

 だが貴様は恐れを呑み込み、言葉で立った。」


良之助は、ようやく息を吐いた。

「試したのか……?」


「うむ。」

信長は静かにうなずく。


「時を越えて来た者ならば、心根を見ねばならぬ。

 貴様は嘘を申しておらぬ。……だが凡愚でもない。」


しばし沈黙。

そして、信長は低く呟いた。


「面白き男だ。……この乱世、我に仕えよ。」


良之助は言葉を失った。


戦国の夜風が吹き抜け、

松明の炎が、二人の影を神社の石段に長く伸ばした。


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