第2話 辺境の戦い
村の朝は、かすかな煙の匂いで始まる。湿った薪に火を入れる匂い。パン生地に指跡を残す粉の匂い。牛の吐息と井戸の水面がひやりと光る匂い。
リオンは、村はずれの空き地で新しい仲間と向かい合っていた。
「改めて自己紹介するね!」
銀髪の少女が胸を張る。昨夜、酒場で声をかけてきた本人だ。
「わたしはミナ。小さな傭兵団《灯火》の団長――自称だけど。短剣と投げナイフが得意。素早さにはちょっと自信があるよ」
「前に立つブロムだ」
丸太みたいな腕をした大男が、苔むした丸盾を叩く。
「鈍い頭で悪いが、殴るのは得意だ」
「遠距離はティレに任せて」
弓弦を指で鳴らした青年は、茶色の瞳でリオンを計るように見た。
「狩人あがり。風向きと足跡で大体のことはわかるさ」
「治癒はぼ、僕が」
痩せた少年が一歩出て、胸に手を当てた。
「ノエル。神学校は落ちたけど、癒しの祈りだけは、ちゃんと届くって言われてる」
四人とも、どこか不揃いだ。けれど、その目は昨夜と同じく真っ直ぐだった。
「依頼は?」とリオン。
ミナが腰の革袋から一枚の羊皮紙を広げる。
「北の木柵が崩れてね。畑に**灰角猪**が出る。群れの匂いが濃いってことで、村長が正式に《討伐と柵の応急》を依頼。報酬は現物――穀物と、冬越し用の脂。……お金は出せないって、申し訳なさそうに言われたけど」
「十分だ」ブロムが頷く。「まずは食えることが先決だ」
リオンは羊皮紙を受け取り、指で縁をなぞる。
鼻腔に土と草と脂の匂いが混ざった北風が入る。魔力の糸――昨夜感じた“揃う感覚”が、掌の内側で静かに脈打つ。
「行こう」
四人と一人は、北へ歩き出した。
*
崩れた木柵は、思っていたより悲惨だった。根株ごと持ち上げられ、丸太の端にざらついた擦過痕が残る。獣の体温が通った土は黒くぬめり、蹄の跡が重なって見えにくい。
「三頭以上……いや、五」ティレがしゃがみ込み、泥に指を差し入れて匂いを嗅ぐ。
「風上に仔の匂い。親が守って、怒ってる群れ方だ。突進が速い」
ブロムが盾の革ベルトを締め直す。「正面は俺が受けよう」
「迂回で脇から刺す」ミナが短剣を抜く。「ティレは目を潰せる? ノエルは後衛三歩下がって、出血が出たら即座に止血の祈り」
リオンは頷き、呼吸を深くした。
胸の奥にひそむ編み糸が、ひと呼吸ごとに長く伸びる。目に見えない糸が四人へ、風になじむ角度でかかっていく。
「――《完全支援:基底》展開」
微かな鈴の音が鳴った気がした。音の正体は、魔力の律動だ。
四人の肩が、同時にゆるんだ。筋肉の伸長速度が、互いの視界に“無意識の計時”として同期する。
ティレが息を呑む。
「……今、風向きが、見える」
「見える?」ミナが片眉をあげる。
「いや、違う。わかるだ。吹き返しが来る位置が先に“わかってる”。足が勝手にそこへ付く。これ、支援の感覚なのか?」
「《完全支援》は、数値を上げるだけじゃない」リオンは静かに言った。
「いちばんうまくやれる瞬間を、からだに先に渡す。脳より早く、癖より賢く」
ブロムが短く笑った。「それを早く言え。胸が軽い。行ける」
灰色の灌木帯の向こうから、鼻を鳴らす低音。
灰角猪が現れた。肩までの高さは大人の腰。角は生え変わりの季節で、ざくりと荒い。先頭の一頭は、右目に白濁があり、怒りで足取りが固い。
その背後から、もう四つの影。群れが横幅を広く取り、押し流す陣形をとる。
「来る!」
土が跳ねた瞬間、リオンは指を組んだ。
「《完全支援:間》――縫合」
四人の足音が、綺麗に四拍子に揃った。
ブロムの盾が一歩早く半身で出る。猪の角が滑り、盾面の縁に沿って力が逃げる。
同時に、ティレの矢が風の谷間に落ち、先頭の右目と、角の付け根の間に吸い込まれた。
悲鳴が土を震わせる。二頭目、三頭目が突進角度を修正する前に、ミナが横へ流れてアキレス腱を切り裂く。
ノエルが後方で祈り、砂埃が肺に入らぬよう薄膜の光を張る。
誰もぶつからず、誰も遅れない。
リオンはひとつも攻撃していない。ただ、四人の“いちばんうまい”を先に渡している。
四頭目が怒りに任せて泥を蹴った瞬間、リオンは支援の糸をきゅっと絞った。
「《完全支援:重心》――落下値を下げる」
ブロムの踏み込みが、ありえないほどに沈む。
盾が地面に根を張り、角が弾かれ、猪は自壊するように横へ転がった。
ミナの短剣が喉を掠め、ティレの二射目が肺を貫く。
五つの影が、土の上でばらばらに止まった。
風が戻る。
息が、合っていたという実感が遅れて四人を包む。
ブロムは盾を地面に突き、肩で息をした。
「……なんだ、今のは。俺、若い頃の踏み込みが戻ったみたいだった」
「僕は祈りの言葉を噛まずに言えた。いつもは怖いと舌がもつれるのに」ノエルが両手を見つめる。
ティレは乾いた笑いを漏らす。「矢が、風に乗る前から“乗ってた”。こんなの、初めてだ」
ミナが短剣を払って鞘に収め、くるりと振り返った。
「支援だけで、勝てた。ね、リオン。あなたが最強だよ」
リオンは首を振る。「最強なのは、四人だ。俺は、揃えただけ」
村人たちが遠巻きに見ていたらしく、小走りで駆け寄ってくる。
拍手が起こり、しわだらけの手が肩を叩く。
村長が深々と頭を下げた。
「こんな速さで……命の恩人だ。柵の直しは若い者にやらせよう。あんたらは、腹を満たしてくれ」
リオンは礼を言い、灰角猪の脂と肉を受け取った。
血の匂いより、炊き上がるスープの匂いのほうが強くなる。冬が来る前に、村の胃袋に希望が戻る。
それだけでいい――そう思った、まさにその時だった。
ティレが耳をすませる。「……鐘だ」
北の丘に据えられた鉄鐘が、三連一拍で鳴る。
魔物群れの合図だ。猪ではない。もっと速く、背が高い。
風下からざらついた匂いが広がり、遠目にも灰が舞った。
「**灰狼**の群れだ」ティレが顔をしかめる。「火の下草を嫌ってるのに、この速さ……誰か、追い立てた?」
村長の顔色が変わる。「北の峡で、勇者様方が魔王軍の遊撃を狩ってると聞いた。狼は、そっちから――」
リオンの胸が冷えた。
勇者アルバートの顔が、焚き火の夜に重なる。
支援の糸を断ったあの一行は、いま、呼吸を持っていない。
「門を閉めろ!」ミナが叫ぶ。「子どもと老人は家の中へ! 戸口に水を打って! 火は低く、煙を扉の外に出して!」
ブロムが地面に膝をつき、簡易の柵を立て直す。
ノエルは広場の中央に**浄化陣**を描いた。
リオンは村の入口に立ち、四人を見る。
「もう一度、揃える。でも今度は、村全体だ」
「村全体?」ミナが瞬きをする。
リオンは息を吸い、魔力の糸を指の間にかける仕草をした。
糸は細いほど強い。強いほど遠くへ行ける。
彼は視線だけで村人たちをなぞった。水桶を抱える男。麦束を運ぶ少女。戸を閉め損なって震える老婆。
それぞれの“いちばんうまい動き”は違う。けれど、揃えることはできる。
「――《完全支援:陣域》展開。灯火」
空気の相が切り替わる。
村の通りに、見えない灯りが順に点っていく。
走る足は転ばず、戸は一度で閉まり、桶の水は溢れない。
ブロムの槌は釘を外さず、ノエルの祈りは一息で満ちる。
ミナは門へ駆けながら、リオンの横顔を盗み見た。
(これは、支援じゃない。――指揮だ)
灰狼の先鋒が、風を裂いて現れた。
背中の骨板が起伏し、尾が灰を散らす。目は黄色く、数は――十、二十、三十。
ティレが屋根に上がり、最初の矢を放つ。
リオンは同時に、鐘の拍に合わせて村の心臓を打つ。
四拍子が、六拍子に変わる。走る速度と手の仕事の速度を、狼の呼吸から半拍外へずらす。
「《間》――ずらし」
狼の跳躍は、半拍遅れた地面を噛んだ。
ブロムの盾は、半拍早い角度でそこにある。
ミナの短剣は、半拍早くもう通り過ぎている。
ティレの矢だけが、ぴたりとその半拍に乗る。
ノエルの陣は、村人の足を取らず、傷口から泥を遠ざける。
リオンは、その真ん中で何もしていない。
ただ、合わせている。
村という名のひとつの身体の、手足と肺と心臓を。
狼の群れが重なり合い、門前の空気が黒くなる。
その黒は、村人の汗で薄められ、土に吸われ、火の赤で縁取られる。
ブロムが吠える。「押し返せる!」
「押し返すな」リオンが静かに言った。「通す」
「通す!?」ミナが目をむく。
「門の前で押し合えば、柵が折れる。狭い路地に誘導する。狼は縦に伸びれば弱い。……ティレ、三射目は左の水樋を落として」
「了解」
矢が木の水樋を裂き、水の幕が落ちる。
狼たちの鼻が湿って鈍る。嗅覚が狂い、わずかに斜めへ流れる。
そこへ、ミナがひとり突っ込んだ。
短剣の柄で顎をはね、足で土を跳ね、壁を蹴って背を刺す。
リオンの糸が、彼女の視界の死角に白い線を引く。
ミナはその線を見ていない。見る前に、そこを斬っている。
ノエルが息を詰め、少年の声で叫ぶ。
「村の南の戸、開けっぱなし!」
リオンは支援の糸をひと束、南へ投げた。
ちょうど通りかかった老人の足もとに、白い線。
老人は線を見ない。ただ体が先に動く。戸が閉まる。間に合う。
(――これが俺の《完全支援》)
リオンは、自分に遅れて追いついた実感に、ほんのわずかに笑った。
誰かの“できる”の形を、先に渡す。
それは数字ではなく、呼吸だった。
狼の群れはやがて、細長くなって崩れた。
先頭は倒れ、後尾は怯え、中抜けの形で森へ逃げ込む。
「追わない」リオンが手を下ろす。「今日は、生き延びれば勝ちだ」
ブロムが盾を地面に置き、長く息を吐いた。
ティレは屋根の上で、弦を鳴らしてから弓を肩にかけた。
ミナは血に濡れた短剣を振り、口角を上げる。
「村を、守った」
ノエルが膝をつき、祈りの言葉をそっと閉じた。
鐘は静まった。
リオンの支援の糸は、ほどける音もなく消え、代わりに人々の歓声が満ちていく。
*
同じ頃。
北の峡では、勇者アルバートの一行が、黒い岩棚の上で膝をついていた。
「セリナ、回復はまだか」
「詠唱が……入らないの。タイミングが掴めない」
ガイルは血のついた剣を握り直し、苛立ちを地面に吐き捨てる。
「なんでだ。昔は目で合図すれば、足が勝手に動いた」
アルバートは歯を食いしばった。
体は動く。力もある。だが、噛み合わない。
敵の大槌がわずかに早く、こちらの魔法はわずかに遅い。
積もるのは疲労だけだ。
その時、峡の向こうから狼の群れが逃げるのが見えた。
狼は、怯え、細長く、中抜けになっている。
アルバートは首を傾げた。
誰かが、指揮している。
彼の脳裏に、一つの名が浮かんでは消えた。
否定の言葉が、喉に引っかかる。
焚き火の夜、自分が切った糸の手触りが蘇る。
*
夕暮れ、村の広場。
灰角猪の肉が大鍋で煮え、香草と脂の匂いが肩越しにまとわりつく。
子どもが笑い、老人が手を叩く。
ミナは器を片手に、リオンの隣に腰を下ろした。
「見た? ノエルの手。震えてなかった」
「うん」リオンは笑う。「祈りは、呼吸が半分だ」
「ブロムの踏み込み、地面が味方してた」
「彼は、土を見る目がある。見てる自覚がなかっただけ」
「ティレの矢は、風が前から吹くみたいに入ってった」
「そういう風になる前に、手を出したんだ」
ミナは器を置いて、真面目な顔になる。
「あなたが“裏方最強”なのは、わかった。……それでいいの?」
「それで、いい」
「“ざまぁ”したくないの?」ミナは少し意地悪そうに笑う。「あの勇者に、あなたがいなくなってどれだけ困ってるか、思い知らせたいでしょ」
リオンは焚き火を見つめた。
火の向こうに、過去の焚き火が重なる。
あの夜、言い返すこともできた。彼らの知らない“揃う仕組み”を、言葉で示すことも。
でも、それは違うと思った。支援は、言葉で説得するものじゃない。呼吸でわかるものだ。
「――いつか、わかるよ」リオンは小さく言った。
「俺が何をしてたか。俺たちが何をできるか。……それで、十分だ」
ミナは目を細め、しばし黙ってから頷いた。
「じゃあ、うちの団に正式に入って。《灯火》の副長として。指揮はあなたが取って。団長の座は……半分こね」
「半分こ?」
「団長は二つ要らない。でも、灯りはいくつあってもいい」
リオンは笑った。「わかった。半分、受け取る」
そこへ、村長が息せき切って駆けてきた。
背中に夕日の赤が差し込み、影が長い。
「たいへんだ、手紙だ。北の関守からの急使――勇者様方が援軍を求めている。峡の向こうで、足が合わず、負傷者が出たと」
静かなざわめきが、広場を走る。
リオンは器を置いた。
ミナが彼の横顔を見る。
ティレは弓を撫で、ブロムは盾の革紐をきゅっと締め、ノエルは祈りの言葉を胸に飲み込んだ。
リオンは立ち上がる。
焚き火の火が、ぱち、と小さく跳ねた。
「行こう。《灯火》で」
ミナが頷く。「うん。灯りを、持っていく」
リオンは夜空を仰ぎ、息をひとつ整えた。
彼の指の間で、見えない糸がきゅっと張る。
その先にいるのが、かつての仲間でも――構わない。
(支援は、きっと誰のものでもない。必要とするものに、届けばいい)
焚き火の灯りが、ゆっくりと風に揺れた。
その揺れは、やがて北へ――峡の影へと伸びていく。




