第097話 ー小さな綻びは、静かに波紋となるー
おかえりなさいませ。
本日は、わずかな綻びが広間に波紋を生み始める刻をお届けいたします。
ライナルトの声が震えた瞬間から、
広間の空気は確かに変わっていた。
セレナの物語を覆っていた“美しい膜”が、
ほんのわずか——指先で触れれば破れそうなほど薄く、
揺らいでいる。
その揺らぎを、
敏い者たちは誰よりも早く察した。
「……さっきの、聞いた?」
「婚約者なのに、あの歯切れの悪さは……」
「本当に支えていたなら、すぐに言葉が出るはずよ」
囁きはまだ小さい。
だが、確かに存在していた。
その中心に立つセレナは、
微笑を崩すことなく扇子を広げた。
「まあ……皆さま。
彼はとてもお優しい方なのです。
わたくしのことを思って、
言葉を選んでくださっているだけですわ」
その言葉は完璧だった。
優しさも、謙遜も、涙も含んでいる。
けれど——
(……“選んでいる”のではなく、“迷っていた”のよ)
リリアナははっきりとそう感じていた。
セレナの物語は美しい。
だからこそ、ほんの小さな矛盾が目立つ。
アルフレッドが静かに言った。
「噂は変わる。
一度矛盾が見えれば、空気は戻らない」
「……戻らない、ものですか?」
「人は、美しいものを疑わない。
だが、一度疑ったら——
“どこまで嘘なのか”を探し始める」
その言葉に、
リリアナは胸の奥がひりつくのを感じた。
(姉様の言葉は、嘘……)
かつて憧れ続けた姉の影に、
わずかに“綻び”が見える。
*
そんな中、
人波をかき分けて、
王妃派の令嬢がセレナのもとに近づいた。
「セレナ様……!
先ほどの話、ぜひ私たちにも詳しく……!」
彼女たちは涙ぐみながら、
セレナの手を取ろうとした。
だが——
その手の届く寸前、
扇子の影でセレナの瞳がわずかに鋭く光った。
「ええ、喜んで……
ですが、どうか声をお控えになって。
皆さまを騒がせるつもりはありませんの」
甘い声だった。
けれど“支配”がにじむ声でもあった。
王妃派の令嬢は一瞬たじろぎ、
それでも無理に笑顔を作った。
そのやり取りを見て、
周囲の数人が気づく。
「あれ……今の笑顔、少し……」
「ええ、なんだか……冷たいような……?」
またひとつ、噂の種が落ちる。
*
リリアナは、動けなかった。
胸の奥で、何かが揺れている。
姉の言葉、姉の微笑、姉の演じる姿。
すべてが懐かしく、痛く、遠い。
——その時だった。
「リリアナ」
アルフレッドが呼んだ。
振り返ると、
灰の瞳が真っすぐにこちらを見ていた。
「お前は、何も間違えていない。
そのことを忘れるな」
その言葉は、
胸の奥に静かに落ちた。
(……わたくしは、間違えていない……)
セレナの美しい物語に押し潰されそうだった心に、
ほんの小さな芯が灯る。
アルフレッドが続けた。
「ただ、黙っているだけでは奪われる。
事実を語る時が来る。
その時に迷わぬために——心を整えておけ」
リリアナは小さく息を吸い、
しっかりと頷いた。
「……はい、閣下」
*
その頃、
セレナは王妃派の輪の中で、
穏やかな微笑を浮かべていた。
しかし、彼女の瞳は微笑っていない。
(……厄介ね。
この場だけは完璧に進めるはずだったのに)
その視線の先には、
リリアナとアルフレッドが立っていた。
そしてセレナは、扇子の影で小さく笑う。
(ならば次の手を打てばいい。
“美しい姉”の物語は、まだ始まったばかりだもの)
静かに、
新たな策略の気配が広間を漂い始めていた。
最後までお付き合いくださり、誠に光栄にございます。
セレナの仮面はまだ美しく微笑んでいますが、
その裏で小さな亀裂が確かに走り始めました。
次の刻では、彼女がさらなる一手を打ち、
広間の空気が一段と緊迫してまいります。




