第096話 ー揺らぐ声、壊れ始める影ー
おかえりなさいませ。
本日は、姉の“語り”の直後に起きた、小さなほころびの刻をお届けいたします。
セレナの“謝罪”が広間に落ちたまま、
空気はゆっくりと波紋のように広がっていった。
重く、柔らかく、人々の心を包み込むような声だった。
「リリアナ……
わたくしは、あなたに許されたいのです」
その一言で、周囲の視線は一斉にリリアナへ向いた。
眉を寄せる者、胸に手を当てる者、同情をにじませる者。
(……わたくしが、姉様を傷つけた……?
そんな噂が広まっているの……?)
胸の奥がきゅっと縮む。
リリアナが言葉を探していると——
王妃派の青年が唐突に声を上げた。
「ライナルト殿!
あなたからも何か、一言あってしかるべきでは?」
それは、
“婚約者として当然だ”という空気に満ちた声だった。
広間の視線が、
一斉にライナルトへ流れる。
アルフレッドがわずかに目を細めた。
ライナルトは予想外の呼びかけに硬直し、
口を開きかけては閉じ、
目を泳がせた。
「え……ああ……その……」
セレナの作り上げた“物語”に合わせようとしているのは明らかだった。
だが、彼の記憶はそう簡単に書き換わらない。
(あの頃……
姉様を守ったなんて、そんなこと……)
広間の空気が止まる。
セレナは優雅に扇子を傾け、微笑みながら言った。
「どうかしら、ライナルト様。
あなたは……あの時、
わたくしをそばで支えてくださったでしょう?」
その声は優しい。
だが、その優しさは“枠”に他ならない。
ライナルトは喉を詰まらせ、
笑顔を作ろうとしたが、頬が引きつる。
「え、ええ……その……
もちろん、私は……セレナ様を……」
言いながら、視線は不自然に宙をさまよい、
文の終わりに確信がない。
会場の数名が、“あれ?”と首をかしげた。
(噛み合っていない……セレナの語りと)
リリアナはその違和感を胸に抱く。
*
そのとき、
ライナルトとリリアナの視線が、
ふと重なった。
緑の瞳。
その瞬間——
ライナルトの顔色が一気に変わった。
(……っ)
あの夜会で投げられた暴言、
あの冷たい眼差し、
あの“価値”を測るような視線。
「お前みたいな地味な女──
俺の足を引っ張るな。」
忘れたくても忘れられない過去の言葉が、
ライナルト自身の脳裏に蘇ったのだ。
喉の奥で何かが詰まり、
呼吸すら浅くなる。
リリアナは目を伏せる。
だがその沈黙は、
ライナルトにとって逃げ場のない鏡となった。
「い、いや……その……
本当に……辛い思いをしたのは……」
彼が言いかけた瞬間——
セレナの微笑みが、
ほんの一瞬だけ、
刃のように鋭く光った。
その視線は“黙れ”と告げていた。
ライナルトの肩がびくりと揺れる。
冷や汗が一筋、こめかみを伝った。
「……そう、でしたね。
私は……セレナ様の味方ですとも」
しぼり出した声。
しかし頼りなく震えていた。
広間の空気は完全に変わった。
「なんだ……今の間は」
「婚約者なのに、言葉が出ない?」
「本当に支えていたなら、迷うはずがないのに……」
囁きが広がり始める。
セレナは微笑みを崩さず、
扇子の影に沈む瞳だけが、
わずかに不快を滲ませていた。
(姉様……今の視線……)
リリアナは息を呑む。
アルフレッドが静かに告げた。
「崩れ始めたな」
「……え?」
「“作り物”は、真実との境界に触れた時、
まず小さく揺らぐものだ。
今がその始まりだ」
アルフレッドの灰の瞳が、
ゆっくりとセレナへ向けられる。
「ここからだ、リリアナ。
真実を取り戻すのは」
その言葉に、
リリアナの胸の奥に静かな灯がともった。
セレナの美しい虚構が、
わずかに軋み始めた夜だった。
最後までお付き合いくださり、誠に光栄にございます。
セレナの物語は完璧に見えて、
ライナルトという“駒”の揺らぎで早くも綻びを見せ始めました。
次の刻では、このざわめきが広間全体へと波紋を広げ、
真実に近づく第一歩となってまいります。




