第093話 ー名が呼ばれる前にー
おかえりなさいませ。
本日は、“名前だけが先に到着する”刻をお届けいたします。
社交会の広間に、再びざわめきが走った。
遠くの扉がひらき、貴族たちが一斉に振り返る。
しかしそこには、セレナの姿はまだなかった。
それでも——空気が変わった。
見えないはずの“影”が、
確かに近づいてくる気配。
「……落ち着かないな」
アルフレッドが低く呟く。
その声音はいつもの冷静さのままなのに、
どこか、鋭さが混じっていた。
リリアナは胸の奥に小さな波が立つのを感じた。
(姉様……本当に、来るのですね)
空気を読むまでもなく、
あの噂の中心にいる者が近づけば——
王都中が揺れる。
*
給仕がワインを勧めに来たが、
アルフレッドは軽く首を振った。
リリアナも同じく断る。
「今は誰が近づいてくるか、
見失いたくありませんので」
そう言うと、給仕は深く礼をして去っていった。
辺境伯夫妻が“警戒している”ことが
周囲に静かに伝わる。
(あの頃とは、違う)
昔の自分なら——
ざわめきが起きるたびに怯え、
姉の背を見失わないよう歩くだけで精一杯だった。
今は違う。
自分の足でここに立っている。
そんな中——
ひそ、と誰かの声が耳に入った。
「……姉君は、まだなのかしら」
「来るわよ。絶対来る。あの方が姿を見せぬはずがない」
「噂では……“痛ましいほどに美しい”と……」
(……痛ましい、ほど?)
リリアナは胸の奥がきゅっと締め付けられた。
あの人は、
決して“痛ましい存在”ではなかった。
いつだって美しく、
誰よりも芯の強い、輝く姉だった。
でも——今王都で流れているのは
“美しく傷ついた姉の物語”。
(全部……姉様が語ったのかしら)
視線が一つ、また一つ、
リリアナへ向けられる。
好奇心。
偽りの同情。
真実に近づきたいだけの冷たい眼。
アルフレッドがそっと手を差し出し、
リリアナの指を軽く包んだ。
「無理をするな」
「……していません。
ただ、少し……」
言葉が喉の奥で揺れる。
あの日々を思い出すような、
胸の深くに刺さる痛み。
アルフレッドはそっと寄り添う。
「何を思い出した?」
「……姉様の姿です。
どんな時も、誰の前でも美しくて……
わたくしだけが、追いつけなかった」
「追いつく必要などない。
お前は、お前のままでいい」
その言葉に、
胸の奥が少しだけ温かくなった。
*
そこへ、
クライヴが控えめに近づいてきた。
「お二人とも……」
声はいつもの穏やかさだが、
眉はわずかに緊張で寄っている。
「ただいま、入口側に動きがありました。
どうやら——“あの方”の名が出ました」
リリアナの心臓が跳ねる。
「……姉様、ですか」
「はい。
姿はまだ確認できません。
ですが、王妃派の若手貴族が、
“お迎え”らしき動きを見せています」
空気が、さらに研ぎ澄まされる。
会場の中央で、
誰かが叫ぶようにひそめた。
「来た……!
“セレナ様が——”」
名前が言い切られる前に、
ざわめきが爆ぜた。
歓声に似た声、
驚きの声、
誰かの弾むような足音。
リリアナは思わず扉の方へ顔を向けた。
まだ姿は見えない。
だが——そこに立つ“気配”だけが鮮烈に伝わる。
(……姉様)
アルフレッドがリリアナの背に手を添える。
「いいか。
お前は一人じゃない」
その一言が、
胸の奥に深く沈み込んだ。
王都第一社交会。
舞台の中央に、
“物語の主役”が近づいてくる。
次の瞬間——
名前が、
はっきりと呼ばれた。
「——セレナ様のご到着です!」
広間の空気が、一斉に揺れた。
最後までお付き合いくださり、誠に光栄にございます。
姿はまだ見せずとも、
噂と空気だけで社交会を支配するセレナ。
次の刻では、いよいよその姿が現れ、
姉妹の物語が真正面から動き始めます。




