第092話 ー見えない姉の影ー
おかえりなさいませ。
本日は、姿を見せぬまま“姉の影”が動き出す刻をお届けいたします。
会場の奥から、弦楽器の柔らかな音色が響き始めた。
談笑の声が重なり、
ざわめきは一層華やかさを増してゆく。
リリアナはアルフレッドとともに中央の階段を降り、
足元の赤絨毯を踏みしめながら、
周囲の視線と空気を静かに読み取っていた。
(……どこか、変な緊張がある)
“誰かを待っている”ような。
“誰かが現れる前兆”のような。
そんな気配が、会場全体に薄く漂っていた。
アルフレッドも同じものを感じ取ったらしい。
「落ち着かない空気だな」
「……はい。
まるで、何かが始まるのを待っているような」
アルフレッドがリリアナの腰に軽く手を添えた。
周囲に悟られぬ程度の、静かな支え。
その時——
ひらり、と青銀の衣を揺らして
一人の女性が近づいてきた。
王妃の近侍である女官長、レイラ。
優雅な微笑に、
その奥で鋭い光を隠すような目。
「辺境伯閣下、奥方殿。
本日はようこそお越しくださいました」
「女官長殿がここにいるということは……
王妃殿下も来られるのか」
アルフレッドの問いに、
レイラは微笑を保ったまま答えた。
「殿下はお疲れがたまっておられますので、
本日はご欠席でございます。
ただ——」
その“ただ”の一音で、
リリアナの胸に冷たいものが落ちる。
レイラは視線をそっと流しながら続けた。
「殿下は社交界の“動き”を非常に気にかけておられます。
とりわけ、“姉妹の物語”については」
空気が、わずかにざわつく。
(……王妃も、姉様の噂を……)
レイラは扇子を口元に添えて、
声を少しだけ落とした。
「最近、王都には“心を痛めた姉君”の噂が広がっております。
殿下はその方のご心痛を案じておられるご様子で……」
アルフレッドが一歩前へ出た。
「その“心痛”がどれほど真実に基づいたものか。
殿下は……その点はご存じないのか」
レイラは微笑みを崩さない。
「王妃殿下は、語られた物語をそのまま受け取られます。
それが事実かどうか——
殿下に確かめる術はございませんので」
その言い回しは、
王妃が“利用している”とも“騙されている”とも取れる。
曖昧で、しかし非常に巧妙な立場だった。
リリアナの胸の奥で、
静かな痛みが広がる。
(姉様……本当に、どんな顔で語っているのかしら)
レイラは深く一礼し、
次の一言だけを置き土産にして去っていった。
「どうか——お気をつけて。
今夜は、“物語が更新される夜”でございますから」
その言葉が余韻となって残る。
*
レイラが離れてすぐ、
別の一団がリリアナたちへ近づいてきた。
若い貴族たち——
いわば“噂に敏い層”。
彼らは礼儀正しく頭を下げたものの、
目の奥には露骨な好奇が燃えている。
「奥方殿……
かねてより、姉君のお話は伺っております」
「とてもお美しい方で、社交界の華だったとか」
「ですが、あなた様も……その……」
“……その、何だというのだろう”
リリアナが答える前に、
アルフレッドが一歩前に出た。
「これ以上、私的な話題を出すな。
ここは場を楽しむ場所であって、
噂を広げる場ではない」
若手貴族たちがはっと息を呑む。
「も、申し訳ございません……!」
彼らはすぐに散っていったが、
広間の視線はなおリリアナたちに向けられ続けた。
(……これが、王都の“噂の力”)
どれほど真実が違っていても、
言葉が一度ひとり歩きを始めれば——
それは雪崩のように広がる。
アルフレッドが静かに囁く。
「大丈夫か」
「……大丈夫です。
わたくしが……覚悟した場所ですから」
アルフレッドの指先が、
そっとリリアナの手に触れる。
弱さを支えるのではなく、
強さを信じる触れ方。
その瞬間、
広間の奥でざわつきが起きた。
ひそひそ。
囁きが波のように広がる。
「——来たのか?」
「いや、まさか……」
「本当に……あの人が……?」
リリアナの胸が小さく跳ねる。
(……姉様?)
姿はまだ見えない。
だが、
確かに“空気が変わった”。
社交会のどこかで、
セレナの“影”が——
形を持ち始めていた。
最後までお付き合いくださり、誠に光栄にございます。
噂、視線、王妃派の女官……
すべてが“セレナ登場”の前触れとして動き始めました。
次の刻では、いよいよその“影”が輪郭を帯び、
リリアナとアルフレッドの前に、はっきりと迫ります。




