第088話 ー揺らぐ噂、確かな手ー
おかえりなさいませ。
本日は“噂”という名の影が、静かに動き始める刻をお届けいたします。
会議が終わると同時に、
王都の午後は薄い金色の光を落とし始めていた。
石畳の上に長い影が伸び、
政庁の廊下にはざわめきがまだ残っている。
リリアナは歩きながら、
胸の奥に残ったざらりとした痛みを確かめた。
(……あれほど“整えられた噂”になっているなんて)
セレナ——姉の名が、
あの場で放たれた瞬間の空気の冷たさは、
まだ皮膚の上に残っていた。
「……大丈夫か」
隣を歩くアルフレッドが、
声を落として囁く。
その声は、政庁の冷えた空気を切り裂くように温かかった。
「はい。驚いただけです」
「驚きで済む話ではない。
あれは“揺さぶり”だ」
リリアナは頷いた。
揺さぶり——それは正しかった。
事実ではなく、
王都が望む“物語”の側へ引きずりこもうとする意図。
「王妃派は、セレナの噂を“政治の口実”に使ってきた」
アルフレッドの声が低い。
「だが、噂が事実になるわけではない」
廊下の角を曲がったところで、
クライヴが待っていた。
緩やかな礼と共に、
すぐに二人を奥の控え室へ案内する。
扉が閉まると、
外のざわめきが途切れ、
静けさが戻った。
「お疲れ様です、奥方殿。
なかなか手厳しい初手でしたね」
クライヴは視線をリリアナへ向ける。
そこに同情の色はない——
ただ、淡々と状況を捉える“官吏の眼”だけ。
「……あのような噂が、
王都では広まっているのですね」
「ええ、相当な速度で、
美しく脚色されておりますとも。
セレナ様は、昔から語り手としての才がありますから」
苦笑ともため息ともつかない表情。
(……やはり、姉様はそうだったのね)
社交界で人気だったのも、
少し話せば惹きつけられるのも、
全部わかる気がした。
クライヴは続ける。
「ただ、奥方殿の言葉——
“選んだ誓い”というあの一言は、
場の空気を確実に変えました」
「……本当に、そう見えましたか?」
「はい。
王都は“自分たちが信じたい物語”に弱い。
ですが、“真実を選んだ者の静かな強さ”にも弱いのです」
その言葉に、
リリアナは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
アルフレッドが椅子に腰を下ろし、
その隣に手を差し出す。
「……ここに座れ。休め」
その自然な仕草に、
リリアナは少しだけ迷ってから、
そっと横に座った。
指先が触れただけで、
張りつめていた心がほどけていく。
クライヴは淡々と資料を広げた。
「問題は、これからの動きです。
王妃派が“姉妹のいざこざ”を政治に持ち出す以上、
次に来るのは——」
「セレナ本人の登場、か」
アルフレッドが言うと、
クライヴは静かに頷いた。
「ええ。
彼女が王都にいる限り、
“物語の主役”として利用されるでしょう」
その言葉に、
リリアナは息を飲んだ。
(……姉様が、あの場に)
心が少しだけ揺れる。
恐怖ではない。
ただ、自分がかつて置いてきた“何か”が
そっと動くような感覚。
アルフレッドはリリアナの肩に手を置いた。
「怯える必要はない。
お前は一人で王都と向き合うわけではない」
その声は深く、静かで、確かだった。
「だが、気を付けろ。
セレナは“自分の物語”を守るためなら、
他の誰よりも強くなる」
リリアナは目を伏せる。
(……あの方は昔から、
誰よりも完璧で、
誰よりも“自分を美しく見せる方法”を知っていた)
そして——
自分が傷つくことには、
いつだって無関心だった。
クライヴが地図を指で叩く。
「明日、王都の社交界から“非公式の招待”が来るでしょう。
そこが第一の衝突になります」
「非公式……社交界……」
リリアナの胸がざわめいた。
そこはセレナの庭——
そして、かつて自分が踏み潰された場所。
だが、
アルフレッドがそっとリリアナの手を包む。
「怖いなら、俺と共に行けばいい」
「……はい」
それだけで、
胸の奥の不安が少し薄れた。
外では王都の鐘の音が響く。
その音は、
過去と現在がゆっくりと交差する合図のようだった。
最後までお付き合いくださり、誠に光栄にございます。
王都で語られる“姉の物語”は、まだ表面を撫でたにすぎませぬ。
次の刻では、過去の社交界——あの舞台が再びリリアナの前に現れ、
いよいよ“姉妹の対面”の序章が動き出します。




