第008話 ー潮の匂いー
おかえりなさいませ。本日は港をご覧いただきました。
潮風と人の声、賑わいの中に潜む脆さもまた、この地の顔にございます。
翌朝、まだ靄が川面を覆う頃、アルフレッドは「港を見せる」とだけ告げ、馬を並べた。リリアナは厚手の外套に身を包み、吐息を白くしながら彼の隣に並ぶ。市場よりさらに大きな声とざわめきが、通りを抜けて耳に届いた。
港は町の南端にあった。石造りの防波堤に打ち寄せる波は低いが、潮の匂いは濃い。川と海の境目に位置するため、船影は大小入り混じり、漁船の隣に交易用の大きな帆船が並んでいた。網を干す音、樽を転がす音、塩と魚の混ざった匂い。王都の整った港湾とはまるで違う、生きた喧噪が広がっていた。
「王都の港とは印象が違います……もっと荒々しい」
「整わぬ場所ほど、工夫が育つ」
アルフレッドは短く答え、防波堤の端へ歩いていく。海鳥が群れをなし、甲高い声で空を裂いた。
彼は立ち止まり、石積みのひび割れを指でなぞった。
「防波堤は十年前のままだ。石は崩れ、継ぎ目から水が染みている。嵐が来れば持たない」
「補修が急務ですね」
「資材は山にある。問題は人手と工期だ」
リリアナは波打つ水面を見つめ、思わず眉を寄せた。人々が命を賭けて出入りする港。その基盤が揺らいでいることを、初めて肌で感じる。
荷揚げ場では、麻袋を抱えた男たちが掛け声を上げていた。米袋、羊毛、塩漬け肉。運ぶ手の速さと力強さに混じって、若い少年たちも汗を流している。
「少年まで……」
「冬は仕事が減る。ここでは稼げる場所に年齢は問わない」
アルフレッドの言葉は淡々としている。けれどその瞳は、働く者をただの数としてではなく、命として見ているようだった。
リリアナの耳に、甲板から笑い声が届く。大きな帆船の上で、異国風の衣装をまとった商人が酒を振る舞っていた。言葉は聞き取れないが、交わされる金貨の音だけは鮮明だった。
「南のサハルンから来た船だ。酒と香辛料で王都へ抜ける。だが嵐が来れば、この港が最初に沈む」
「……だから防波堤を」
「そうだ」
彼は視線をリリアナに戻す。
「お前の目にはどう映る」
「……強さと脆さが並んで見えます。人々の手と声は力強いのに、足場が不安定で……だから、怖い」
自分でも驚くほど素直な言葉が口を突いた。アルフレッドはわずかに目を細めた。
「正しく見えている。ならば改善の余地はある」
昼近く、波止場の端で、漁師の老婆が声をかけてきた。
「おや、辺境伯様にお連れの御嬢さんとは珍しい。……この町をどう思われます?」
リリアナは一瞬迷ったが、港の匂いと音に背を押されるように答えた。
「まだ知らないことばかりですが……人の声が、王都よりも生きている気がします」
老婆はにやりと笑い、魚籠から小さな干物を渡した。
「じゃあ、この町の味をどうぞ。塩辛いけど、元気は出ますよ」
帰り道、アルフレッドは馬上で静かに言った。
「数字や図面では分からぬものを、見ただろう」
「ええ。だからこそ……直さなければと思いました」
「なら、次は鉱山を見せる。港も道も鉱も、すべて繋がっている」
潮風が二人の外套を膨らませる。リリアナは胸の奥で、波の匂いが確かに自分の一部になり始めていることを感じていた。
最後までお付き合いくださり、誠に光栄にございます。次の刻は鉱山へご案内いたします。
どうぞ足元に気をつけてお越しくださいませ。