第070話 ー潮騒の誓路ー
おかえりなさいませ。
本日は、潮風に運ばれる“誓い”の行方をお届けいたします。
護りと交易、その境を見極める朝の港を、どうぞご覧くださいませ。
朝の霧が川を渡り、港の屋根を包んでいた。
グレイバーンの港町フローベル。
潮の匂いと金属の音が混ざり合い、今日も船が静かに出入りする。
クライヴ・エルナンは埠頭の端に立ち、記録帳を抱えていた。
「積み荷の検査、三番倉より開始いたします」
報告に来た港吏の声は落ち着いている。
昨夜までに書き残した帳の頁が、今、現場の呼吸と重なっていた。
──数字が息をする。
倉庫の中は涼しかった。
木箱には印が押され、品名がひと目で分かるように記されている。
「この印、いつから導入を?」
「一月ほど前です。読み書きが出来る者が増えまして」
港吏が誇らしげに答える。
「学び舎の卒業者たちです。手も早く、文字もきれいで」
クライヴは静かに頷いた。
《教育と労働、循環の兆しあり。識字は倉に秩序をもたらす。》
筆先が紙を滑る音が、潮騒に溶けていく。
「査察官殿」
声の方を向けば、アルフレッドがいた。
黒の外套の裾を潮風がはためかせ、瞳は淡い灰。
「この倉の奥に、かつての戦備品庫がある。
防衛と交易の境をどうするか、それが次の議題だ」
クライヴは少し間を置いて、問い返した。
「“境を決める”とは、どちらのために?」
「民のためだ。恐れを減らし、護りを増やす。
だが、武を完全に閉じれば、外の声を失う。
誓いは穏やかであっても、眠りではない」
ふたりの視線が交わる。
沈黙のうちに、海鳴りが低く響いた。
「……その言葉、記しても?」
「好きに記せ。ただ、王都には届かぬかもしれん」
「記録とは、届かぬ声を残すためのものです」
クライヴの筆が動き出す。
《誓いは眠りにあらず。護りは呼吸。境は動く潮に似る。》
そのとき、港の奥から声が上がった。
「閣下、南船より便りです!」
伝令が封筒を差し出す。
アルフレッドが封を割り、目を細めた。
「王都よりの印。……内容は、査察官殿宛だ」
クライヴが受け取り、文を開く。
──“恐れの法”再審議の議案、貴領の報告を基として提出。
査察官は引き続き滞在、実情を記録せよ。
潮風が一層強くなり、紙端が翻った。
「どうやら、私の仕事はまだ終わりません」
「そうであろう」
アルフレッドは笑みをわずかに浮かべ、遠くの水平線を見た。
「終わりなき潮に抗うより、共に漕ぐ方が早い」
「では、筆を櫂に」
「言葉を風に」
ふたりの短い応酬のあと、波が岸に打ち寄せた。
船の帆が広がり、陽光を受けて眩しく白む。
リリアナが埠頭の階段を降りてくる。
「閣下、昼の帳簿を整えました。
査察官殿にもご確認を」
「ありがたく拝見いたします」
潮の香が三人の間をすり抜け、青い海面を撫でていく。
《本日の所見。誓いの言葉は、港とともに動く。
境は流れを拒まず。記録、継続。》
クライヴは最後の一行を記し、筆を置いた。
潮騒が響く。
それは、誓いの拍のようにゆるやかに続いていた。
最後までお付き合いくださり、誠に光栄にございます。誓いの道は、海の潮とともにゆるやかに形を変えてまいります。
恐れではなく護りを礎に、言葉が力となるその日まで。
次の刻では、風が王都へ届き、再び議場の灯を揺らしてまいります。




