第069話 ー帳に宿る声ー
おかえりなさいませ。
本日は、学び舎と治療院――数字が静かに物語へ変わる場所を巡ります。
旗の一字と同じように、薄くても消えにくい線を、どうぞご覧くださいませ。
夜の冷えが引き、城の石が朝の陽で柔らかく温んだ。
クライヴ・エルナンは身支度を整え、執務補佐に導かれて中庭を渡る。門塔の旗は灰青、白糸の“誓”は変わらない。だが、朝の風に揺れるその一字は、夜よりもはっきりと形を保っていた。
最初の訪問先は学び舎だった。
長机に板と筆、壁に読み札。子どもたちの声が、数えるように重なる。
「“護る”。──口の形はやさしく」
教師の合図に合わせ、板へ太く同じ字が増えていく。出席簿は日付ごとに整えられ、端には小さな印が並んでいた。
「この印は?」
「前より読みが滑らかになった子に押しています」
「先月は四十七。今月は五十四」
教師は照れたように笑い、子らは肩を並べて板を掲げた。拙い線、けれど折れない線。
クライヴは羽根ペンを取り、短く記す。
《識字、緩やかに向上。印は励ましの符として運用。相互の比較に偏らず。》
次に向かったのは治療院だ。
扉の横に「夜間の武練を禁ず」と札が掲げられ、奥の棚には帳面が整然と並ぶ。
「負傷の記録を見せていただけますか」
「どうぞ。作業と鍛練を分けた月から、手の裂傷が減りました」
頁を繰る。日付と部位、処置と回復までの日数。数字の列は静かで、嘘をつかない。
《夜間鍛練の禁止後、軽傷は減少。重傷は散発。報告の誇張は見られず。》
記す手を止め、窓外を見る。朝陽が路地まで届き、行き交う荷車の速度が一定だ。
「恐れの鎖は目に見えず、手の動きに出る。──ここでは、手がよく動く」
昼、執務館。
辺境伯アルフレッドは書類を一束にまとめ、紐で軽く括った。
「街道補修の進捗、治療院の統計、学び舎の出席。──必要なものはすべて閲覧を許す」
「感謝いたします」
リリアナは隣で控え、落ち着いた声で添える。
「不備があれば、どうか書に残してくださいませ。」
クライヴは頷いた。
「記したものは、いずれ鏡になる。──歪めれば、歪んだ顔が映るだけです」
午後、城下の小さな橋で足を止める。
新しい石の目地は白く、欄干に手を置けば冷たさは和らいでいた。川面を渡る風が、灰青の布の方角へ抜ける。
《橋は人を渡す。誓いは人の間を渡す。》
羽根先で、その一文をそっと囲み、さらに付け足す。
《理念は掲げられ、制度は綴じられ、暮らしは歩く速度を得る。》
夕刻、再び執務館。
「観察官殿。何が見えた」
「数字と人が、同じ頁に載り始めています。──まだ薄いが、消えにくい墨で」
アルフレッドは短く笑い、紐束の上を軽く叩いた。
「ならば、その墨を濃くするのは、我らの仕事だ」
リリアナが静かに言う。
「そして、その墨が薄まった時に気づくのが、観察の仕事ですね」
クライヴは帳を閉じ、礼をとる。
「本日の記述はこれまで。明日、港と倉庫を拝見したく」
「許可する」
日が沈む。
旗が夕風を受け、白糸の一字が赤く縁どられた。城下では灯がともり、橋の上を子らが駆けた。
《観察を続ける。判断は保留。》
最後の行を置き、インクを乾かす。
その時、遠くの街道を一騎が駆けていくのが見えた。
灰の塵を上げ、王都の印を小さく光らせながら。
誰へとも知らぬ伝令。
風はただ、旗の方角へ抜けていった。
最後までお付き合いくださり、誠に光栄にございます。帳に宿る声は、やがて暮らしの速度を整えてまいります。
恐れではなく護りで歩くための印を、ひとつずつ頁に重ねて。
次の刻では、港と倉庫の流れを確かめ、誓いが運ぶ道を描いてまいります。




