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姉に婚約者を奪われた令嬢、辺境伯の最愛の妻になって王都を見返す  作者: 影道AIKA


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第068話 ー灰青の旗を見上げてー

おかえりなさいませ。本日は、王都より派遣された監察官クライヴ・エルナンが、はじめて“誓い”の旗の下に立ち、閣下と対座いたします。どうぞ肩の力をお抜きになり、ゆるやかな歩みでお読みくださいませ。

春を運ぶ風はまだ冷たく、街道に残る霜を細く砕いていた。

 王都を出立して三日。監察局第三級査察官、クライヴ・エルナンは鞍上から前方を見据えた。霞む丘の向こうに、石の塔が立ち、灰青の旗が静かに揺れている。白糸で縫い取られた一字――“誓”。

 命令書には簡潔に記されている。〈辺境グレイバーン領における“辺境の誓い”の公布につき、王国法との齟齬の有無を検し、記すこと〉。王は静観を命じ、権限は限定的。だからこそ、記録は正確でなければならない。


 日が傾き始める刻、クライヴはグレイバーン城の門塔に至った。槍を携えた衛兵が一礼し、淡々と通達を示す。

 「監察局、クライヴ・エルナン査察官殿に相違ございませんな」

 「通達は届いていると伺う」

 「はっ。辺境伯閣下がお待ちです。ご案内いたします」

 余計な言葉はない。動作は整い、視線は澄んでいる。恐れの硬さでも、媚びの柔らかさでもない。クライヴは小さく頷き、鞍を降りて門をくぐった。


 石敷きの中庭には、鍛錬を終えた兵が槍を収め、数名の文官が帳簿を抱えて廊を行き交う。通路の端では、子らが木板に大きな字を書き写していた。拙い筆致の“護”の字。教師役の女が、口の形を整えるようにと穏やかに指示を出す。

 「……理念を飾りでは終わらせぬ構え、か」

 独り言は小さく、すぐに靴音に消えた。案内の文官は振り返らず、歩調だけを崩さない。城の奥、重い扉の前で彼は立ち止まり、深く頭を垂れた。

 「監察局、クライヴ・エルナン査察官をお連れいたしました」


 扉が開く。白と灰の光が床へ落ち、冷たい香の気配が満ちる。

 玉座ではなく、執務机の前に一人の男が立っていた。礼服に外套を重ね、灰の瞳は静かである。辺境伯、アルフレッド・グレイバーン。背後には控えの位置に従い、リリアナが立つ。衣は簡素に整えられ、過剰な飾りはない。瞳は澄み、わずかに微笑を含むのみ。

 「監察局、クライヴ・エルナンにございます」

 「遠路、ご苦労であった。グレイバーン領主、アルフレッド・グレイバーンだ。……まずは歓迎を」

 礼は短く、無駄がない。形式が整えば、言葉は少なくてよい――そういう場の空気であった。


 机上には封蝋の押された写しが一通。クライヴが手を伸ばすと、封蝋の印は旗と同じ“誓”の一字を刻んでいた。開けば冒頭にこうある。〈恐れを以て縛らず、護るを以て道とす〉。

 「王都では“恐れ”を秩序の要と見なします。……恐れを捨てれば、統制は緩む。そう考える者が多い」

 「恐れは、刃を収めさせる。だが、心は削る」

 アルフレッドの声音は低く、よく通った。

「ここは縁の地だ。援けの手が届くまでに季節が巡る。だからこそ、人は並び立って事に当たらねばならぬ。恐れの鎖は、いずれ錆びる。護りの誓いは、手をつなぐ」

 「法は?」

 「法は捨てぬ。王国の法に背くつもりはない。恐れを礎に置く条の運用を、護るを旨とする誓約にて補い、歪みを正す――それが、この誓いだ」


 クライヴは羽根ペンを取り、携行の小冊へ書き入れた。

 《グレイバーン領。“誓い”の公布、文面は簡潔。恐れの代替として護りを主とする。領内秩序は静で、兵の動作整う。》

 筆先は止まらない。彼は視線を上げ、正面の男と再び目を合わせた。

 「王都には、閣下を“灰の血の反逆者”と呼ぶ声もございます」

 「灰は燃え尽きた後に残る。消えぬ熱だ。……反逆の意はない。だが、折れるつもりもない」

 「承りました。私は観察者です。事実のみを記し、裁かずに持ち帰る。判断は――」

 「いずれ下る。王都でな」

 わずかな沈黙。互いに頷く。それで充分であった。


 控えていたリリアナが一歩、前へ進む。袂を乱さず、声は穏やかに、しかし遠くまで届く。

 「監察官様。ここに恐れは少のうございます。けれど、陛下への敬意は忘れておりません。学びの場も、税の務めも、礼の次第も。どうか、そのこともお見落としなく」

 「重ねて承ります。……閣下、滞在の間、いくつかの施設を拝見したく」

 「よい。監察の客だ。必要な限りをご覧に入れよう。案内は執務補佐に任せる。今宵は城に逗留せよ」

 言葉はそれだけ。だが拒絶はなく、迎合もない。まさしく“客”の距離である。


 儀礼の茶が供される間、クライヴは窓外へ視線を遣った。夕刻の風が旗を引く。灰青の布は柔らかく、白い一字は崩れない。遠く、城下の通りに灯が点り始め、鍛冶の火は早々に落とされる。夜を戦の準備に使わぬのだろう。

 彼は筆を取り直し、短く付した。

 《領民、夜半の私事に過度の緊張なし。子らの学び、“護”字の普及見ゆ。兵は言葉少なく、礼節正し。》

 さらに一行。

 《観察を続ける。判断は保留とする。》


 その夜、与えられた客間の机に命令書と写しと筆を整え、クライヴは窓を少し開けた。夜気が香を撫で、旗の布擦れが微かに鳴る。

 ――恐れの法は、人を縛るための短い道だ。誓いは、人を並べるための長い道か。

 思念は紙には書かれない。観察者は己の胸にだけ問いを置く。彼は燭を摘み、炎を細くさせた。


 遠い王都では、臨時政庁の廊下に靴音が落ちていた。誰かが古い印章箱を開き、失われたはずの紋が、薄金の光で蘇る。石壁に沿って冷たい風が動き、灯は小さく揺れた。

 クライヴはそれを知らない。だが旗は揺れ、拍は刻まれている。

 ――トン、トン……トン。

 均された石の上を、夜が静かに渡っていった。

最後までお付き合いくださり、誠に光栄にございます。恐れではなく護りを旨とする地と、恐れを秩序と見なす都。次の刻では、その狭間に立つ者たちの思惑が、静かに形を取り始めます。どうぞ次回もお楽しみくださいませ。

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