第062話 ー奪われた婚約ー
おかえりなさいませ。
本日は、辺境に至る少し前――王都で起こった“奪われた婚約”の刻をお届けいたします。
光の中で失われた約束が、やがて彼女を導く運命へと変わってまいります。
――辺境の地に来る少し前のこと。
王都の夜は、いつも光に満ちていた。
音楽と笑い声が流れ、煌びやかな灯が人々の顔を照らす。
その大広間の片隅で、リリアナは薄青のドレスをまとい、
凛とした姿で立っていた。
彼女の婚約者――ハロルド・レイン卿は、
隣で優雅にグラスを傾けていた。
母の勧めで結ばれた政略の婚約。
互いに情熱はなかったが、リリアナは誠実な彼を信じ、
家を支える覚悟をしていた。
(これが、わたしの務め――)
そこへ、紅のドレスがゆるやかに現れた。
姉・セレナ。
その微笑みは華やかで、同時に人を試すような鋭さを帯びている。
「まぁ、妹がこんな場に出るなんて珍しいわね」
「母上が、ご挨拶をと……」
「そう。けれど、無理をなさらないで。
あなたはあまり丈夫ではないでしょう?」
周囲の貴婦人たちが視線を交わし、
噂が水面のように広がった。
――病弱な妹。婚約にふさわしくない娘。
リリアナは微笑を崩さなかった。
けれど、指先がわずかに震えた。
彼女は気づいていた。
この噂がどこから流れたのかを。
数日前、ハロルドの父が屋敷を訪れた。
「体調を心配する声がありましてな……
家の安定のため、今回は長女セレナ殿との縁に切り替えたい」
リリアナは何も言えなかった。
それが“家のため”であると分かっていたから。
今宵の舞踏会は、その発表の場だった。
シャンデリアの光が反射し、人々の笑顔が広がる。
司会の声が高らかに響く。
「ここで、新たな婚約をお知らせいたします――
レイン家とエヴェレット家、
ハロルド・レイン卿とセレナ・エヴェレット嬢」
拍手が起こった。
リリアナの心臓が一度だけ大きく脈打つ。
視界が揺れ、息が詰まる。
セレナがこちらを見て、勝ち誇ったように微笑んだ。
「妹には荷が重かったのよ。
でも大丈夫、家の名は私が守るわ」
その瞬間、何かが静かに切れた気がした。
リリアナは微笑んだ。
それは、痛みを封じるための仮面のような笑みだった。
「おめでとうございます、姉上。……どうかお幸せに」
周囲が息を呑んだ。
誰も、そんな言葉を返されるとは思っていなかった。
だが彼女は背を伸ばし、ゆっくりと踊りの輪を離れた。
夜風が流れる庭園。
灯が遠のき、香の匂いが薄れる。
月の光の下、彼女は一人佇んだ。
「……務めを果たしただけ。それだけのこと」
その瞳には涙はなかった。
けれど心の奥で、小さな音を立てて何かが崩れていた。
沈黙こそが、唯一彼女の誇りを守る手段だった。
最後までお付き合いくださり、誠に光栄にございます。
沈黙を選んだ夜が、リリアナという人の強さを形づくる始まりとなりました。
次の刻では、彼女が見出す小さな救い“沈黙の花”へと歩み出してまいります。
どうぞ次回もお楽しみくださいませ。




