第006話 ー辺境の迎え火ー
おかえりなさいませ。
本日は“迎え火”にて皆さまをお迎えいたしました。
あたたかな杯をもう一口、
どうぞお召し上がりくださいませ。
城館の大扉が開くと、暖炉の炎が低く唸り、樹脂の甘い香りが空気をつつんだ。王都の香油ではなく、山から切り出した薪の匂い。灰色の石床は丁寧に磨かれ、灯の揺らぎを柔らかく返す。
正面に一歩進み出た老紳士が、胸に右手を当てた。
「マティアス・ケインと申します。辺境伯閣下の執事にてございます。リリアナ様、ようこそグレイバーンへ」
白髪はきっちりと撫で付けられ、背筋は弓の弦のように真っ直ぐだ。礼の角度は寸分の狂いもない。
「長旅でお疲れのところ恐れ入りますが、まずは“迎え火”の式へご案内いたします」
“迎え火”。王都の社交で聞いたことのない言葉に、リリアナは小さく瞬いた。アルフレッドが視線だけで促す。灰色の瞳は、この場所でこそ本来の色を取り戻しているように見えた。
広間の中央には腕ほどの薪が三本、三角に組まれていた。その周りに白い小石が円をなし、四方には小さな銀杯。天井の梁からは乾かした薬草の束が吊られている。青く澄んだ香りが、火の前触れのように広がった。
「外から来られた方を、家として迎えるための古い習いでございます」
マティアスが説明している間に、親衛隊長のレオニードが近づき、火打ち石を差し出した。鍛えられた腕が光を掬い、火花が松脂に落ちる。ぱち、と乾いた音。細い火は樹皮の内側を舐め、芯を見つけると、ゆっくりと形を持ちはじめた。
「四つの杯は東西南北。旅の方角に感謝し、迷いがあれば火でほどく――こちらの言い伝えにございます」
マティアスは南の杯を手に取り、アルフレッドに渡す。薄い蜂蜜酒の香りが立った。
「王都から来た者の杯だ」彼はリリアナに向き直る。「口を湿らせるだけでいい」
リリアナは両手で杯を受け、唇をそっと触れさせた。甘さが舌に乗り、喉の奥で小さな灯がともる。涙腺に近いところに、じんと来る味だと思った。
「リリアナ様」
マティアスが杖を軽く床に打つ。音が石に染み、屋敷の骨格へと伝わっていく。
「この家は“客人”より“家人”を重んじます。互いを名で呼び、困りごとを分け合い、火を囲んで食事を取る。ここでの礼は、それにございます」
王都の礼とは違う、別の礼。リリアナは胸の奥で火の音を一つ、そっと受け止めた。
「……こちらの礼を、学びたいです」
言葉にするだけで、体から余分な力が抜けていく。
迎え火の式が終わると、城内の案内が始まった。広間の奥は食堂、その隣が台所。石の竈で鉄鍋が低く鳴り、湯気に薬草の香りが溶けている。調理台の端に、薄紫の葉をもつ束が置かれていた。
「ルミナリーフ……?」
リリアナが思わず手を伸ばすと、台所の女主人が目を丸くする。
「ご存知で? 今夜はスープに少しだけ。冬の疲れが抜けますよ」
「乾燥が丁寧ですね。茎の切り口に傷みがありません。……この香りなら、塩は多くない方が」
「なるほど、試してみますね。」
女主人は笑い、束から数葉をちぎって鍋へ。王都では味の話で笑われた。ここでは、笑みが火のそばにある。
次いで書庫へ。壁一面の棚に帳簿、地図、古い法令集が並ぶ。アルフレッドが背表紙を指先で撫でた。
「領収支の原簿はここ。鉱山の搬出は週ごと、港の荷は風待ち単位。……鍵は二つ、お前にも持たせる」
「わたくしに?」
「家人と言っただろう。家の数字を知るのは、恥ではない」
数字は冷たいと教わってきた。だが、ここに積み上がる数字は暮らしの温度を持っている。胸の火が少し大きくなった。
中庭に出ると、雪解けの水が細い水路を走り、小さな水車が回っていた。軸の先に革袋が吊られ、回転とともに上下している。
「何の仕掛けです?」
「革なめしの叩き袋だ。人手を減らし、作業を均一にする。川に頼らず、敷地で回す。水量が読めれば、計画も立つ」
「王都の工房にも似た発想はありますが……ここは、風と水の音が近いのですね」
「遠い音は遅れて届く。辺境は、音が早い」
アルフレッドの言葉に、リリアナは自分の鼓動を数えた。確かに、ここでは音がすぐに胸に触れる。
日暮れどき、旅塵を払ってから広間へ戻ると、扉の向こうから明るい声。
「リリ……じゃない、リリアナ様! はじめまして!」
革外套を翻す茶髪の若い女性が笑いながら駆け寄った。
「ミリアだよ。アルの幼馴染で、この領の商いの雑用係、かな」
「はじめまして。薬草の乾燥や貯蔵について、お話を伺えますか」
「もちろん! でも“様”はやめよ。うちは家人でいこう」
差し出された掌は、山の木の温度がした。
夕餉は迎え火の残りを囲んで。焼きたてのパン、芋のポタージュ、川魚の香草焼き。ルミナリーフはほんの少し。湯気の中で草の青さが丸くなる。
「……おいしい」
自然と声が漏れた。アルフレッドは何も言わないが、目を細めて一度だけ頷いた。
食後、マティアスに導かれて執務室へ。大きな机の上に王都から辺境へ至る街道地図。赤は危険個所、青は補修済み、緑は――未来の印。
「橋梁の補修が先だ。次に港の防波堤。鉱山は安全規程の改訂。……リリアナ、お前には薬草の供給網と、学校の準備を任せたい」
「学校……読み書き算術だけではなく?」
「薬草、縫製、簡単な計数。冬に仕事が減る家に、季節で稼げる技能を」
淡々とした声。その下に、緑の印の小さな灯が確かに見えた。
「わたしに務まるでしょうか」
「務まるかどうかじゃない。やるなら、務まるように変える」
灰色の瞳が火をひと粒だけ掬う。言葉は短いのに、足場は固い。
部屋を出ると、廊下の窓から中庭の迎え火が見えた。炎は炭へと沈み、赤い脈動が心臓の拍動みたいに時折明滅する。エマがそっと肩にショールを掛けた。
「お嬢様、寒うございません?」
「……あたたかいわ」
胸に手を当てる。王都の光とは違う温度が、確かにそこにある。
寝所に戻る前、机で紙片を取り出す。王都から持ってきた白い花弁の押し花に、蜂蜜酒を一滴垂らして封じる。明日の朝、学びたいことを書き出そう――乾燥棚の設え、子どもたちの教室、針と糸の分配。袖口の金糸は、少しずつここに馴染む色へ変えていけばいい。
灯を落としかけたとき、扉が軽く叩かれた。
「……入れ」
アルフレッドの低い声が廊下に落ちる。扉の外から、短く。
「明朝、視察に出る。お前も来い。見せたいものがある」
足音が遠ざかる。胸の内側で、迎え火の炭が一つ明るくなる。
真暗な天蓋の下で目を閉じる。火の音はもうほとんどしない。けれど、耳の奥ではまだ小さく、確かに燃えている。
今宵も最後までお付き合いくださり、
誠に光栄にございます。
次の刻は領地の町へご案内いたします。
どうぞ歩きやすいお履き物でお越しくださいませ。