第059話 ー恐れの法ー
おかえりなさいませ。
本日は、辺境に蘇る“古き恐れの言葉”の刻をお届けいたします。
時を超えて残る声が、再び人の心を揺らし始めます。
春の陽が山を照らし、辺境の村々はゆっくりと息を吹き返していた。
修復された橋には人の往来が戻り、子どもたちの笑い声が風に混じる。
畑では新芽が顔を出し、羊飼いの歌が丘を渡っていた。
リリアナは広場に立ち、領民たちの作業を見守っていた。
「ようやく春らしくなってきましたね」
マティアスが頷く。
「ええ。皆、恐れの時代を忘れようとしております」
「忘れることではなく、越えることが大事ですわ」
リリアナは微笑んだ。
けれど、その言葉を口にした瞬間、胸の奥に小さな棘が刺さった。
広場の隅で、年老いた女が子どもたちを叱っている。
「走るでない! “恐れを知らぬ者は災いを招く”!」
その声に、子どもが怯えて泣き出した。
リリアナはそっと歩み寄り、膝をついた。
「おばあさま、どうか穏やかに。
恐れは人を守るためではなく、縛るためにあるものではありません」
女は目を伏せ、低く呟いた。
「……昔、黒衣の旅人がこの地を訪れたのです。
まだ私が若いころ、“恐れを忘れた国は滅ぶ”と語っていた。
あの言葉だけが、なぜか胸に残ってしまって……」
リリアナは優しく頷いた。
「その旅人の言葉が、今も人々の中に息づいているのですね」
女はうつむき、手を震わせながら祈るように言った。
「恐れを失うことが、こんなに怖いとは思いませんでした」
その夕刻。
領主館に戻ったリリアナは、書斎でアルフレッドに報告をした。
「昔の言葉が、再び囁かれ始めているようです。
“恐れを知らぬ者は災いを招く”――まるで宰相の教えの種が残っていたように」
アルフレッドは椅子から立ち上がり、地図の上に手を置いた。
「……恐れの法。
あれはラザールが作り出したと思っていたが、元はこの地にあったのかもしれん」
「根は古く、言葉が形を変えて受け継がれてきた……そんな気がします」
「放っておけば、この地の再建はまた恐れに呑まれる」
リリアナは静かに頷いた。
「恐れを否定するのではなく、恐れを抱いたまま歩む……
わたしたちはそれを選びました。
だからこそ、教えに従う者を責めるのではなく、光で包まねば」
「優しさだけでは、闇は消えぬ。だが――」
アルフレッドは窓の外を見やった。
陽が沈み、空が紫に染まっている。
「慈しみの剣で戦う。それが俺たちの流儀だ」
その夜、リリアナは机の上に置かれた羊皮紙を見つめていた。
古い伝言のような文字が、別の村から届いたのだ。
『恐れを忘れるな。
それは人の理を守るものなり。』
筆跡は震えており、署名はなかった。
リリアナは紙を閉じ、深く息をついた。
「……宰相の教えは、まだ人の中で生きているのですね」
外では夜風が吹き、街の灯が揺れていた。
その光が窓の中に映り込み、まるで幾つもの影が踊るようだった。
アルフレッドが背後から言葉をかける。
「恐れは伝染する。だが、希望も同じだ」
リリアナは頷き、彼の手に自分の手を重ねた。
「ならば、わたしたちは希望を広めましょう」
風が再び吹き抜け、窓辺の燭火が一度だけ揺らいだ。
その炎は消えず、静かに二人の影を照らし続けていた。
最後までお付き合いくださり、誠に光栄にございます。
かつて語られた“恐れの法”の言葉が、再び人々の口にのぼりました。
次の刻では、その古き言葉の源を追い、真の“恐れ”と向き合う物語を描いてまいります。
どうぞ次回もお楽しみくださいませ。




