第054話 ー影、なお残りてー
おかえりなさいませ。
本日は、王が自らの“恐れ”を葬る朝の刻をお届けいたします。
静寂の中で燃えた一枚の紙が、時代の転換を告げます。どうぞご覧くださいませ。
王の裁定が下された翌朝、王都には静かな光が差していた。
夜を覆っていた雲がようやく晴れ、尖塔の先に陽が触れる。
だが、その光はどこか淡く、まだ冷たかった。
リリアナは王妃の間の片隅で、淡い花を手向けていた。
白百合の花弁が、掌の上でわずかに揺れる。
「……イリス様。陛下はようやく“恐れ”を超えてくださいました」
呟く声は小さく、それでも確かに届くような響きを持っていた。
扉の外で、アルフレッドの足音。
「……そろそろ出立の刻だ。馬車の準備が整った」
リリアナは花を静かに置き、振り返る。
「はい。……でも、まだ王都が落ち着くまでは、心残りがあります」
「陛下も同じ思いだろう」
アルフレッドの声は穏やかだが、その奥には警戒の色があった。
玉座の間では、王がひとり書を読んでいた。
昨夜、宰相ラザールが拘束されて以降、
王国の政務は参議たちに一時任されている。
机の上には、一冊の焦げた写本が置かれていた。
――宰相が偽りで差し出した“恐れの記録”。
王はそれを長く見つめ、指先で紙の端を撫でた。
「……恐れを以て鎮めよ、か。
我はこの言葉に、どれほど縋ってきたのだろうな」
静かに立ち上がり、机の脇にある灯火を手に取る。
炎がゆらめき、影が揺れる。
王は何も言わずに灯火を傾けた。
紙が焦げ、文字が煙となって消えていく。
「恐れの言葉は、いつも燃え残る……」
焦げ跡が灰となり、机の上を白く染めた。
王は目を閉じ、深く息を吐く。
「だが、もうこの灰は風に流そう」
その時、扉の外から近侍が駆け込んできた。
「陛下、宰相府の牢が……!」
「どうした」
「夜明け前に、見張りの兵が二人倒れ、宰相が姿を消しました」
王の目が見開かれる。
「逃げた……だと」
*
王都の外れ。
霧の立ち込める地下回廊を、数人の影が駆けていた。
その先頭に立つのは、灰色の外套をまとった男。
その目は燃えるように冷たい。
「“灰の血”を導きと呼ぶ――か。
ならば導かれる前に、断たねばなるまい」
ラザールは立ち止まり、指に嵌めた黒い印章指輪を見下ろした。
その印章には、かつて王国が“恐れの教義”として刻んだ古き文が彫られている。
王が慈しみを選んだその瞬間、彼は恐れを背負う者となった。
「王は慈しみを選んだ。……ならば私は、恐れを継ごう」
風が吹き抜ける。
その笑い声は、遠く王都の塔へと消えていった。
*
出立の刻。
リリアナは王城の階段で足を止めた。
「閣下……あの人は、まだ終わらせない気がします」
アルフレッドは頷く。
「わかっている。
恐れを断つ戦いは、まだ終わっていない」
風に舞う灰の粉が、陽光を受けてきらめいた。
それは、光と影の境を示すように二人の背を照らしていた。
最後までお付き合いくださり、誠に光栄にございます。
王が恐れを焼き払ったその影で、宰相ラザールの逃亡が始まりました。
次の刻では、辺境への帰還と新たな再起の始まりをお届けいたします。
引き続きご覧くださいませ。




