第050話 ー北塔、息の間の伝言ー
おかえりなさいませ。本日は“息の間”に繋がる小さな伝言と、糸のように細い脱出路をご覧いただきます。
沈黙を越えて届く祈りを、どうぞ胸にお納めくださいませ。
王城の大広間で、リリアナは宰相ラザールと対峙していた。
その一刻前――屋敷では、ひとりの侍女が主の最後の言葉を胸に動いていた。
「ミーナ、留守をお願い。――もし閣下にこの声が届くなら、沈黙は終わったと伝えて」
リリアナがそう言って兵に連れられていったのは、朝の刻だった。
残されたミーナは、唇を噛む。
(どうすれば……本当に閣下に届くの?)
そこへ、屋敷の裏口から低い声が響く。
現れたのは、かつてリリアナを辺境に送り届けた老従者サイラスだった。
「サイラス様……奥さまが……!」
「聞いていた。だが言葉をそのまま運ぶのは危険だ。王城の耳はどこにでもある」
「では、どうすれば……?」
「焦るな。伝える道はある。“縫い言葉”という手だ。王妃陛下が、声を封じられた侍女たちのために作られた合図だ」
「侍女ならみな知っています。……針と糸があれば」
「一文でいい。“沈黙は終わる”。それを南門の渡し人に届けろ。南門の警備は緩い。そこには、王妃に仕えた者が今も立つ。彼女たちなら意味を解く。渡す時に合言葉の『灯火に糸を』と言え」
「……それで届くのですね?」
「届く。あの方々は、いまも王妃陛下の“祈り”の網の中にいる」
ミーナは急いで震える手で針を持ち、白い手巾に五つの返し目を刻む。
“チ・ン・モ・ク・オ・ワ・ル”――それだけの言葉。
祈りの文様のように見えるが、見る者には伝わる暗号だ。
やがて南門。
荷車が行き交う中、灰髪の女が一歩進み出る。
宰相の監視が強まってから、王妃派の伝令は**この門だけ**を使っていた。
ミーナは包みを差し出し、サイラスに教えられた言葉を口にする。
「……“灯火に糸を”」
灰髪の女は短く頷き、包みを受け取った。
指で縫い目をなぞり、囁く。
「“沈黙は終わる”……承りました」
彼女は“点検の刻”をよく知っていた。
北塔では十六刻に見回りが交差する。
王妃陛下の遺した符号を受け継ぐ者として、彼女は決断した。
(今、この瞬間に動かねば、二度と扉は開かない)
*
北塔・謹慎室。
石壁に囲まれた部屋で、アルフレッドは静かに目を開けた。
(十六刻――点検の“息の間”。)
かつて自らが設計に関わった警備体制のわずかな隙を、
誰よりも熟知している。
戸口で軽い咳払い。
「失礼いたします。点検前の差し替えを」
若い給仕が盆を置き、下がる。
茶の下に、折り畳まれた白い手巾。
縁の返し目が不揃い――祈り文ではない。
指でなぞる。
“チ・ン・モ・ク・オ・ワ・ル”。
灰の瞳がわずかに揺れる。
(リリアナ……これは、お前の言葉だな)
十六刻の鐘が遠くで小さく鳴る――
アルフレッドは椅子を静かに引き、机の茶を床へ流した。
濡れた石の反射に映る閂の影が浅い。
――外から押し上げられている。
誰かが通した筋。
手袋の内側に隠していた薄い板金を取り出し、閂の隙間へ差し込む。
巡回兵の足音が遠のく。
廊下の角で、わざと槍が倒れる音。
番兵が振り返る。
板金が弾み、閂が軽く浮く。
――コトリ。音もなく扉が開いた。
扉を静かに押し、影のように廊下へ滑り出る。 踊り場の影に、灰髪の侍女が立っていた。
「夫人の“沈黙は終わる”、私が受け取りました 。この外套を。髪は隠して。西階段、搬入口が開いています。十七刻には閉じられます」
アルフレッドは短く頷き、外套を受け取る。
「礼は、あとで言おう」
塔の外では霧雨が降り出していた。
風が頬を打つ。
(リリアナ、今行くぞ)
灰の瞳が、王城の灯を見据えた。
*
大広間。
リリアナは、ラザールと向かい合っていた。
「夫人、“記録”を拝見いたしましょう」
(閣下。――どうか来て下さりますように)
リリアナは、ひと息置いて前に出た。
――その瞬間、北塔の方角で短い鐘が鳴る。
その音は、祈りのように静かで確かな響きだった。
最後までお付き合いくださり、誠に光栄にございます。
次の刻は、王城大広間――リリアナの言葉とアルフレッドの帰還が交差する瞬間をお届けいたします。
どうぞご期待くださいませ。




