第044話 ー嵐の前の朝ー
おかえりなさいませ。本日は嵐の前の静けさと、動き出す策謀の気配をご覧いただきます。
静かな朝に潜む火種を、どうぞ胸にお納めくださいませ。
夜が明けた王都は、どこか冷たかった。
春の光が差しているのに、風は妙に湿り気を帯び、屋敷の外を吹き抜けるたびに小さな砂を巻き上げる。
街では人々が行き交い、鐘の音が響く。だが、その音の下に微かな沈黙が混じっていた。
リリアナは広間の窓辺に立ち、淡い光を見つめていた。
机の上には、まだ乾ききらないインクの跡――昨夜、アルフレッドが王妃の日記を写し取っていた証だ。
あの夜から、王都の空気はわずかに変わった気がしていた。
人々の視線が鋭くなり、廊下の物音さえも慎重になったように感じる。
(……見られている)
背筋に冷たい感覚が走る。
そこへ、扉を叩く音が響いた。
「奥方様、陛下より伝令にございます」
現れたのは王都の兵士だった。王家の紋章を刻んだ胸甲が光を弾く。
「辺境伯アルフレッド閣下を、ただちに王宮へお招きしたいとのご命令です」
「再び、ですか」
「はい。陛下ならびに評議会の決定とのこと。……加えて、夫人の同行はお控え願いたいとも」
リリアナは短く息を吸い、静かに微笑んだ。
「承知いたしました。閣下には私からお伝えします。――“わたくしは待つ”と」
その声は穏やかだったが、瞳の奥には鋭い光が宿っていた。
兵士は少し戸惑ったように頭を下げ、足早に退出した。
扉が閉まると、静寂が戻る。
リリアナは窓の外を見つめ、胸の奥で呟いた。
(待つとは、沈黙ではない。……目を逸らさず、見届けるということ)
その少し後、アルフレッドが戻ってきた。
「呼び出しか」
「はい。王都の兵士が命を伝えに」
「王の命令という名の罠、だな」
アルフレッドの声は低く、灰色の瞳が静かに光る。
「昨日、父と対話したばかりだというのに。早すぎる。……宰相の差し金だろう」
「きっとそうでしょう。あの方は、動くのが早い人です」
リリアナの言葉に、アルフレッドは短く頷いた。
「王都が何を仕掛けてきても、こちらに罪はない。だが――」
「疑いの形を作るのは簡単ですものね」
リリアナの声は静かだが、微かな怒りが滲む。
アルフレッドは彼女の肩に手を置き、目を細めた。
「この呼び出しの裏には、俺を孤立させたい意図がある。お前を“離す”ための策だ」
「ならば、離れません」
「いや、今回は行かない方がいい。お前が動けば、奴らに“利用される口実”を与える」
リリアナは唇を結び、しばらく沈黙したあと小さく微笑んだ。
「では、見ています。閣下が王都の中でどんな嵐を起こすのか」
その微笑に、アルフレッドの口元がわずかに緩む。
「嵐、か。ならば風を吹かせるのは俺の役目だ。……お前はその風の行方を見届けてくれ」
外では、早くも王宮からの馬車が門前に停まっていた。
王都の兵士たちは黙したまま列を整え、冷たい金属の光が朝の陽を反射する。
アルフレッドは外套を翻し、振り返らずに言った。
「屋敷には王都の目が入る。警戒を怠るな。お前の“沈黙”が、俺を守る」
「承知しました。けれど、沈黙はただの静けさではありません」
「知っている。お前は沈黙の中で、誰よりも多くを見ている」
その言葉を残し、アルフレッドは王都の兵に従って屋敷を出た。
残されたリリアナは、閉まった扉を見つめながら小さく息を吐いた。
広間の影が長く伸び、朝の光がゆっくりと差し込む。
ふと、視界の端に人影が動いた。
廊下の角をすれ違うように消えた侍女の後ろ姿。
(……あの人、昨夜も見た)
足音を忍ばせて近づくと、廊下の先に小さな扉がある。
扉が閉まる寸前、侍女の手元に黒い封書が見えた。
封蝋には、宰相ラザールの印。
リリアナは立ち止まり、静かに目を閉じた。
「やはり、もう動いているのね……」
王都の朝は静かに見えた。
だが、その下では確実に火が回り始めていた。
灰の血を狙う者たちの足音が、まだ遠くで響いている。
最後までお付き合いくださり、誠に光栄にございます。
次の刻は、王都の評議会での再謁見と、仕組まれた罠が明らかになる刻をお届けいたします。
どうぞご期待くださいませ。




