第036話 ー仕組まれた帳簿ー
おかえりなさいませ。本日は王都の策謀と、それを見抜く閣下の威厳をご覧いただきます。信じ合う力の強さを、どうぞ胸にお納めくださいませ。
王都の検査が始まって三日目。春の光が差す中にも、城館には冷たい緊張が満ちていた。
グレゴリー率いる検査官たちは、毎日帳簿を開いては細かく数字を指摘し、倉庫の在庫をひとつひとつ数えていった。表向きは公正そのもの。だが、リリアナの胸には日に日に不穏が積もっていく。
夕刻、孤児院の支援金を確認していた最中、グレゴリーが静かに声をかけてきた。
「奥方様。――この帳簿、奇妙ですね」
「奇妙?」
「はい。三日前の記録と、本日の残高が一致しません。十金貨、消えています」
リリアナは驚き、慌てて帳簿を開いた。確かに数字がずれている。だがその項目は、昨日まで確かに合っていたはずだった。
「そんなはずは……昨日の夜に確認しました。間違いは――」
「では、夜のうちに誰かが触れたのかもしれませんね」
穏やかな声に、ぞくりと背筋が冷える。グレゴリーは眉を下げ、悲しげな笑みを浮かべた。
「もちろん、奥方様を疑うわけではありません。ただ、王都に報告せねばならぬ義務がありまして」
その“義務”という言葉が、皮肉のように響いた。
夜、執務室に報告が届く。
「夫人が管理する孤児院の会計に、不明金があるとのことです」
報告書を手にしたアルフレッドの灰色の瞳が、わずかに鋭さを増す。
「不明金、だと?」
マティアスが慌てて口を開く。
「奥方様の帳簿は私も確認しました。誤りなど――」
「わたくしも記憶しています。昨日までは確かに合っていました」
リリアナの声は震えていた。胸の奥に、怒りと悔しさが同時に渦巻く。
アルフレッドは静かに立ち上がり、机に両手を置いた。
「……王都の検査官に伝えろ。明朝、全会計の照合を行う。――俺の目の前でだ」
低い声が響き、広間の空気が震える。誰も逆らえぬ威圧。灰色の瞳が夜の炎のように光っていた。
翌朝。検査官たちが広間に集められ、机の上にはすべての帳簿が並べられた。
グレゴリーは余裕の笑みを浮かべ、リリアナの方を見やる。
「お手を煩わせて申し訳ありません、閣下。ですが、数字は嘘をつきませんので」
「数字は確かに嘘をつかぬ。――だからこそ、仕組んだ者が暴かれる」
アルフレッドの声が冷たく響いた。
照合が始まり、各担当者が数字を読み上げる。ひとつ、またひとつと帳簿が一致していく。
そして問題の孤児院の項目に差し掛かった時、アルフレッドが低く命じた。
「記録用の用紙を見せろ」
グレゴリーが差し出した帳簿。その端を、アルフレッドの指が軽くなぞった。指先に触れたのは――細い切り口。
灰色の瞳が細められる。
「……新しい紙を継ぎ足してあるな」
「なっ……!」
場が凍りついた。リリアナは息を呑み、グレゴリーの顔から笑みが消える。
アルフレッドは破り取った紙を掲げた。そこに貼られていたのは、王都の検査院印。
「王都の書式を使って、帳簿を改ざんしたか。――貴様の方が不正を働いていたとはな」
低く静かな声。それは怒声よりも恐ろしい威圧だった。
グレゴリーの顔色がみるみるうちに青ざめる。
「ま、待ってください! これは……!」
「言い訳は王都でせよ。俺の領で、妻を貶めた罪は軽くは済まぬ」
リリアナは胸の奥が熱くなり、言葉を失った。周囲の家臣たちは息を潜め、誰も動かない。
アルフレッドがゆっくりと彼女の方に振り向く。
「リリアナ。君を疑うことなど、一度もなかった」
短い言葉に、全ての信頼が込められていた。
その瞬間、リリアナの頬を熱い涙が伝った。
守られている。――けれど、それだけではない。彼は自分を信じている。その重みが、何よりの誇りだった。
王都の検査官たちは沈黙したまま連れ出され、広間に静寂が戻る。
アルフレッドは小さく息を吐き、彼女の肩に手を置いた。
「義務で始まった婚姻だったが……信じることは義務ではない。選んだことだ」
リリアナは頷き、静かに微笑んだ。
「――選ばれることを、誇りに思います」
雪解けの光が二人を包み、窓の外には新しい季節の風が吹き抜けていた。
最後までお付き合いくださり、誠に光栄にございます。次の刻は、失脚した検査官の残した影と、新たに動き出す王都の陰謀をお届けいたします。どうぞご期待くださいませ。




