第035話 ー検査官の影ー
おかえりなさいませ。本日は王都の検査官の到来と、かつての因縁の再会をご覧いただきます。静かに燃える火花を、どうぞ胸にお納めくださいませ。
王都の検査官が到着したのは、春の陽光がわずかに雪を照らし始めた頃だった。城門の前に並んだ馬車の列から降り立ったのは、絹の外套をまとった男たち。冷ややかな笑みを浮かべる彼らの背後には、王都の紋章を刻んだ旗がはためいていた。
先頭に立つ男が名乗る。
「王都経理院監査部所属、グレゴリー・ハートウェル。以後お見知りおきを」
声はやけに柔らかく、それでいて底の見えぬ響きを帯びていた。
「本日より、辺境伯領の財務状況および資源管理を確認させていただきます。……王都の命令により」
大広間に緊張が走る。家臣たちは顔を見合わせ、リリアナも胸の奥に冷たいものが走った。
その名――グレゴリー。
かつて王都で、彼女の家に仕えていた執事の息子。幼い頃、幾度か顔を合わせたことがある。穏やかな笑みの裏に、いつも何かを計るような目をしていた記憶がよみがえる。
「お久しぶりですね、リリアナ様」
彼の視線がまっすぐに向けられる。
「まさか、こんな形で再会できるとは」
その声音は懐かしさよりも皮肉に近かった。
リリアナは背筋を伸ばし、静かに微笑む。
「お久しぶりです、グレゴリー殿。どうぞ、領の真実をご覧くださいませ。隠すことなど、何もございません」
その瞬間、アルフレッドの灰色の瞳がわずかに細まった。
「検査を望むなら協力は惜しまぬ。ただし――この地の秩序を乱す真似は許さぬ」
低く響く声に、広間の空気が凍りつく。グレゴリーはにこやかに微笑み、軽く頭を下げた。
「もちろんですとも。陛下のために、正しき記録を残すだけです」
その“正しき”という言葉の裏に、毒のような含みがあった。
その日の午後、検査官たちは倉庫や帳簿を調べ始めた。
リリアナはその案内役として同行する。彼女の背後では、グレゴリーが静かに視線を送っていた。
「辺境とは思えぬ整然とした記録です。――まるで王都の書庫のようだ」
「民の暮らしを守るには、数字を正しく見ることが大切です」
「なるほど。……さすが、辺境伯夫人。お育ちの良さは隠せませんな」
柔らかな口調の奥に、刺のようなものが混じる。リリアナはそれを感じ取っていた。
彼が倉庫の奥で小さく呟いた言葉が耳に残る。
「やはり……“王家の血”は隠せぬものですね」
その一言で、空気が凍りつく。振り向いたリリアナの視線が彼を捉えた。
「今、なんと?」
「いえ……書庫の印章が王家の旧式に似ていたもので。気にしないでください」
涼しい顔のまま、グレゴリーは記録帳にさらさらと筆を走らせた。
夜、報告を受けたアルフレッドは黙したまま窓辺に立ち、灰色の瞳を細めた。
「王都は調査の名を借りて、血筋の真実を探っている」
「……では、あの言葉はやはり」
「確信はない。だが奴らが嗅ぎ回る以上、間違いなく何かを掴んでいる」
リリアナは唇を噛みしめ、拳を握る。
「彼らに、この地の尊厳を踏みにじらせてはなりません」
アルフレッドはゆっくりと彼女の肩に手を置いた。
「踏みにじらせはしない。お前がいてくれる限り、俺はこの地を守れる」
その言葉は静かに、しかし深く響いた。
窓の外では雪解けの雫が光を反射し、まるで春の息吹が闇を押し返しているようだった。
リリアナはその光を見つめながら、胸の奥で確信する。
(たとえ過去がどうであれ、わたしはこの人の隣で戦うわ。――それが、妻としての誓い)
最後までお付き合いくださり、誠に光栄にございます。次の刻は、検査官の真意と、夫婦が見せる反撃の一手をお届けいたします。どうぞご期待くださいませ。




