第032話 ー血の影ー
おかえりなさいませ。本日は王都の使者が放った不穏な言葉をご覧いただきます。血の影がちらりと見える、そのざわめきを胸にお納めくださいませ。
雪は小康状態となり、領都の道には人々が再び行き交っていた。市場の屋台からは干し魚や燻製肉の匂いが漂い、子どもたちが雪の上で追いかけっこをしている。見慣れた日常が戻りつつあるように見えたが――城館の空気は決して安らいでいなかった。
その日の午後、王都から派遣された使者の一団が広間を占拠していた。前回と同じ役人ではなく、さらに数を増し、鎧に身を包んだ兵士を伴っている。執務室の扉が開かれた瞬間、冷たい風が吹き込み、人々は思わず身をすくめた。
「辺境伯殿」
使者の長はわざとらしい笑みを浮かべ、巻物を机に広げる。
「評議会の決定により、さらに税を増やすこととなった。これは王都のため、陛下のためである」
ざわつく声が広間を満たす。すでに限界に近い要求をさらに上乗せするなど、狂気としか思えなかった。リリアナは喉の奥が熱くなり、思わず声を漏らす。
「……これでは領が立ち行きません。人々が飢えてしまう」
だが使者は冷笑を浮かべた。
「飢えるかどうかは王都の知ったことではない。辺境が潰れようと、代わりはいくらでもいるのだから」
その言葉に広間の空気が張り詰める。アルフレッドは静かに席を立ち、使者に近づいた。
「筋の通らぬ命令に従うつもりはない」
低く冷たい声。灰色の瞳が鋭く光り、使者は一瞬たじろいだ。
しかし彼は負けじと鼻で笑い、ふと声を潜めて呟いた。
「……やはり“王家の血”は脅威だということか」
その瞬間、リリアナの心臓が大きく跳ねた。周囲の家臣たちも息を呑み、ざわめきが広がる。
(王家の……血?)
アルフレッドは表情を動かさなかった。だが彼の目の奥に、一瞬だけ鋭い影が走ったのをリリアナは見逃さなかった。
「何を意味するのですか」
マティアスが杖を強く打ち鳴らし、使者を睨む。
「不用意な言葉は命取りになりますぞ」
使者はわざとらしく肩を竦め、にやりと笑った。
「いや、ただの噂にすぎませんよ。……辺境伯殿が誰の子であるかなど、我々の知ったことではない」
そう言い捨て、巻物を机に叩きつけると、使者は兵を従えて退出した。重い扉が閉ざされたあとも、広間には不穏なざわめきが残り続けた。
リリアナは拳を握り、唇を震わせながらアルフレッドを見つめた。
「閣下……今の言葉、どういう意味なのですか」
だが彼は答えなかった。代わりに背を向け、冷たい声だけを残す。
「――気にするな。王都が何を囁こうとも、この地を守ることに変わりはない」
彼の背中は広く、揺るぎない。けれどリリアナの胸には、拭えぬ疑念が芽生えていた。
その夜。机に向かい、震える指で日記を開いた。
「王都が辺境を憎む理由……資源だけではない。閣下の過去に、何かがある」
窓の外には雪が再び舞い始め、白い影が夜空を覆っていた。だがリリアナの胸の奥では、黒い影が静かに広がりつつあった。
最後までお付き合いくださり、誠に光栄にございます。次の刻は、この影に揺れるリリアナの思いと、夫婦の絆を描いてまいります。どうぞお楽しみにお待ちくださいませ。




